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 もう一度、会いたくて


「今夜辺り、花が咲きそうだよ」
 そう囁いた僕の声に応えるのは、無機質な機械の振動音。
 僕の呼気と君のあまりにも深い寝息の狭間に、窓辺で真白いカーテンがそよ風に揺れる。風をはらんで、さわりと泳ぐカーテンの衣擦れの音が、僕の耳には君の声に聞こえた。
 微かな笑みを含んで、「本当?」と問いかけているような、そんな気がしたんだ。
 君の眠りは果てしなく深くて、僕の声など届かないというのにね。
 空調で冷えすぎた室内温度を調整するために、開けていた窓を静かに閉じた。
 四角い窓の外は夏の青空が広がっている。
 正面を向いた僕の視線に映る空は、遮るものが一つもない。まるで画用紙を青一色で塗り付けたかのような光景は、この部屋が最上階にあるからだろう。
 天国に一番近いと、誰かが冗談で言ったとき、僕は背筋が冷たくなったことを覚えている。
 だってさ、天国に逝くには、まだ早い。
 ねぇ、そうだろう?
 多分、君は眠り姫。悪い魔女の呪いにかけられて、少しだけ長い眠りについているだけさ。
 時がくれば、王子様のキスで目覚めるのだろう。
 生憎と、今の僕では王子様の役は果たせないでいるけれど。
 僕の諦めの悪さは、君だって承知しているだろう。君が観念して目を覚ますまで、僕は足繁く通い続けよう。
「それじゃあ、また明日」
 シーツの上に投げ出された君の痩せた手首を軽く包み込んで、微弱ながらも確かに感じる脈動を確かめ、僕は明日の約束を口にした。
 部屋を立ち去りかけて、思い出す。
「そうそう、今宵は七夕なんだよ、君は知ってた?」
 僕は肩越しに君の寝顔を振り返る。
「この天気なら、夜は星空が綺麗だろうね。天の川では、織り姫と彦星が一年に一度の逢瀬を楽しむのかな」
 生命維持装置が吐き出す低い低い唸り声に、僕は笑う。
 羨ましくはないよ、きっと僕も今宵は君に会えるはずだろう?
 あの夏の日の思い出を、僕は忘れていないから。


 何かが足りないと、キャンバスを前に君は呟いた。
 白衣を着た君の肩越しに絵を覗き込む。
 黒が溶け込んだ青い闇に塗り込められた中で、少女は月明かりを受けて仄かに輝きながら眠っている。
 雪のように白い肌とシンプルな真白のワンピースが、崩れた廃墟の外壁から顔を覗かせた欠けた月の光りを反射しているのだろう。
 蔦が縦横無尽に這っている崩れた石壁。触れれば脆く朽ちそうな木製の柱がまるで十字架のような残骸の下、廃墟の中で夜に眠る少女。
 挿し絵画家になりたいと夢を見ていた君の画風は、幻想的でどこかメルヘンチックだ。
 眠り姫をモチーフにしたのかなと、僕は思う。
『そう? 十分によくできていると思うけれど』
 絵心なんてないに等しい僕には、芸術の善し悪しなどは皆目、見当がつかないけれど。
 それでも、君の絵が僕は好きだ。そこに描かれる光景や人物から、物語が浮かんでくる気がしていた。
 僕は拙い童話作家志望で、だから僕と君はお互いが足りないものを補うべく、いつしか側にいた。
 文芸部と美術部。校舎の端と端で、本来ならかかわり合うはずもなかったのに、気がつけば、まるで一緒にいるのが当たり前のように、なっていた。
『でも、もうちょっと、こう神秘性というか。そういうものをね』 
 君は唇を尖らせて、不満を口にする。
 妥協を知らない君のおかげで、僕も夢に対して諦めが悪くなった。
 来年から先に社会人になってしまう僕だったけれど、夢を夢のまま、終わらせるつもりもなかった。
『神秘性ね……。あ、そうだ。ねぇ、今日の夜、僕の部屋に来ない?』
『なんでいきなりデートのお誘いなの?』
 君は僕を振り返って、呆れたように眉を下げた。
『違う、違う。いや、まったく違うってわけでもなく』
『何なの? どっちよ?』
 下心ありありのお誘いと勘違いされたら、少しだけ僕の沽券に関わるので否定した。ただ、全面否定しないのは、君と過ごしたいというやましい欲望が男として、まったくないわけじゃなかったからだけど。
 そうして君が怒っていないということは、お断りというわけではないだろう。僕はちょっとだけ口元が緩みそうになるのを誤魔化しながら言った。
『花がね、咲きそうなんだ』
『花?』
『そう、月下美人。夜にだけ咲く花だよ。じっと観察していると花がね、開いていく音が聞こえるんだ。生きているみたいな感じで花ひらく様は神秘的だよ。君は見たことがある?』
 そう僕の問いかけに、首を横に振った君が結局、花が咲いたのを目にしたのは、その晩の一度きりだった。


 ベランダで育てていた月下美人の花は、夜が少しずつ深まっていくのに対して、白い花を広げていく。
 花が開けば、濃厚な花の芳香が漂う。室内に広がる。
 その香りはまるで絹か何かの衣のように、僕を包み込み、懐かしい夢に誘う。
 白い花を目にし、一心不乱にスケッチブックに鉛筆を走らせる君の横顔を見つめ、僕はあの日、心に決めた。
 君とずっと一緒に生きていこう――と。
 二人なら、どんなに挫けそうになっても、互いを支えていける。
 そう信じて、君もまた頷いてくれた。
 何も怖いものはないと思っていたけれど、事故という思わぬ災厄が襲いかかり、君の未来は奪われた。
 意識を取り戻すことなく眠り続ける君に、君の両親は、君のことを忘れて、僕には僕の人生を歩いて欲しいと言う。
 それはとても優しい思いやりだろう。
 だけど、もう一度、君に会いたいと願う気持ちは、五年の月日が経っても枯れることはなく、花の香りに夢を見る。
 一夜限りの白い花と共に目覚める少女を描き上げて、満足そうに微笑んだあの日の君は言ったよね。
『眠り続けるよりも、長い眠りから目覚める始まり――こっちの方が、私らしいと思わない?』
 僕の童話が受賞した際、受け取った賞金で買った指輪とプロポーズを受け入れながらも、
『ありがとう。私もあなたに負けず、夢を叶えるから』
 と、負けず嫌いに宣言した君の声が今も忘れらず、夢で響くから。
 七夕の織り姫と彦星のような、一夜限りの夢だとしても、
「ただ一度だけ会いたくて」
 ――そんな花の言葉に願いを込めて。
 僕は君の絵と寄り添うための物語を紡ぎ、君が目覚めるそのときまで、花を育て続けよう。


                           「もう一度、会いたくて 完」