13,決別 冬休みは何も変わらなく過ぎていく。 姉と先輩の二人は受験生であることで、一緒に勉強するという口実――口実というわけではないのだろうけれど――恋人同士としての時間を満喫していた。 妹の世話を買って出た私に、姉は恐縮した様子で尋ねてきた。 「鬼堂さんとは、お出かけしないの?」 「……うん」 どんな顔で冴樹に会いに行けばいいのか、わからない。 坂の上へ登っていけば、そこに冴樹と樹さんはいるだろう。樹さんは前と変わらずに私を迎えてくれるかもしれない。 でも、冴樹は? 私に自分のことを忘れろと言った……冴樹は、前と変わらずに私に笑いかけてくれないに違いない。 「喧嘩でもしたの?」 「……何も。ただ、ちょっと用があるって言っていたから」 私は嘘をついて、姉に出かける時間はいいのか? と、問いかけた。 まだ、もう少し大丈夫よ、と言って、姉は私の顔を覗く。 「あのね、綺羅ちゃん。綺羅ちゃんにしてみれば、私は頼りないお姉さんかもしれないけど、それでも相談して欲しいの。一人で抱え込まなくて、いいんだよ? 私、綺羅ちゃんのために、一生懸命に解決方法を探すから」 「ありがとう。でも、本当に何でもないから」 優しい姉の言葉に、私は甘えることはできなかった。 我慢しなくていいと、冴樹は言った。 だから、冴樹に好きだと告げた。それなのに……。 私と冴樹の距離は、変えられなかった。 言ったところで、何も変えられないのなら、相手をとまどわすだけ。 ならば、辛い気持ちは心の中に収めていよう。傷つくのは私一人でいい。 皆、優しくて。そんな優しい人たちを悩ませる必然性なんて、どこにもないのだから。 「綺羅ちゃん……あのね」 何かを言いかけた姉の言葉を遮るように、家の電話が鳴った。 「誰だろう、私出るね」 私の腕の中で妹がぐずりだしたので、姉が玄関先に置いた電話に出る。暫くして戻ってきた姉は子機を片手に私のほうに差し出してきた。 「鬼堂さんから」 「……冴樹?」 「違うかもしれない。声がちょっと……」 私は抱いていた妹を姉に預け、受話器を耳に押し当てた。 「もしもし?」 「綺羅ちゃん? 僕は樹だけど……」 柔らかな声音が問いかけて、名乗る。 「樹さん?」 「そう」 「どうしたんですか?」 「少しお話したいんだけど、会えるかな?」 「……あの夜に、お伺いすればよいですか?」 冴樹にどんな顔をして会えばいいのか、わからなかったけれど。樹さんの申し出を断る理由もなかったので、私は尋ねた。 「今すぐ……会いたいんだ。出てこられる?」 「今すぐ? でも……」 樹さんは、昼間は外に出られない。家の中にいても、辛いのだと、前に冴樹が言っていた。だとすると、私に会いたがっているのは……冴樹? 私は姉のほうを見ると、聞き取った会話で事情を察したのか、姉が頷いた。 「村上さんとの約束は少し遅らせることもできるから、綺羅ちゃん、出かけてもいいよ」 私は姉に頷き返して、電話越しに会えることを伝えた。 「会えますが……」 「じゃあ、駅の裏手にある公園、知っているかな?」 樹さんが言う駅が、どこの駅か確認する。坂を下ったところにある駅だ。 「……はい、わかります」 「そこで待っているから……なるべく急いで来てくれると助かるよ」 「わかりました、直ぐに出ます」 通話を切ると、私はコートを羽織って、家を出た。 転ばないように気をつけながら、坂を下る。賑わう駅前と違って、裏側は閑散とした静けさに満ちていた。その通りの端に、錆びた看板を掲げる児童公園を見つけて、私は中に入った。 通りから見通しが良くないこの公園は、あまり利用者がいないようだ。