14,夜が明けるまで 「どうして、そんなことを言うの?」 まるで、決定事項みたいに、『忘れろ』と言い放つ冴樹に、私は問い返した。 「……そうしないと、引きずるだろ、お前は」 眉間に皺を刻み苦々しく表情を歪めて、冴樹は続けた。 「俺がお前を突き放したところで、綺羅は自分の胸の中に全部溜め込んでしまうだろ? ……子供だった頃から、そうやって全部を我慢して、お前はどれだけ傷ついてきた?」 「……傷ついてなんて」 「…………綺羅」 冴樹は何かを飲み込むようにして、唇を結んだ。何とか、私を説得しようと言葉を探す彼に私は、 「でも、冴樹は言ったわ」 青灰色の瞳を見据えて、言った。 「辛いことがあるからこそ、幸せを幸せと感じられると。冴樹は……昔、言っていたわ」 「…………それは」 「確かに私は……両親の不仲に、傷ついたと思う。それを自分の親にも言えなかったわ。でも、今ではその経験も無駄ではなかったと思うの」 「…………」 黙ったままの冴樹に変わって、樹さんが問いかけてきた。 「傷ついて、良かったの?」 「はい。だって……そのおかげで、私は冴樹や樹さんの優しさに触れることができましたから」 私の心を労わってくれようとした、二人のその優しさは、両親の不仲に傷ついていたからこそ、触れることができた。 勿論、何もなくても、隣人の彼らは私には優しかっただろうと思う。 だけど、痛みを知らない私はそのとき、その優しさに気づくことはできなかったのではないだろうか。 当たり前のように、受け止めて。世界中が優しいとばかりに誤解して。 傷つかなければ、知らないこともある。 失くして、初めて気づくこともある。 先輩のことも、そう。先輩は私の悩みに向き合おうとしてくれていた。私はそれに気づかずに、自分の中に仕舞いこんで。先輩を逆に遠ざけることになった。 遠ざかった距離に傷ついて、その傷もまた、自分の内側に仕舞いこんで。 だけど……そうして、傷ついたことで、気づいたこともある。 「誰だって、傷つきたくはないと思う。でも、傷つかないでいられることなんて、多分、少ないんだわ。ただ、人を好きになること、それだけでも……傷つくの。人の想いは様々で、一方通行の方が多いのだから」 冴樹を好きになっても、冴樹は私を好きになってくれない。 でも、それでも、冴樹を好きだと思う気持ちは……失くしたくない。 ここで、別れることになっても、冴樹が私にくれた優しさや思い出は私の宝物で。例え、苦さが付きまとったとしても。 「だけど、私は好きになったことを後悔したくない。失くしたくはない」 こうして、気持ちを引っ張り続ける私が冴樹にとっては、重たいのだろう。 長い時間を生きる彼は、割り切れずにずっと引きずってしまうから。私のことを、これまでに出会ってきた人たちを、忘れないから。 だから、私の記憶を消して。私が幸せになることを願って……。 遠く離れたところで、彼は私の幸せを願い続けるのだろう。 樹さんが冴さんを相手にそうしたように……。 自分の手で幸せにできないのなら……と。 誰に対しても優しい二人は、ただひたすらに願うのだろう。置き去りにされた時間のなかで、今までに出会った人たちの幸せを。 いっそのこと、冴樹たちが私たちのことを忘れればいい。 そう思って、私は言った。 「……冴樹が私のことを忘れて?」 冴樹は唇を結んだまま、私を見据える。 「私は覚えている。もう側にいることは望まない。一緒にいたいとは言わないから、私には思い出を残して……冴樹が私のことを忘れて」 「……忘れられると思っているのか?」 低く押し殺した声で、冴樹が問う。 「……忘れられるはずはない。忘れられない。……わかっている、無茶なことを言っているんだって。