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お題提供・色彩の綾


 花浅葱(はなあさぎ)の衣


 窓ガラスをしとり打つ雨音の狭間で、君の声が響いた。
「おにいさま、如何です」
 鈴の音の声に導かれ、机上に置いた書物の文字の海から顔を上げれば、華やかな色彩が僕の視界を埋め尽くした。
 緑と言うのも躊躇うし、青と呼ぶには緑が勝ちすぎる。
 藍よりは淡く、浅葱よりは濃い。

 ――愛よりは、恋。

 言葉遊びのように、脳内で文字を置きかえる。途端に意味は別のものへとすり替わった。
 それは唇が吐く嘘と同じだ。
 語る言葉の意味が相手に通じなければ虚しいだけ。
 僕の真意と同じように。君の真意と同じように。
 いつ頃からだろう。僕たちが言葉遊びをするように本音を隠して、嘘を付くようになったのは。
「綺麗な色だね。青? ――ああ、縹色という色名もあったかな」
 緑とも青とも言いかねるその色彩に、つい僕も拘ってしまう。色なんて、どうでもいいだろうと思うけれど。
「花浅葱と言うそうですわ、おにいさま」
「……花浅葱」
 僕は舌の上で、その色名を転がす。
「露草で染めたそうです」
 君はそう説明して、くるりとその場で身をよじり、一回転して見せた。艶やかな黒髪がふわりと空を泳ぐさまを僕は目を細めて見守った。
 君の一挙手一投足を見つめてきた日々は、どれだけになるだろう。
 一日を待たずして、君は美しくなるようだ。ある日、我が家にやって来た小さかった童女は、今はうら若き乙女へと。
 そんな感慨にふける僕の視界で、色彩がさらに溢れた。
 花浅葱の地に大輪の白き華が咲いている。白薔薇の連なりに、色を違えた紅薔薇が目を惹く。薔薇(そうび)は季節を問わず好まれる模様だという話を僕に語って聞かせたのは、君だっただろうか。
「……その着物は初めて見るかな?」
 小首を傾げる僕に、君は己の衣装に目を落とす。
「ええ、今日のためにおかあさまが拵えてくださったんです」
「ああ……」
 今日は君の婚約が公表される。系譜を遡れば殿様というようなお相手は、さる財閥の御曹司だ。眉目秀麗で、将来も明るいと評判だ。
 家名を名乗ったところで特に感動を与えない我が家には、やや分不相応にも思える縁組だけれど、御曹司に熱烈に想われたのなら、君も悪い気はしないだろう。
「とても、よく似合うよ」
「あら、お顔は馬子にも衣装と仰っていますわよ」
 僕の世辞に、君は紅をぬった唇をつんと尖らし、素っ気ない声で返して来る。
 真意に踏み込まない適度な距離を測って、互いの懐を探り合う。いつもの遊戯の始まりだと、僕は笑って応えた。
「よくわかったね?」
 心にもないことを捻くれた唇は呟く。君の美しさに見惚れた先程の僕は、どこの誰だというのだろう。
 しかし、心の本音はきっと誰にも明かせない。
 血の繋がらない妹に、恋情を抱いているなどと。しがない女学校の講師など、御曹司とくらぶべくもない。
 その性根の弱さに君もまた気づかないふりをして、やり過ごす。
 嘘をついて誤魔化し、僕たちは兄と妹という、世間が見なす関係を演じてきた。それはきっとこれからも、変わることなく、続くのだろう。
「おにいさまのお言葉には誤魔化されませんわ」
 君は挑むような眼差しで僕を睨んだ後、窓の外に目を向けた。雨の音に混じって、君を迎えに来た車の音がする。
 僅かに眉を顰め、取り繕うように早口で告げる。
「もう、参りませんと」
 扉へと背を向ける刹那、君と僕の視線が絡まった。
「……行って参ります、おにいさま」
 ほんの一瞬、何かを言いかけるような間をおいて、君は扉の向こうを消える。引き止めて欲しかったのかと、思うけれど。
 僕は一歩も動けずに、閉ざされた扉に向かって囁く。
「幸せにおなり」
 君に対して、僕の言葉が嘘に変わってしまうのなら。
 僕は君の聞こえないところで、君の幸せを願おう。
 花浅葱の衣に咲いた薔薇のように美しく、愛されて。

 情けない男の後悔を笑って、幸せにおなり。


                              「花浅葱の衣 完」

西條八十著作の詩、「嘘」をイメージしております。(西條八十詩集158Pに収録)
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