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 最後の祈り


 繰り返される悪夢にすり減らされた、浅い眠りから目覚めれば、レースのカーテンの向こうから差し込む光りに目を焼かれた。白く眩んだ視界の向こうに、私は儚い影を見た気がした。
 でもそれは幻だと既に知っている。
 あなたはもう、この世にはいないから。
 ゆっくりと身体を起こし、カーテンを透かすように目を眇めて首を窓へと巡らせた。春の訪れを告げる明るい日差しに、梢の影がカーテンの波間に揺れている。
 穏やかな春風にさざめく葉音は、遠くから届くあなたの――リカードの声みたい。そう思った瞬間から、私の喉は震えた。

『アデル、幸せになって……』

 あなたが私に囁いた、耳の奥にこだまする最後の祈りは、今は果てしなく重たいの。
 ねえ、リカード。あなたは命の重さを知っているかしら?
 私は知っているわ。押し潰されそうなくらい、重くて、投げ出すことも叶わない枷となって私を縛る。
 あなたが望んだ結果がこれだったとしたならば、あなたは私を手に入れたことになるでしょう。
 あなたの求愛に、私は首を横に振った。あなたが私を大切に思ってくれていたことは知っていたわ。そしてリカード、あなたといる時間は、決して居心地の悪いものではなかった。
 何故なら私たちは生まれたときから、あの日まで同じ村で育った。同じ空気を吸って、同じ風景を眺めて、同じことを体験した。
 だけど、想いの向かう先は、それぞれ別の人を選んでしまった。あなたは私を選んだけれど、私が選んだのはリカード、あなたじゃない。私はもう一人の幼馴染み、レイを選んでいた。
『レイと……結婚するの?』
『皆にはまだ内緒だけれど、六月になったら……』
『そうなんだ』
 あなたを拒んだ私を、見つめ返したその瞳に宿った失望と諦観は、既にあなたも私の想いを知っていたのね。
 それでも想いを告げてくれたのは、あなたが後悔しないためだったの? それとも、一縷の望みを繋いでのことだったの?
 鈍く頭を支配する、この永遠に答えを得ることのない問いに、私は軽く首を振った。
 長く伸びた柔らかな髪が頬を打って、肩へと流れる。冷たい額に両の指を添えて、私は手のひらで顔を覆う。
 もう何度、泣けばこの罪は許されるのだろう。
 リカード、あなたは私を助けて、私の代わりに命を散らした。
 馬車に跳ねられ、石畳に叩きつけられるはずだった私の身体はかすり傷を負って。だけど君は車輪に轢かれて、血まみれの遺体を晒した。
 引き裂かれた肉の、切り裂かれた血管の、砕かれた骨の、白と赤に染められた光景は悪夢となりて毎夜、私を襲う。
 あなたの求婚を私が拒んだその帰り道に――あなたは最後の祈りを残して、逝った。
 ねぇ、リカード。どうして、あなたは私を助けたの? 私はあなたを拒んだのに、私はあなたを求めなかったのに。
 こんな女のために、あなたが命を散らす必要なんて、なかったはずなのに。
「ごめんなさい、許して……」
 震える声で、私は見えない幻に向かって謝る。
 リカード、あなたが亡くなってから、もう一年。あの日から、私は泣いて許しを請うている。
 決して、この声はあなたに届くはずがない。そして、私は永遠に許されることはないのでしょう。
 耳に入り込んでくる教会の鐘の音に、私は涙を拭って寝台から起き上がった。軽い眩暈を覚えるけれど、唇を噛んで身体を支えた。クローゼットから、黒いワンピースを取り出して、身につける。
 昨年の六月に、レイのためにまとうはずだった純白の花嫁衣装は、黒衣へと変わった。
 リカード、あなたのために私は喪服を着るの。私に許される贖罪は、あなたの死をこの身にまとうこと。たかがワンピース一枚なのに、酷く重たいわ。

