蒼の雫
思い出の中の君の声をなぞる様に歌っていた僕の声は、言葉が続かなくて、閉ざした唇の内側で音を失くした。
途切れた歌に、筆を動かしていた指先も止まる。
結果、勢いを失くした筆先は行き場に迷って立ち止まり、透明水彩の青い絵の具で描こうとした空の境界線は、ただのつまらない青い棒となって、スケッチブックの上に静かに横たわる。
ぽたりと落ちた水滴に、やがてそっと、青は滲むように溶けていく。
滴り降る雫は青の痕跡すら流して消してしまうのかな。
人魚姫が泡に消えたように、透明な水に溶けてアオは――海に還る。
溶けあった青の空と碧い海は境を失くすんだろう。
君の身体が白い煙となって空に溶けたように。
どうしてだろうね?
何度も何度も、聴いたはずの歌の続きを思い出せない。
君との思い出は、何一つ余すことなく憶えていようと誓ったのに――まるで迷子になったように、楽しげに歌っていたあの日の君を見つけ出せない。
君の声が聴こえない。歌の続きが思い出せない。
もう一度初めから歌を口ずさんで、そして途切れる言の音は僕の空白の心に慟哭として響き始める。
溢れた涙は絵の具の軌跡を溶かして、描くはずだった風景を消し去った。
君と過ごした日々を描き遺しておこうとすることを拒むように、スケッチブックは真白のまま――。
――泡になって消えるのよ、私。
王子様であるあなたを置いて、一人で逝くの。人魚姫みたいね。
長く生きられないと、君の命は初めから定められていた。それを承知で、愛したはずなのに、僕は希望に縋っていたんだ。
君が消える日なんて、永遠に来るはずがないと信じていた。
――王子様みたいに、私のことは忘れていいわ。
別のお姫様と幸せになってね?
切なく笑う君に、「僕は残念ながら、王子様じゃないよ」と笑顔を返した。
君がいなくて、どうして幸せになれるというの。第一に、君が消える日なんて、来るわけない。
今日も明日も明後日も――君と僕の変わらない日々が続く。
消えるだなんて、悲しいことを言わないで。
僕は君の唇を塞いで、夢を見ていた。
終わらない夢を。変わらない未来を。
――永遠なんて、嘘よ。そんなものを望んだら、終わりだわ。
何も変わらないということは、何もかも終わったということよ。
明日を望むのなら、夜が明けることを願うの。
「君がいない明日なんて、要らないよ」
我がままを言う僕に、君は困った顔を見せたよね。
――そんなことを言わないで。
私は一日でも、あなたと過ごす明日が欲しいのよ?
君がいないのなら明日なんて要らないと、時間が止まることを望んだ僕。
僕と一緒に過ごすために明日が欲しいと、時間が続くことを願った君。
望んだものは同じはずなのにね。
君がいて、僕がいて。
だけど、時の流れが残酷に僕から君を奪うことを君だけは知っていた。
僕はそうなる現実から目を逸らしていた。
――あのね、あなたがどうしても永遠を信じるというのなら、明日を願って。一秒でも長く、未来を求めて。
そうしたら、きっと。私の命はあなたのなかで続いて行くから。
このスケッチブックにはあなたの未来を描いて。私、あなたの絵が大好きだったのよ。だから、あなたが見る新しい風景を描いて、私に見せて?
そう君は言ったけれど、歌が続かない。
君がいない日常を生きて、繰り返される時の中に、置き去りにされていく思い出は、薄れて溶けていく。
君が消えて行きそうで、一人が寂しくて、誰かを求めてしまう。それが怖くてたまらなかった。
君を裏切りたくはないのに、ずっと君だけを愛していたかったのに。
――それでいいのよ。一人でも大丈夫だなんて、寂しいことを言わないで。私があなたと一緒にいることを望んだのは、優しい温もりが欲しかったからよ?
初めから置いて逝くことを知っていて、それでも私はあなたが与えてくれる幸せを求めたの。
だから、あなたも誰かを求めることを罪だと思わないで。
もう一度、幸せを望んで。
私を忘れたら、誰かあなたを幸せにしてくれる人を見つけて。
楽しかった思い出は遠のくのに、忘れていたいと願った思い出だけが、どうしてこんなにも鮮やかに蘇るんだろう。
――私があなたにあげられる、最期の言葉をどうか受け取ってね。
僕は蒼い雫をスケッチブックの上にこぼしながら、途切れた歌の代わりに君の最期の言葉を口にした。
――さようなら。私が愛した人。
……さようなら。僕が愛した人。
「蒼の雫 完」
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