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 怪奇な家


 軒先で微風にガラスの風鈴が涼しげな旋律を歌う、少しくたびれた感じがするその家には老人が一人暮らしていた。
 通りに面した生垣の向こう、開けた庭に面する縁側で風鈴の音色に耳を傾けるようにして、老人はくつろいでいた。
 老人というにはそこまで年老いた印象はないが、会社で多くの人に敬われ、惜しまれつつ定年退職して、穏やかな老後を末長く過ごすことを求めているような、そんな感じの年輩の男性だった。
 実際、慕われていたのだろうと思う。
 その家には、時折出入りする人々の姿があったからだ。
 それはスーツを着た中年の男性であったり、着物姿の楚々とした女性であったり。
 決して、孤独な老人というわけではなかったのだろう。
 私は日常に追われ、その老人のことをしばらく、忘れてしまった。
 しかし、風鈴の音色に惹かれてふと立ち止まり、件の家を眺めてみると、老人の姿は消えていた。いつも老人が佇んでいた縁側に人影は見えないのだ。
 疑問に思いながらも通りを行き過ぎること数日。家を観察した結果、老人の代わりに、一組の男女がその家に住み着いているようであった。
 老人はどこへ行ったのであろう。私は首を傾げて、立ち止まる。
 時の移ろいを振り返れば、住人が入れ替わったところでおかしくはない月日が流れていた。
 私が無意識のうちに通り過ぎていた日々の間に、老人は家を出たのか。
 もしくは、何かの病をえて、亡くなってしまったのか。
 私は呆然となった。
 何と、無関心に過ごしてしまったのであろう。
 もしかしたら老人は家の中で苦しみ悶え、壁を叩いていたかも知れぬ。
 私が通りを行き過ぎる際に、もっと注意深く周りを見つめていれば、異変に気が付いて老人を助けることができたのではなかろうか。
 独居老人の孤独死が昨今のニュースで伝えられているというのに、人は未だに隣人に対しても無関心である。
 この無関心のせいで、どれだけの人々が苦しみの中で死んでいったのか。
 老人の孤独死だけではない。子供への虐待といった、周りの人間の注意一つで救えた命があるのなら、私たちは自分たちの行いを見つめ返すべきなのかも知れない。
 他人事で見つめている現実が、いずれ我が身に跳ね返ってきたとき、責めるべきは己の無関心であったことを後悔することになるだろうからだ。
 日々の営みの中、消費されるもの対して掛けられた税金の行方さえ、私たちはあまりに無関心すぎる。
 国の借金が増え、やがてはその負担が自らの肩にのし掛かってこようとするのに、国庫を預かる者たちは、金は尽きることがないと勘違いしているのではないだろうか。
 無駄遣いされる税金の使い道をもう少し見つめ返せば、孤独死する老人を救えるかも知れぬ。
 無関心の罪を私は激しく恥じた。
 私はその日から、老人が住んでいた家を意識的に見つめることにした。
 もしかしたら新たな住人は、老人の縁者であるかもしれぬ。老人は単に身体を壊して、住まいを移しただけかもしれない。
 空いた家を放置しておくのが忍びなく、親類が住み着いたのかもしれない。
 私は声を掛ける機会を伺いながら、その家を観察した。
 一組の男女を私は夫婦かと思ったが、どうやら違うようである。氏名が同じではないのだ。
 夫婦別姓が今の世に珍しくないとはいえ、どうにも年代的に違和感を覚えてやまない。
 ざわざわと奇妙な感触が私の胸の内を撫でる。
 そういえば、老人の名は何であっただろうか。
 記憶の端にあったその名を思い出せば、男女のどちらの氏とも一致しない。
 赤の他人であったのか。
 落胆を覚え、その家の前を通り過ぎようとしたとき、私の脳裏を掠める何かがあった。
 思わず立ち止まり肩越しに振り返れば、庭先に男女の姿があり、その顔に見覚えがあるではないか。
 その二人は、老人の元に訪ねてきていたスーツの男性と着物姿の女性だったのだ。
 赤の他人と言うわけではなかったが、親類だったのかと納得するには、私はどうしてか釈然としなかった。
 警鐘が胸の内で鳴っている。
 だが、何がどう間違っているのか、判然としない。
 私はまた注意深く、その家の住人を観察することにした。
 家の前を通り過ぎる際に、さりげなく様子を探れば、男と女は変わらずに暮らしているようだった。
 仲睦まじいとは言い難いが、さして問題があるようには見えなかった。
 私の勘ぐりすぎであろうか。猜疑の目で見つめるから、怪しくない者も怪しいと見えてしまうのか。
 己に自信が持てなくなったとき、私は異変に気づいた。
 女の姿が、ここ数日、見えなくなっている。
 その代わりに別の男がその家に住み着いていた。
 しかも驚くことに、もう一人の男性は女と共に暮らしていた男と瓜二つの姿をしていた。まるで双子である。
 私はこの事実に、考えを巡らせた。
 どういうことだろう。
 老人が消えた後に住み着いた男女。その女はもしかしたら、老人の縁者だったのか。
 老人が亡くなった後、遺産としてこの家を貰い受けたとしたら、さほど驚くべきことではないだろう。よそに嫁いだ娘であったら、老人と氏が違っていて当然だろう。
 女は老人からその家と財産を受け継いだ。
 では、男は何者か。
 夫婦と言うには、女が消えた後も男の態度はあまり変わらないように見える。
 動揺しているようにも、悲しみに暮れているようにも見えない。
 この鉄仮面のごとき平素な顔の裏で、男は女の遺産を得るがごとく、近づいたのではないか。
 そして、頃合いを見て、兄弟と画策して女を消したのではないか。
 その家には誰もが知り得ない財宝が眠っているのだとしたら、老人が行方不明になった件もはなはだ怪しく見えてくる。
 私はこの事実を誰かに相談すべきなのだろうか。しかし、すべては私の想像したこと。
 私の預かり知れぬところで、老人は生きているのかもしれない。女もまた、生きているのかも知れない。
 だが、すべてのことを無視するには、危うい気がする。
 私は私ができることとして、その家を観察し続けた。
 そして、また気が付いたときに男の兄弟が消えて、やがて、その家からは誰もいなくなっていた。
 一体、何が起こったのだろう。
 私は誰もいなくなった家を前に自問自答する。
 だけど、私には疑惑を覚えども、決定的な答えが見つけだせなかった。
 そして、時が巡り、その家に新たな住人が住み着いた。和服を着た頑固そうな老人である。
 私は新たな住人に挨拶代わりに、この家の怪奇を語る。もし私の想像が正しければ、いずれこの老人も消えてしまうのだと。
 私の予感が語っていたのだった。
 なぜなら…………。





 ― 出演 ―

 老人 福沢諭吉(一万円札)
 女性 樋口一葉(五千円札)
 男性 野口英世(千円札)
 私  消費者
 

 ― ロケ地 ―

 とある人物の財布の中
 (……もしかしたら、あなた?)


                            「怪奇な家 完」