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お題提供・色彩の綾

 続・恋人ごっこ。


「あれ、紗知さん。眼鏡変えちゃった?」
 おはよう、と。挨拶を口にする前に、玄関に出てきた紗知さんを前にして言っていた。
「よく気づいたわね、由樹」
 紗知さんは俺を見つめると、無表情で返してきた。
 そりゃ、気づきますって。恋心を自覚してから何年、紗知さんのことを見てきたと思っているんですか――と、いつもなら軽口に交えて、本音を口にするところだけれど。
 あまり俺の気持ちを意識させ過ぎたら、「恋人ごっこ」は――ゲームオーバー。
 今はあくまで、恋人のふりに徹します。
 そんなかりそめの、俺の恋人である紗知さんの目元にはいつもなら存在感を主張して悪目立ちする黒縁眼鏡はなく、ノーフレームの眼鏡が紗知さんの目元を飾っていた。レンズも半分ぐらいのサイズで細いから、眼鏡の存在はパッと見、目立たない。それ故に彼女の顔立ちが、そのまま表に現れる。
「フレームがね、折れたのよ。仕方ないから新調したの」
 紗知さんは細い眼鏡のつるを摘まんで、つまらなそうに言った。
「今度の眼鏡は、前の奴とは違うね?」
 俺はさりげなく問う。紗知さんが自分の外見に対する心境の変化があったのか。あった場合、それが俺を意識してのことだったら、嬉しいけれど。
 果たして、どうなんだろう? と、問いかけてみれば、
「視力が低いから、どうしてもレンズが分厚くなるでしょ? だから、軽そうな感じのものを選んでみたの。重たいのって、意外と疲れるのよ」
 細い肩を軽く竦める。新しい眼鏡がもたらす外見の変化を、大して問題視していない口調だ。
 実務的すぎますよ、紗知さん。俺の淡い期待は木端微塵となって、苦笑に変わる。
 自覚がないらしいとは思っていたし、そういうところを気にしない性格も好きだけどね、俺は。
 ですが俺にとっては、ちょっとゆゆしき事態ですよ、これは。
 あまり感情を出さない紗知さんの怜悧な素顔は、一言で語ってしまえば美人だった。
 今まで、黒縁眼鏡が邪魔をして隠されていたその事実。
 紗知さんが美人なのは、とうの昔に知っていた俺だけの秘密だったんだけれど、これはまずいな、と思う。
 別に俺は紗知さんの顔に惚れたわけじゃないけれどね。
 問題は、俺以外の人間がそうして紗知さんの顔に惚れること、だ。
 十代の恋愛なんて、内面より先に外見が条件だったりする。まあ末永く付き合っていこうなんて、考えないだろう、この年で。
 勿論、例外はいる。俺がそう。俺はね、末長く紗知さんとよろしくやっていきたい。何しろ、足掛け四年の片想いですから、そこらの奴と同じにして貰ったら困る。
 けれど他の奴は第一印象などで、恋愛相手を探す。そう、恋愛相手だ。結婚相手とか、生涯の伴侶とかを探しているわけじゃないから、お試し期間で気が合わなければ、別れればいい。
 お手軽で軽薄な若者の恋愛事情を目の当たりにしているからこそ、俺は心配する。
 今までの紗知さんは、お堅い優等生タイプと受け取られていた。黒縁眼鏡が顔立ちを隠して、冴えない印象を作っていたんだ。
 お手軽な恋愛を好む奴は、そもそも熟慮という言葉を知らない。見た目の印象から、紗知さんを恋愛対象から外していた。
 俺としては奴らが紗知さんの本当の魅力に気づかないことに歯軋りを覚える半面、ライバルが少なくて済むことに安心していた。
 それにこの一年、紗知さんを騙して――そのことは紗知さんにも謝って、許して貰っている――結んだ恋人契約。
 恋人のふりをすることで、周りの男たちを牽制できていたから、後は来年の受験を終えるまで何事もなく過ごせればいいと思っていた。
 そうでなければ、恋人ごっこなんてやっていられない。
 だって俺、真剣に紗知さんとの将来とか考えているからね――我ながら重いよ、自分。とため息つきたくなるくらいに、本気で紗知さんが好きです、はい。
 一ヵ月前のバレンタイン前に、俺の気持ちは紗知さんに伝えてあった。まあ、一年契約の際どい嘘をついたときから、伝えるつもりでいた。返事はもとより、急ぐつもりはなかったけれど。
 そしてバレンタイン当日に、紗知さんが生まれて初めてのチョコを俺にくれた。
 紗知さんのお父さんは糖尿病を患っているから、チョコレートなんて気楽に食せるものじゃない。だから紗知さんは生まれてこの方、誰かにチョコを贈ったことなんてない。紗知さんの夢は同じくらい、小さい頃から決まっていた。
 お父さんの病気を癒す医者になること――なんて、親孝行なんだろうね。これを知ったら、惚れるでしょ? 未来を見据えてがんばるなんて、カッコいいよ。俺は惚れたよ。