物騒な世の中だから、もっと人の目のある安全な公園を利用しているのだろう。 植木に囲まれた入り口を抜けると、古臭さを感じさせる遊具が並んでいた。 その一つのブランコに腰掛けていたのは、冴樹ではなく樹さん本人だった。 「……樹さん?」 私は問いかけて、あえぐ。 どうして、樹さんがここにいるのだろう? だって、樹さんは陽光の下に出られないはずで……。 私に気がついて、顔を上げた樹さんは、ギィと錆びた音を立てて、ブランコから立ち上がった。 「突然呼び出して、ごめんね?」 「……どうして、樹さんは……」 「冴樹ちゃんに血を貰ったんだよ。あまり強い日差しには耐えられないけれど、この季節の日差しなら……少しで十分だから」 地面に落ちた薄い影に目を落として、樹さんは静かに呟いた。 「血を……何で」 「僕ら……この町を出ようってことになったんだ」 「町を出る?」 「そう。お別れしようってね。今、冴樹ちゃんは学校の方に行って、先生たちにその旨を伝えている。それが終わったら、ここで落ち合って……」 そして、別の町へと向かうのだと、樹さんは言った。 「……だから、綺羅ちゃんにはお別れを言おうと思って」 冴樹ちゃんは黙って行くつもりだったみたいだけど、と樹さんは寂しげに微笑んだ。 「……どうして、急に……」 「心当たりはない?」 小首を傾げて、樹さんが問う。私に思い当たるのは、終業式の日の私の告白だけだ。 「……私のせいですか? 私が冴樹に好きだって言ったから」 でも、どうして? 居住地を移すという大掛かりなことをしてまで、冴樹は私を避けたいの? それなら……そんなに私を切り捨てたいのなら、冷たく言えばいいだけなのに。 昔馴染みのよしみから、優しくしただけだって。 勘違いするなって、辛辣な言葉を重ねて、二度と近づこうなんて思わないくらいに。 私の心を踏みにじって、傷つければいいのに。 ……そうしたら、私はきっと冴樹に近づかない。 クッキリと引かれた境界線のこちら側で、私は……多分、それでも冴樹を好きでいるだろう。昔も今も変わらない優しさを知っているから。 だけど、冴樹にとって私の存在が負担になるのなら、私は心の奥底にこの気持ちを隠して閉じ込めておく。 我慢するのには慣れている。そんなの、冴樹はよく知っているはずだ。 私は、樹さん相手にそう訴えていた。 こんな風に、終わりになるのは嫌だ。もう二度と会わないなんて、そんなサヨナラは嫌だから。 「冴樹ちゃんはね、綺羅ちゃんが冴樹ちゃんの負担になりたくないように、綺羅ちゃんの負担になりたくないんだよ」 「負担って……私は」 「好きって気持ちは、とても強いから。相手のことをときにがんじがらめに縛り付けてしまう。傷つけてしまう。でもね、傷つけたくはないんだ。ただ、幸せになって欲しいだけ」 樹さんは涙をこぼし始めた私の頬を白い指先で触れた。冷たい指先が雫を凍らせて、払うように私の涙を拭い去る。 「その涙すら、後悔に変わる。出会わなければ、こんな風に君を泣かすこともなかったのに……そう思ってしまう」 「だから、気持ちが浅いうちに終わらせようとするんですか、冴樹は」 「冴樹ちゃんだけじゃない、僕もね。全てをなかったことに出来たら……と、僕たちはそう望んでしまうんだ。だって、初めから僕たちはこの世界から、時間から、疎外された存在で……関わることすら間違いなのだから」 「樹さんは……冴樹のお母さんと出会ったことを間違いだと思っているんですか?」 「結果的に間違いだったのかもしれないと、思う。……僕に出会わなかったら、冴ちゃんは幸せな家庭を築いて、今も生きていたかもしれないもの」 「でも、冴さんは樹さんに出会えて幸せだったはずです」 私は確信を持って言えた。 