自分のことを棚にあげて、俺のことを忘れろなんて」 でも、お前たちの時間は短いから……、と冴樹は呻くように言った。 「夏の夜みたいに、短くて。その短い時間を、俺のことで無駄にするな。俺は何もしてやれないんだ」 樹さんは冴さんに愛されながらも、逃げることしかできなかった。 冴樹も兄妹に出会って、受け入れてもらいながら、やっぱり逃げることしかできなかった。 それは、私たちと冴樹の生きている時間軸が違うから。 正常な時計と壊れた時計が刻む時間の、ずれていく隙間を埋められないことは、明白で。 その隙間にまた、大切な人たちを傷つけてしまうと、優しい彼らは知っているから。 全てをなかったことにして、逃げ出すことしかできないのだ。 「だけど……冴樹。私はもう、傷つくことを辛いとは思わない」 そっと距離を縮めて、私は冴樹に手を伸ばした。 「傷ついて、苦しいことがあった。でも、同時に優しさも知ったの。だから、私は傷ついてもいいの。優しさをちゃんと知っているから」 冴樹は私のことを好きでいてくれている……それは、私が望んだ形なのか、よくはわからないけれど。 私のことを傷つけないようにしようと、この町を去ろうとする冴樹は、私のことを彼なりの優しさで大切にしようとしてくれている。 ……その気持ちが、十分に伝わってくる。 「冴樹は言ったわ。夜は必ず明けるのだと。……幾つもの夜を繰り返して、人は生きるのよ。朝が来て、夜が来て、そんな毎日の繰り返しのなかで、私は生きているの。きっと……この日の記憶も……いつか薄れていくわ。この想いも、思い出になるの」 痛みも思い出に変わる。 それは優しい記憶へと。 だから、心配しないで欲しい。私は傷ついても、笑えるわ。 「でも、そのときまで。思い出は残して欲しいの」 私は冴樹に微笑んでいた。 長い間、私が涙を流すことがなかったのは、多分、我慢していたからじゃない。二人の記憶が優しく、私を支えてくれたから。 私は母の死にも向き合えた。先輩からの別れ話にも。 「……本当にそれでいいの? 多分、二度と会えないよ」 樹さんが私の背中に、静かに問いかける。私は小さく頷いた。 「はい。会えなくても、思い出があれば構いません。誰かを好きになれたこと、それはとても大切なことなんです。両親のこと、先輩のことで、私は正直、もう誰かを好きになることはないと思っていました。でも、冴樹に会えて、私はまた人を好きなれた」 大切なことも学んだ。もしも、心が通じ合えたら……今度はもっと相手を信用しよう。 一人で抱え込むのではなく、相談に乗ってもらおう。信頼関係を築かないことには、きっと気持ちは長く続かない。 「これから、私が誰かを好きになるためには、この気持ちを失くしたら駄目なのよ」 私は冴樹を見上げて言った。 この想いが私を変えたから。私を変えるから。 「……それ、最強の切り札だな」 冴樹が苦笑して、私に手を差し出してきた。それは握手を求めるような形で、私は彼の手を取った――すると、グイッと引き寄せられて、抱きしめられた。 「……俺、綺羅が好きだぜ」 「……冴樹」 「だけど……ごめん。俺は弱いんだ。一緒にいればいるほど、別れるときが怖くなる」 冴樹の寿命を考えれば、確実に私は彼を置いていく。置いていかれるその辛さを何十年、何百年、背負って生きろなんて、そんな残酷なことは言えない。 「……私の気持ちを受け入れてくれただけで、いいの」 冴樹が生きていく果てのない時間に、私は付き合うことができないのなら。 側にいてなんて、我が儘は言ってはいけない。 * * * * 「……綺羅の記憶を消してくれないか?」 俺の頼みに、樹は一拍の間を置いて、言った。 「……冴樹ちゃん、それでいいの?」 