 目標に向かって一直線の紗知さんは、当然ながら恋愛にかまけている余裕はない――そう、自分を律している。
 だから正真正銘、初めてのバレンタインチョコだ。俺の気持ちを知っていて、チョコをくれたってことから考えれば、俺と紗知さんは両想いなんだろうと思う。
 でも、今のところはまだ恋人ごっこである必要があった。
 紗知さんが医者になるために猛勉強中だ。勉強以外のことによそ見するような、気持ちに余裕がない。
 実際に、恋愛と勉強を両立させる器用さを持ち合わせていたならば、紗知さんはクラスの女子から孤立したりしていなかっただろう。
 だから、今の俺は紗知さんの意識を恋愛へと向けさせないよう、注意する必要がある。俺の存在が重荷になってしまったら、紗知さんが困ってしまうだろうから。
 今はかりそめの、恋人でいなければならない。
「――具合でも悪いの?」
 俺の視界で紗知さんが首を傾げる。考え事にぼーっとしてしまっていたらしい。
「何でもありませんよ、それより行きましょうか」
 俺が手を差し出せば、紗知さんは頷いて手のひらを重ねてきた。
 ちょっと前までは、俺が強引に手を繋いでいた。周りに恋人のように見せるためだと言って、「ここまでする必要あるの?」と疑問視する紗知さんを誤魔化していた。
 確かに周りに俺たちの仲の良さを印象付けさせる作戦の一つではあったけれど、実際のところは俺が手を繋ぎたかったからです。
 今も俺が促したから、手を繋いでくれるのかもしれない。けれど、俺の気持ちを伝えるまえより、握り返してくれる力が強くなったのは気のせいじゃないと思いたい。
 紗知さんの家を出て、俺の家の前を過ぎる。今から五年前、中学一年の時、親父の転勤でここに引っ越してきてから俺は紗知さんのお隣さんだ。今は高校のクラスメイト。同じ高校なのは、家から近かったと建前で言ったけれど、紗知さんの志望校に合わせたからだったりします。
 正直、今の高校の偏差値は高い。俺の中学の成績じゃ合格ライン、ぎりぎりだと言われた。結構、がんばったんだよね。紗知さんと同じ高校に行きたくて。冷静な目で見ると、ストーカーっぽいですか、俺。
 でも、紗知さんが真面目に将来を見越しているのを知って、紗知さんを好きになってから、俺自身も自分の将来を考えるようになった。その結果、高校受験を前にして紗知さんと同じ進路を取るのがいいと、答えが出た。
 紗知さんが目標を叶えようとするその傍で、彼女の夢を応援したい。できれば、その後も紗知さんの支えになりたい。
 結構、動機は不純なものが混じっているけれど、その答えを見つけた時、割とストンとはまった。
 そうして自分は、本気で紗知さんが好きなんだなと改めて実感した。一年や二年じゃ足りない。ずっと傍にいたいから、四年越しの片想いも苦にならない。
 そう心に決めて、今は恋人ごっこという、かりそめの恋人に甘んじることに決めた。
 ……そのはずなのに……。


「おはようッス、由樹。と、……えっ? 委員長?」
 登校途中、すれ違いざま挨拶を投げてきたクラスメイトは、紗知さんの顔を見て驚いた顔をした。まるで、そこにいるのが紗知さんだと不都合だというような、別人を見る目。
 ざわりと、胸の内がざわつく。危惧していたことが現実になりかけているのを知る。
 苦虫を噛み潰す俺の心情など当然、紗知さんは知る由もなく。クラスメイトが驚いている理由も大して気に止めずに、いつもの素っ気ない声で返す。
「そうだけど、何?」
 紗知さんの態度はいつもと同じ――同じなのに、クラスメイトの反応は違う。変わった。
 黒縁眼鏡の紗知さんはお堅い委員長様なので、皆近寄りがたくそそくさと立ち去って行くのに。
 今日は身を乗り出すように、紗知さんを食い入るように見つめる。
「いや、何か印象違うくね? あ、眼鏡? へぇー、委員長、眼鏡変えたんだっ!」
 声が妙に興奮している。何か面白いものを見つけたといった感じで、
「委員長って、美人じゃん! いいじゃん、こっち。なんで今まで、ダッサイ眼鏡してたのさ。マジ、別人って感じで驚いた」
 だけどそれはからかう雰囲気ではないから、俺を苛立たせる。
「あ、由樹、もしかして知ってて、委員長と付き合ってたのか? 由樹と委員長って合わないと思ってたけど」
 まるで抜け駆けを責めるような口調に、俺の頭の中はカッと熱くなった。
 いつもと違う紗知さんの外見をちょっと目にしただけで、別人を見るような目は止めろと叫びたくなる。
 外側が少し変わったくらいで、今までの紗知さんを否定するようなこと言うなよ。
 第一に、俺と紗知さんが似合わないって、何だ? 何で、そんなことを他人に決められなきゃいけない?