冴樹を好きになったことに、苦しみを覚えたのも事実で。 気づかなければ良かったと、思ったこともまた事実なら。 冴樹に出会わなかったら、私は……。 あの小さな頃の私は、何を支えに生きていられた? 両親の不仲に傷つくことしかできなくて、その傷を晒すこともできなかった私を、冴樹と樹さんは見つけてくれた。 二人の優しさに私がどれだけ救われたかを思えば、この苦しみも受け止められる。 出会えたことに、幸せだと笑えるの……今はまだ難しいかもしれないけれど。 ふわりと微笑んで、樹さんは言った。 「……間違いだったと思うのに、僕は本当に冴ちゃんのことが好きで。今でも好きで。出会えたことが幸せで、冴樹ちゃんを僕に与えてくれたこと、本当に感謝している。だから、幸せになってもらいたかった。それには僕がいたら駄目だと思った」 「だから、記憶を消したんですか? 冴さんの」 樹さんに問いかけた私の声に、重なるもう一つの声があった。 「……同じことを思って、綺羅の記憶を消してくれと、頼んだ俺がいる」 滑り台の影から現れたのは冴樹だった。大きなバックを片手にしたその姿は、今から旅立つ旅行者のそれだった。 「記憶を……消す?」 「……俺のことは忘れろ、綺羅。キレイさっぱりと、何も残さずに」 * * * * 「俺のことは忘れろ」と、綺羅に言い放った言葉がぐるぐると頭の中で回っていた。気がつけば、家に帰り着いて、玄関をくぐっていた。 居間に向かうと、そこには樹がいて、俺の姿を見つけると、まるで飼い主の帰りを待っていた犬のように近づいてくる。 「お帰り、冴樹ちゃん。外は寒かったでしょう。今、お茶でも入れるね」 台所に向かおうとする樹の背中に、俺は声を掛けた。 「樹、……あのさ」 俺の呼びかけに、樹は小首を傾げた。 「どうかしたの? 何だか、元気ないね」 「……別の町に行かないか?」 樹の問いかけに答えずに、俺は問い返した。 「……うん。冴樹ちゃんがそうしたいのなら、いいよ」 樹は淡く微笑んで頷いた。どうして、この町を離れたいのか? そんなことを聞く前に、樹はいつだって俺の意志を尊重する。 樹はどこかで俺に遠慮している節がある。俺の中に流れている樹の血が、俺の時間を止めてしまったこと。樹なりに感じるところがあるらしい。 父親なんだから、俺にそこまで気を使う必要はないだろう、と思うのだが、今は甘えておくことにした。 「……そうしたい」 「じゃあ、綺羅ちゃんにお別れしてからでいい?」 樹のその言葉に、俺の顔は歪んだと思う。青灰色の瞳は俺を見つめると、寂しそうに笑う。 「……綺羅ちゃんと、何かあったんだね」 静かな問いかけに、俺は答えていた。 「好きだって言われたんだ」 「そう。冴樹ちゃんは何て答えたの?」 「俺のことは忘れろ、って。それしか言えなかった」 そう言って、俺は唇を噛んだ。 もっと、気の利いたことを言おうにも、言葉が出てこなかったんだ、あのとき。 「……冴樹ちゃんは、綺羅ちゃんのことが嫌い?」 「嫌いな女相手なら、もっと適当にあしらえる。嫌われ方くらい、知っている」 人との距離の取り方を、俺は時間が止まったときから十何年の間に覚えたはずだった。境界線を越えて、近づいてくる相手には冷たくして、一定の距離を保てる相手なら愛想を振りまいて。 だけど……綺羅は最初から、境界線の内側にいて、冷たくできる相手じゃなかったんだ。初めから……。 「綺羅ちゃんには、それができなかったんだね」 ああ、と呻く自分の声が力なく響く。 それを自覚したとき、俺は気がついた。自分の気持ちに。 だけど……一緒にいられるはずはないんだ。 |