母さんが樹によって、記憶を消された結果を知っていて、同じ決断を下す俺を樹は馬鹿だと思うだろうか。 ……自分でも、どうしてこんな答えを選ぼうとするのか、その心理はわからない。 ただ、このまま姿を消せば、綺羅は俺のことを引きずってしまうだろう。 何にでも我慢してしまう綺羅は、俺の弱さを責めることなく、心の奥底にしまって、泣きたいことも我慢して。 そういう人間だ。小さい頃から、何一つ変わっていない。 だから、がんじがらめの心を解いてやりたかった。俺なんかのことは忘れて、他の男を好きになれるように。 同じ時間を生きていくことができないこんな俺が、人間たちの世界で暮らすなんて、はなから間違っているのかもしれない。 樹がその昔――母さんと出会う前のように――山の奥、暗闇の中でひっそりと生きていたように、人と関わらずに生きていれば。 別れなんて、知らずに済んだのだろう。記憶を消すなんて真似も選ばずに済んだだろう。 それでも、俺は……。 俺の中に流れる半分の血が、時間を止めてしまった後も、光の中に生きることを求めてしまう。 ずっと、輪の中に居続けることなんてできないと、わかっていても尚。 馬鹿なことを言い合うそんな日常とか……手放せない。 何も考えずに笑えることが、俺にとってどれほど救いになるのかなんて、誰も知らないだろ? 何もないような日常だけど。そこには……暗闇の中で生まれてきたことを呪うような、俺はいない。 樹と母さんが出会ったこと、二人が愛し合って……俺が生まれたことだけは、否定したくない。 沢山のものを失くしても、こんな苦しい思いをしなくても済んだのかな、と本音を漏らしながらも。 それでも「冴樹ちゃんがいてくれて、嬉しい」と笑う、その笑顔を曇らせることがないように。 俺も笑っていたいから……。 光の中を選んだ。沢山の別れを選んだ。 そして、綺羅にも……笑っていて欲しい。 凍える夜に泣いた後、スッキリとした笑い顔を見せたあの日のように。 その眩しい笑顔をずっと、持っていて欲しいと思うから。 「――――ああ」 長い思考時間を経て、俺は樹の問いに頷いた。 それが、多分、樹が選んだ答えで。 俺が選んだ答えだった。 ……けれど、綺羅は記憶を消すなと言って……笑った。 * * * * 「……私を好きになってくれて、ありがとう。冴樹が好きよ」 冴樹の胸の中で私は笑う。苦しいけど、私は笑える。 だから、冴樹も笑って欲しい、と見上げた視線の先、 「……俺も、ありがとうな」 冴樹は耳元でそう囁くと、淡く微笑んだ。 そして、ゆっくりと、惜しむように――それは私の願望かもしれないけれど――私を解放した。 「……行こう、樹」 冴樹はじっと私を見据えた後、目を逸らして樹さんに呼びかける。 「……うん。綺羅ちゃん、冴樹ちゃんを好きになってくれてありがとう。元気でね」 樹さんも淡く微笑むと、冴樹と並んで歩き出した。 静々と二人は歩いていく。振り返らない。振り返れないことを、私は知っている。 これから彼らが生きていく時間を、彩る思い出は笑顔だけでいい。 泣いているかも知れない、そんな私を振り返ることなんて、二人にはできないのだ。 私は二人の背中を目に焼き付け、冴樹の笑顔の残像を、記憶に残すようにそっと目を伏せた。 そして、凍える外気に私は震える両手の指をギュッと組み合わせて、願う。 いつか、夜が明けるまで。 ……この想いが、移り変わるときまで。 ……いいえ。例え、移り変わっても……願おう。 私に与えてくれた優しさが……どうか、彼らの長い夜の道筋の果てに、たくさんの笑顔を与えてくれることを。 そして、冴樹が笑ってくれればいい。 彼が私にそう望んでくれたように、私も願い、冴樹の笑顔を胸にこれからを生きていく。優しい思い出と一緒に。 「いつか、夜が明けるまで 完」 |