「由樹、行こう」
 いつもの声で紗知さんに言われて、俺は我に返った。
「……紗知さん」
 クラスメイトの調子のいい世辞にも顔色一つ変えずに、紗知さんは俺の目を見て言った。
「遅刻するわ。私、無遅刻無欠席の皆勤賞を狙っているのよ」
 紗知さんは医者になるために余所見をしない。十代の若者らしさなんて、どこかに置いてきたように前向いている。
 ダサいと言われる黒縁眼鏡も、紗知さんにしたら関係ない。
 周りの評価になんて構っていられない。そんな余裕はなく、ただひたすらに目標へ突き進むことしか目に入らないから……。
 グイッと引っ張られ、俺は紗知さんと歩き出す。置いてきぼりを食らったクラスメイトはさすがにこちらに合流するのを躊躇われたのか、通学路沿いのコンビニに入っていくのが振り返った俺の目の端に入った。
「今、怒ろうとしたでしょ?」
 紗知さんの冷静な声に視線を戻せば、隣を歩く紗知さんが頬を傾けて俺を見た。
「あいつ、かなり失礼なことを言ったでしょ」
 俺は眉間に皺を寄せて、不機嫌さをあらわにした。そんな俺を見上げて、紗知さんは「由樹らしくないわよ」とちょっとだけ頬を緩ませて笑った。
 転校を何度も経験した俺が、周りに馴染むために身に付けたのはマイナス感情を見せないことだった。
 怒っていたりする相手に、気軽に声などかけられるはずもない。
 だから極力、そういう顔は見せないようにしていたし、実際のところはあまり怒るといったことはなかった。
 お前は鷹揚過ぎると、俺のことを言ったのは親父か。紗知さんを好きになって初めて、転勤族の親父に「また転校することになるのか」と問いかけていた。
 度重なる転勤に親父の方が、俺のことを不憫に思っていたらしいのだが、俺が一つも不平を洩らさなかったものだから、呆れていたらしい。そうして今度転勤することになっても、自分一人で行くと言った。
 転校して、環境が変わることを繰り返すうちに、俺は色々なことに、諦めること、妥協することを覚え、物事を鷹揚に構えることで保身するようになっていたんじゃないかと思う。
 でも、紗知さんは周りに自分を合わせようとしない。どこまでも自分を貫こうとするから、クラスから浮いてしまう。だけど、それで委縮せずに自分の道を突き進む姿勢がカッコよくて、眩しくて――好きになった。
 その相手を悪く言われて――いや、美人と褒めていたけれど、それは眼鏡を変えた紗知さんで、それまでの紗知さんはダサいと言っているも同然の言葉は、
「頭にきます」
 俺はやっぱり不機嫌まま、言った。
「まあね。でも、事実じゃない?」
「どこがです?」
「由樹と私が似合わないってところ」
「そんなの――」
「私はそう思っていた。私は由樹には似合わないって」
「何を言っているんですか……俺の方こそ……」
 俺の方こそ、似合わない気がしている。
 紗知さんはあまりに真っ直ぐだ。そんな紗知さんを騙すような形で、恋人ごっこに巻き込んだ。
 紗知さんの周りにさっきのような虫が近づかないよう、牽制して。勉強の邪魔をさせないようにと言って……。
 実際は、あいつが言ったように他の奴が紗知さんの魅力に気づいたところで手出しできないよう、独占しようとしていただけかもしれない。
 鷹揚に構えている反面で、結構計算している自分がいる。どうすれば反感を持たれずに済むかと考えるのは、小賢しくないか、俺?
