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 アオイイシ


 青く煌く石に目が惹きつけられた。まるで磁力に引きつけられるかのように足がガラスケースに向かって勝手に動いていた。
 自分の意志とは関係なく動く身体に、僕は戸惑う。
 男の僕が、その青い宝石に心動かす必然性はない。それこそ、誰かに贈るというのならともかく。
 でもまだ、大枚はたいて宝石を買いたいと思うようなそんな相手に巡り合えていないんだ。
 ただ、何かに焦らされるように、町往く人たちの中に誰かを探している自分に、気づかないほど鈍感ではないのだけれど。
 誰を探しているのか、生憎とわからない。
 これという経験もないのだけれど……。
 青い石の前に立ち固まった僕に、カウンターから注がれる視線。
 店主が客とは呼べない僕に対して、不審に感じているだろうことは頬に刺さる感触でわかる。
 実際、僕は客じゃない。ここには父さんが作った細工の品を卸しに来ただけだ。
 もう用は済んだのだから、帰ればいい。
 なのに――足が動いてくれない。
「魅入られたか」
 ぽつりと呟く声に、僕は首だけを動かした。
 カウンターの向こうで店主がゆっくりと立ち上がり、こちらへと近づいてくる。
「魅入られた……?」
 呆然と問い返す僕に、店主はガラスのショーケースを開いて飾られていた青い石を取り出した。指に摘まんだその石を僕の目の前に掲げると、造作もなく手を離した。
 空をすとんと落ちて来る青い石に、僕はとっさに手を伸ばす。
 手のひらに受け止めた瞬間、僕の中に強い思念のイメージが波のように押し寄せて来た。

                     * * *


 青い海に別れを告げて、私は焼けた砂地を裸足で歩いて行く。
じりと足の裏に食い込む小さな砂粒の最後の抵抗が、ガラスのような鋭さを持って、私を痛めつける。
 肌を突き刺す大地の厳しさを身を持って感じて、穏やかだった青い水面の優しさを、改めて思い知る。
 私をゆるやかに包み込んで愛してくれた、母なる海よ。
 ごめんなさい。
 幾ら謝ったところで、海を捨てた私の存在は許されないと思うけれど。
 それでも、叶えたい想いがあるの。
 恋を知り海を捨てた私の罪を、許さなくて構わない。
 ただ、私が青い海を愛していたことだけは、今も愛していることだけは、信じて欲しい。

 日差しの強さに、目眩を覚えても。私は一歩一歩、歩く。
 足の裏の皮膚を裂いて、大地が私を拒絶しても、止められない想いがあるの。
 海を捨てた私を、どれだけ責め立てても構わない。
 これがあの人への愛の証になるのなら、千里の道も歩き続けて見せよう。

 海しか知らない私は異邦人。
 声は海の底に沈めてきた。
 想いを伝える言葉すら持たなくても、それでも構わないの。
 あの人にもう一度、逢いたい。海によく似た青い瞳にもう一度、私の姿を映して……。
 それだけでいい。それ以上は望まない。
 だから、お願い。
 私の歩みを止めようとしないで。
 身体中から、血が失せても。
 最後まで、歩かせて。
 あの人への愛の証を命尽きるまで、証明させて――。

                    * * *

 その強い思念を何と呼ぼう。
 何と呼べばいいのだろう。
 切ないくらいの、祈り、願い、想い。
 誰かを強く強く想って、彼女は海を捨てて、歩いた。
 声を代償に人間の姿を得た彼女は……青い海に住んでいた人魚。
「その石は……人魚姫の涙と呼ばれている」
 店主の声に僕は顔を上げた。
 瞳からこぼれ出して止まらない涙に、視界はぼやけている。
「――人魚」
「泡にならずに石に変ったんだ、その人魚は。王子が住む城に辿り着く前に……最も、辿り着いたところで童話よろしく、王子とは結ばれなかっただろうがな」
 店主が肩を竦めたのが気配でわかった。
 人魚姫の物語は悲劇に決まっている。
 人と人魚の恋なんて、例え当人同士が良くっても、周りが許してくれない。
 そんなことは言われずともわかっていた。
 けれど、それでも。
 人魚は王子を愛して、海を捨てた。そして、王子は――。
 僕は反射的に叫んでいた。
「違います! 泡になったりしません。だって、王子は――僕は、ずっと待っていた! そう度々、城を抜け出せなかったけど、海へ通って彼女を探していたんだっ!」
 もう一度、会おうと約束した。もう一度、会えたのならきっと運命の恋だと確信できるはずだった。
 その時は、国を捨てても構わない――そう思って……。
 海を見つめ続けた。
「……そうか、魅入られたんじゃない。巡り合ったんだな、お前らは」
 どこか納得したような店主の言葉に、僕は頷く。
 僕は自分が探していたものが、ようやくわかった。
 僕が探し続けていたのは、彼女だ。
 何度も海を訪れ、探した。生まれ変わっても、求めた。
 一生に一度――いや、魂が求めた恋の相手。
「この石を売ってください。今の僕はお金なんて持っていないけれど……」
 何年掛かっても――そう告げようとした僕に、店主は口を開いた。
「人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまうからな。金なんか要らないよ、持って行きな」
 そう言って、踵を返す。
「……ありがとう」
 僕は手のひらの青い石を握りしめて礼を言った。
 そうして、眼前に青い石を掲げて、僕は笑いかける。

「――やあ、やっと会えたね」

 青い海で出会った、僕の愛しい人魚姫。


                                  「アオイイシ 完