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 王の聖婚


 ティルガは空を仰ぐように、天頂へと続く(リア・ファール)の階段を見上げた。
 彼の黒曜石の瞳に映る吹きさらしの石段は、雪のように真白色。本来ならば長年の風雨に晒されては灰色にくすみ削られ、足場も脆くなっていても、おかしくはないはずだった。
 何故なら、その石段は何千年もの時、女神の元へ参る王の固い靴底に踏みしかれて来たのだ。
 彼自身が昇った回数は、天に瞬く星の数以上ではないかとすら思える。毎日毎日、時には一日に二度、三度と女神の元へ通った。
 王と成りし者は大地の夫として、天の女神ルディアンヌと【聖婚(ヒエロス・ガモス)】する。それによって、王と認められるのだ。
 決して、この腕に抱くことは出来ない女神との婚姻は、一種の契約であった。
 人々に選ばれた者だけが、女神の神殿に訪れることができ、女神に認められた者こそが王に成れる。
 神殿に赴き、帰って来た者が統治者となる。それがエードラム王国の掟であった。
 彼は額に落ちた黒髪の間から黒曜石の瞳を微かに眇め、神山の天頂に聳える神殿を見やった。
 一点の染みもない白の石段、空を刺し貫く剣のような白い神殿。
 その神殿の奥に女神ルディアンヌは降臨し、誰にも穢されることのない聖域に続く道のりは、限られた者のみだけが昇ることを許される。
 ティルガは先代の王に後継者として選ばれ神殿を訪ね、自らが王となってからの時を思った。
 女神に認められた王は、不老と化す。当時二十を二つ越えたばかりのティルガの肉体の時は止まり老いることなく、三百年近くエードラム王国の王として君臨し続けた。
 女神の夫として、それに相応しくあり続ける努力をして来た。
 初めて、この石段を昇り、女神の神殿に訪れたときから――今日まで。
 恐らく、王国の誰もがそれは明日も明後日も、変わらずに続くのだろうと信じている。どうして、昨日までの平穏な日々が突如として失われると思うのか。
 彼は息を呑んで、自らの心臓の上に置いた。至高の紫を纏うこの胸の奥の心臓は、人と変わらずに脈を打つ。
 不老を得ても、決して不死には成りえない。王が神には成れぬように、彼は永遠の時を生きることは出来ない。女神に触れることが出来ないように……。
「何が……夫か」
 グッと握った拳に、絹の衣は皺を寄せる。噛んだ唇の端から苦い息が漏れた。
 焦がれるだけしか許されない夫など、馬鹿げている。その結論に至るまでの道のりの遠さに、ティルガは眩暈を覚えた。そして決して気づいてはならなかった事実に、気づいてしまった己の愚かさにも怒りを覚えた。
「どうして、気づいたっ!」
 苦々しげに吐き捨てた声に、彼はクイッと顎を上げると決意を込めて、石段へと足を踏み出す。
 いつもより身体が重いと感じるのは、気のせいだろう。自らが下した結論に迷いがあるからなのかもしれない。
 もしかしたら、今日は駄目でも、明日こそは女神を抱きしめることが出来るかもしれない。そんな期待がくすぶり続けている。それは長年、ティルガを生かしてきた動機でもあった。
 初めて女神と対面し、かの女神の美しさに心を奪われてから、彼は女神に会えることを支えに生きてきた。
 王として、夫として相応しければ、神殿はティルガを拒まない。彼は女神の姿を黒曜石の瞳に刻むことができるのだ。
 最初の頃は、その喜びに浮かれていた。
 女神はティルガの話に興味深く耳を傾け、彼の統治が国を安定させていれば、心の底から微笑んで見せた。街の活気を語れば瞳は輝き、季節の美しさを謳えば夢見るような眼差しを見せる。
 その笑みが、その喜びが、王である自ら手によって生み出されたものと思えば、ティルガの身は熱く燃える。
 次第に姿はあれど、決して触れることが叶わないことに苛立ちを覚えた。
 だが、荒んだ心では統治は上手く行かない。王として資格を失えば、女神に会うことも叶わない。
 彼は心静かに、女神に触れられる日が来ることを待ち、それまで王であろうとした。
 そうして――三百年だ。
 ティルガの唇の端から、苦い笑いが漏れた。よくもそんな長い時間、自分を騙し続けてこられたものだと呆れる。周りの者たちは老いて死に逝き、数多の顔ぶれが変わり、最初に自らに仕えた者の名前すら思い出せなくなるような時の果て。
 時が止まったことで、自身の中にある感覚が狂ったのか。その狂いに今さらながら、気づいてしまったのか。
 老いることなく望めば永久に玉座にあり続けることも出来たであろう先王が、わざわざティルガを後継に指名したのか、解かるような気がした。
 カツンと石段に靴音を響かせ、ティルガはまた一段、女神への距離を縮める。
 どんなに近づいたところで、この指先は女神の白皙の肌に触れることは叶わない。苦い思いがティルガの胸の内で切なさによじれる。
 玲瓏な美貌を包み込む月明かりを縒ったような銀の髪にも、淡く色づいた頬にも、誘うような妖艶な赤い唇にも、届くことはない。
 白魚のような指に、真珠のような爪に口づけを落とすことすら許されない。
 何故なら女神の真の姿は、天にある。この地上に降臨しているのは、女神の影にすぎないのだ。
 決して、人が神の領域に辿りつけないように、王は女神の真の夫になることは出来ない。
 どんなに恋焦がれても、どんなに愛してると訴えても、女神は煌めくオパールの瞳にティルガを映して、寂しげに微笑み、清廉な声で告げる。
「――叶わないのよ、ティルガ。わたくしがあなたに触れるそのときは、あなたが王ではなくなる、そのときだけ……」
 その言葉は、死を意味していた。
 王でなくなれば、契約が解かれれば、ティルガの肉体は瞬きの間に三百年の時を過ぎる。肉も骨も塵すら残さずに、ティルガは歴史に名を刻んで消えるのだと、女神は語った。
 女神の指先がティルガに触れた瞬間、彼は消える。決して、ティルガから女神に触れることは出来ないのだと、赤い唇は囁いた。
 歴代の王たちはそうして女神の前で消えて逝ったのだろう。
「わたくしを愛していると言うのなら、どうか。今のままで、あなたの治世をわたくしに見守らせて……」
 置いて行かれた女神の微かに震えるその願いに、祈りに、ティルガと同じ恋情が含まれているように感じたのは錯覚だっただろうか。
 そこに真実を感じたからこそ、自分は三百年の時を超えてこられたのではないか。
 だが、もうそれも終わりだ。
 真白き(きざはし)を昇る度に、削られていたのはティルガの正気だったのかもしれない。
 例え、最期になるのだとしても、女神の指先で触れて欲しい――愚かな恋情に支配された終焉をティルガは望んでしまったのだから。


                              「王の聖婚 完」


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