星屑断章・目次へトップへ本棚へ


 我が君へ


 宴のざわめきを遠くに聞いて、夜の帳が下りた庭園へと降りて行く姫君の背中を追う。
 誰も僕らを追って来る者はいない。
 姫君は迷わぬ足取りで夜を行く。
 一人は怖いの――と言っておきながら、振り返ることなく歩みを進める。ドレスの裾を星明かりに閃かせ、泳ぐように花々の間を歩いて行く。僕が決して、姫君を一人にしないと信じているからこその、歩みの強さ。
 眩いくらいの星影の下で、僕は姫君の背中に囁いた。
 星の光に夜の闇は淡く青色に染まっていた。まるで水底のような静謐な夜に、僕の想いは形となった。
「あなたが好きです」
 この声が――届かなければ、諦めようか。
 そう思いながら、きっと届くと確信して告げた言葉に、先行くあなたは立ち止った。
 闇に溶ける漆黒の髪に包まれた白い面は、風に揺れる小花のように、首を揺らして僕を振り返る。
「……えっ?」
 淡い紅の唇が微かに震え、問い返す。
 聞こえなかったわけではなく、信じられなかったのだろう。
 僕は微笑みながら繰り返した。
「あなたが好きです、我が君」
 ずっと、曖昧にしていた心を明かせば、姫君は眼を見開いた。
 黒曜石のような瞳に散るは、無数の星屑。やがて、光は潤んで、静かに頬を流れた。
「――何で今さら、そんなことを言うのっ?」
 責める口調がそのまま拳となって、僕の胸を打つ。
「どうして今さら、そんなことを言うのっ! わたくしを置いて、行く癖にっ!」
 胸を突いた痛みは、慕ってくれた姫君の心を弄んだ天罰だろうと、僕は笑う。
 それにしても、決死の告白が信じてもらえないなんて、切ないですね。
 ふふふっと、笑い声をこぼせば、姫君が僕を睨む。
「やっぱり、わたくしをからかっているのねっ? そんなことをして、何が楽しいの?」
「――姫様の怒ったお顔が」
 そう告げれば、真珠色の肌が朱に染まった。くるりと踵を返して、走り去ろうとする姫君の腕を掴んで引き寄せた。
 息が触れるその距離に気がついて、緊張に凍りついた姫君に、僕は唇を解く。
 星明かりの下で、輝いて見える白肌にそっと手を伸ばして、熱を持つ頬を包み込んだ。
「――追い詰められなければ、こうして姫様に触れる勇気すら持てないんです、僕は」
 本当は出会ったその日に、恋に落ちていた。
 天真爛漫な姫君が、剣を持つことを許されたばかりの僕のもとへ、駆け寄ってきた日から。
 いや、黒曜石の瞳に僕の姿が映ったその瞬間から。
 僕の心は絡めとられて、動けなくなった。
 僕の頼りない背中に隠れて、怒る教育係の目から逃れようとした、その無謀も。
 代わりに怒られてしまった僕に、泣いて謝るその弱さも。
 弾ける笑顔も、何かを訴えるように甘える瞳も。
 すべてが愛おしくて。
 王に捧げたはずの僕の剣は――いつしか、ただ一人のあなたのために。
 だけど、明け透けな姫君の心を知りながら、僕は想いを語ることはなかった。
 下級貴族出の一介の騎士が、王家の姫君に恋慕するなど、許されやしなかったから。
『分を弁えろ。姫様の好意に甘えるな――』
 釘をさす声は、うなだれる僕を励ますように続けた。
『それでも欲するなら、姫様に相応しくなれ。王は決して、視野の狭い方ではない』
 少しずつ足場を固め、地位を築いて上って――ようやく王の御前に立てるようになるまでの、この年月。
 長い回り道を知れば、きっと姫君は「弱虫」と、僕を詰るだろう。
「攫って逃げろ」と、無茶を言っていただろう。
 だからこそ、心を語れなかった。
 王や王妃に愛され、兄王子たちから可愛がられる姫君を奪う覚悟はあっても、僕はあなたにはいつでも微笑んで、輝いていて欲しかったから。
 ならば、自分が姫君の元へと――手のひらに血を滲ませて重ねた努力を、あなたへの想いの証として受け取ってくださいませんか。
「どうして、今なの……」
 背中に回った小さな手が、旅立つ僕を引き留めるように、掴む。
「どうして、今になって……心を残していくようなことを言うの?」
 夜が明ければ、僕は戦場へと向かっている。
 戦況は五分と五分。次の一手が勝敗を決めるだろうと、言われている。
 それ故に、今度の出陣には国王の信頼が厚い部隊が前線へ友軍として派遣される。そして、僕はその軍の一端を担っていた。
 壮行会でもあった宴に僕もまた国の勝利を誓ったけれど、争いを恐れる姫君には、明るい未来など見えないらしい。
 だから、震えているのだろう。これきりだと不安になっているのだろう。
 その不安は、僕の胸にもあったけれど……。
 追い詰められて、ようやく辿り着いた決心。
 震える肩を強く抱きしめ、あなたとの未来を語りましょう。
「心を残して行くわけではありません。約束を語っているのです」
「……約束?」
「僕はあなたのために戦います」
「……いやよ、そんなこと。行かないで、傍にいて」
 僕の胸の中で、姫君は首を振る。こぼれる涙が僕の軍服を濡らして、胸に沁みる。
「聞いてください、姫様。この戦で負ければ、当然ながら王家の姫君であるあなたは、敵国の手に落ちましょう」
「――……っ」
 不吉な予言を聞けば、黒の瞳に怯えが宿る。
 敵国の王子は好色だと聞く。
 月日を重ね磨き上げられた、この黒曜石の美しさを知れば、必ずや手に入れようとするだろう。命を救って貰えるだけ幸いと喜ぶべきか。
 ――否。
 誰一人として、我が姫君に触れることは許さない。
「あなたを守ります。この国も、あなたが愛する人たちも」
「わたくしの愛する人はあなたよ」
「では、僕も含めて」
「絶対に、帰って来て」
「帰ってくるなと言われずに良かった」
 黒い睫毛にたまった涙を拭って、そっと口づけを落とす。
 ずっと、欲しかった未来にようやく手が届くのに、どうして、不安に屈することができますか?
 必ずや、あなたの元に帰ってきましょう。
 ――あなたと生きたい。
 そう願うから、必ず帰ってきます。
 武勲(ぶくん)を携え、王にあなたを賜ることをお許し頂くために。
 だから、信じてください。
 今宵、あなたに心を明かした僕の決心を――。
 そして、未来に怯えないでください。
 ――僕とあなたの未来はただ一つ。
 必ずや、あなたの笑顔をお守りします。

 我が愛しき姫君へ。
 この誓いを永久とわに捧げましょう。


                             「我が君へ 完」