『どうして、あの子が死ななければならなかったのっ!』

 過去からまとわりつく怨嗟の声は、あなたのお母さまのもの。怒りの衝動そのままに、翻った手のひらは私の頬を強かに打った。あの時の頬の痛みを忘れてはいない。忘れてはならない。
 故に毎日、喪服に身を包み、悪夢に蝕まれた重たい身体を引きずって、あなたの墓に私は花を捧げる。
 その道すがら、あなたの家の前を通れば、あなたのお母さまが薄く開いたカーテンの隙間から私を観察しているのがわかるわ。刺すような視線はそちらを見なくても、わかるのよ。
 あの人は、私を許さない。だから、私が許されることはないのだと、わかっているのに。
 目覚めるたびに、私は許される日が来ることを願うの。
 そんなことを願うことすら、許されてはならないのに。
 ねぇ、リカード、知っている?
 村の皆は私を可哀想と囁くの。あなたを亡くして、あなたの命を背負って一人生きていかなければならないから。
 どこでどう間違えられたのか、私はあなたの花嫁になることになっていた。私が選んだのは、あなたではなく、レイだったというのによ。
 あなたの死は私の未来すら奪った。
 誰もが私に、あなたの死を忘れることを許さない。この重さ、あなたは知っているかしら。私はあなたの命の重さに押し潰され、狂いそうよ。
 どうして、あの時、あなたではなく私が死ななかったのだろうと、埒もないことを考える。助けてくれなんて頼まなかったわ――と、恨みごとの一つもこぼしたくなる。
 なんて、酷い女でしょう!
 ねぇ、リカード。こんな私なんて、あなたの命と引き換えにする価値なんてあった?
 そうじゃないことは、あなたのお母さまの言葉を聞けばわかるわね。ああ、どうすれば、あなたを取り戻せるのかしら。
 あなたを取り戻すためなら、私はこの命を捨てても構わない。

『アデル、君が助かって良かったよ。息子の分まで、生きてくれ。きっとリカードもそれを願っているだろう』

 なのに、あなたのお父さまは、私に重い十字架を背負わせた。この生から、逃げることも許されない。
 がんじがらめの鎖に縛られて、私は静かに涙を流す。きっと、誰もがあなたを想っての涙だと思うのでしょうね。
 でも、この涙はあなたのための涙じゃない。私が背負った苦しみの涙。私の、散らせない命が泣いているの。
 慟哭に身体が震えて、歩くこともままならず、私は道の端に身体をうずめた。両肩を抱いて座り込んだ私の耳に、駆け寄って来る足音が聞こえる。
「アデル」
 声が鼓膜に触れて、顔を上げる。涙で曇った視界の先にいるのは、リカード、あなたではない。だって、あなたはこの世にはいないから。
「……レイ」
「大丈夫か? また、眠れていないんだろ。顔色が悪い……」
 そっと労わるように触れて来る手のひらの温かさに、私は身を強張らせた。刺すような視線を遠くからでも感じるわ。
「構わないで……」
 震える声で懇願し、私はレイの手から我が身を引き剥がす。泥の地べたに手を突いて、這うように離れる。
「アデルっ!」
 叱咤するような声が背中を追ってくるけれど、私は振り向けない。振り返ってはいけないと、唇を噛んで立ち上がり、ふらつく足取りで教会の墓地を目指す。
 リカード、あなたの命を背負ったときから、私はレイの――最愛の人の手をとることを禁じられた。
 誰もが皆、彼と私が幸せになることを許しはしない。
 何故ならリカード、あなたは私のために命を落としたから。
 それなのに、私があなたではなく違う人間を選ぶだなんて、こんな薄情なことはないでしょう。
 他人の幸せを奪った人間が、幸せになることなど許されてはならないの。
「もう、いいだろ。アデル」
 レイの声が私の後を追ってくる。今にでもその声に捕まりそうになるのを私は首を振って逃れた。
「自分を責めるなよ。こんなこと、リカードだって望んじゃいなかったさ」
 ええ、きっと。そう信じられたら、どれだけ救われるだろう。
 今だって、レイの温かく大きな手のひらに縋りたい。彼の胸の中で声を上げて泣きたい。彼の腕に抱かれて、悪い夢を見ない夜を過ごしたい。
 だけど、リカードの祈りの声は遠く、他の声に掻き消されるの。

 ――アデル、幸せになって……。

 リカード、あなたが祈った幸いを私はまだ見つけられない。


                               「最後の祈り 完」