 身体の奥から言葉が溢れてきて、俺は吐露していた。
「俺の方こそ、紗知さんに相応しくない気がするときがあります。……だって、俺は卑怯だから」
「卑怯?」
「嘘ついて、騙したし……」
「前に、由樹は言ったわよね。私のこと、その色々……」
 バレンタイン前の告白のことを言っているのか、紗知さんは言い淀んだ。
 俺としてはあの日の告白を何回繰り返しても構わないのだけれど、紗知さんは恥ずかしがる。恋愛慣れしていない不器用さが紗知さんらしいと思うし、だからこそ俺の感情を押し付け過ぎてはいけない。
 歯止めが効かなくなったら、俺は多分、止められない。好きだって言って欲しくなる。今の紗知さんにそれを望むのは酷だとわかっていても、求めてしまう。
 恋人ごっこに満足できなくなってしまうだろうって、冷静な部分が言っている。
 結果、紗知さんは俺に付きあえなくなるだろう。紗知さんの目標の邪魔になってしまうから。
 だから、言わない。紗知さんが夢を叶えるまで、キープでいいと言ったのは、俺だ。
「あの後のこと、覚えている? 由樹は私のことを美化しすぎだって」
「でも、そんなことないでしょ?」
「美化しすぎだと思っていたわよ。でも、由樹は言ったじゃない? 「好きになったら、その人のことが特別に見えてしまうから、美化しているように聞こえるんですよ」って」
 俺は頷いた。
 人を好きになるということは、多分、他の人間よりその人の良いところが見えてしまうことなんだろう。
 勉強をがんばる子や医者を目指す人、親孝行な人とか。多分、見回せば俺が気付かないだけで、沢山いるのかもしれない。
 でも、俺には見えない。だけど、紗知さんのことは見えてしまった。
 好きになったから見えたのか、見えてしまったから好きになったのか、自分でもよくわからないけれど。
 俺にとって紗知さんは特別な人だ。紗知さんは自分を過少評価しすぎるけれど、俺には他の誰よりも特別に見える。
「同じことよ。由樹は自分を卑怯だとか、ずるいとか言うけれど。私にはそれは優しい気配りに見える」
「えっ?」
「少なくとも私は、恋人ごっこの相手が由樹で良かったと思っているわ。大体、私に付き合える人なんている?」
 夢を叶える途中の現在、本気の恋愛はできない――そんな紗知さんと付き合えるのは……。
 俺のことを鷹揚だと言ったのは、親父か。
 紗知さんに足掛け四年も片想いしていられるのは、他でもない俺だ。
 末永く付き合って行こうと覚悟を決められる相手でなければ、紗知さんと付き合える資格がない。少なくとも、俺はその覚悟に関しては、他の奴には負けない。
「紗知さんの恋人は、俺だけにしか務まりませんね?」
 紗知さんが夢を叶えるのにはまだ暫く、時間がかかる。それまでの間、恋人ごっこの関係に我慢できるのは、俺だけだ。
 他の誰かの目に紗知さんの姿が変わって見えようと、紗知さん自身は変わらない。ならば、俺も今まで通り紗知さんを思えばいい。
 ストンと答えがはまれば、ぐるぐると頭の中を駆け巡っていた感情が収まるところに収まる。
 思わずニッコリと笑った俺に、紗知さんは呆れた顔を見せた。
「そういう自信過剰なところも、由樹らしいと思うわ」
「自信過剰ですか、俺。来年もバレンタインチョコ、貰えますよね?」
 好きという言葉の代わりに、チョコレートを。
 恋人ごっこの俺たちには、あの日のチョコレートが気持ちを確かめあう暗号だった。
「まあ、ホワイトデーのお返し次第ね」
「ああ、それなら色々と考えていますよ」
 だって、ほら。
 ――好きな人に、喜んで欲しいから。
「期待していてくださいね?」


                              「続・恋人ごっこ。 完」


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