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 第一章 



  
,真夜中の訪問者


 透明で耳に心地よい声が、俺を眠りの淵から揺り起こす。
「お早う、アール」
 春の日の、穏やかな空を思わせる瞳をにこやかに細めて、アレンは言った。
 俺が約二十年間――もう直ぐ誕生日を迎える――生きてきて、出会った人間の中で、多分、一番だと認めてしまう絶世の美貌の青年アレンは、ベッドに寝転がったままの俺に繰り返す。
「お早う、アール」
 俺は半眼で、毛布を引っ張るアレンを見上げた。
 透き通るような白い肌。陶器のように滑らかで、キメの細かい肌は若い女の肌と変わらない。その白い肌をピンクに染めた唇がニッコリと笑みを刻んで、三度、繰り返す。
「お早う、アール」
 こちらを覗きこんで微笑むアレンを見上げて、俺は黙ったまま口を開き、一呼吸、息を吸い込んだ。
 アレンは、ん? と小首を傾げる。その際にサラリと音を立てて流れるのは、淡い金髪。春の日差しに似た色だ。
 もしも、この世に春の精なるものがいるとして、具現化したら多分、それは間違いなくアレンのような姿をしているだろう、と俺は思う。
 それくらい、アレンの美貌はこの世に生きている人間の領域を逸脱し、神の域に達していた。優しげな目元も、すっきりとした鼻筋も、頬から顎にかけて、歪みのない滑らかなラインも、その唇も。
 人という概念でくくってしまい、ただ美人だと言ってしまうには惜しい超絶美貌の青年、それがアレン・ジーナス、二十歳――正確に言えば、アレンもまだ誕生日を迎えていないけどな。
 華奢な身体を強調するような、細身のシルエットのスーツを着、胸元に結んだリボンタイはわざと半結びにしていた。それがだらしなさより、逆に良く似合っていると感じさせるのは、隙のない完璧すぎる美貌のせいか。
 くだくだと言葉を並べ立てて、結局は何が言いたいのかというと、アレンは美人だというその一言に尽きるわけだが……。
「お早う、アール」
 そんな美人に目覚めの一番、満面の笑みを向けられても、俺としては一向に気持ちよくない。
 それは俺が男には興味がないノーマルな人間だってこともあるだろうが……。
 スッと吸った息が肺にたまるのを確認して、俺は息を吐き出すと同時に声を出した。
「何が、お早うだっ! 寝言は寝てから言いやがれっ!」
 寝室の窓ガラスが、木枠の隙間で震えるほど、俺の声量はデカかった。当然、間近で耳にしたアレンの鼓膜は、かなりのダメージを受けただろう。しかし、そんなことは俺の知ったことじゃない。
 案の定、アレンは耳を押さえて、恨みがましい視線を俺に投げてきた。
「もうっ! 一体、何なのっ? そんなに大声を上げて」
 この一連の会話だけを聞けば、アレンは哀れな被害者に思えるかもしれない。
 だが、間違えないで欲しい。
 現在、時刻は午前三時。カーテンを引き忘れた窓の外はまだ漆黒の闇が広がっている。
「お早う」と挨拶を交わすには、首を傾げる時間帯だ。
 しかも、俺はと言えば、徹夜明けの仕事を終えて、一時間前にようやくベッドに寝転がったところだ。
 なあ、この場合、俺のほうが安眠を妨害された被害者だよな? そうだろっ?
「何、じゃねぇだろっ! 寝入り端を狙ってきやがって。俺が今日、徹夜明けだっていうのは仕事を紹介したお前が一番、知ってるだろうがっ!」
 ベッドの上に立ち上がった俺は、呼吸を整える。吐き出す息以上の言葉を吐いたために、酸欠状態。クラクラするぜ。
 眩暈がするので、俺はベッドの上に座り込んだ。
 くそっ! 何で、こんな時間から貧血起こしてんだ、俺はっ!
 普通なら夢の中。ここ数日の睡眠不足を補うべく、惰眠をむさぼっても非難される覚えはない。なのに、何で、寝入り端に叩き起こされなきゃならんのだっ?
 俺はアレンを睨みあげた。
 超絶、絶世、類稀なる美貌の青年は細い指を顎に引っ掛け、小首を傾げた後、ああ、と嘆息をつくように声を発した。
「そういえば、そうだったね」
「そうだったね、じゃないだろっ!」
 俺は悲鳴染みた絶叫を上げた。







  
,魔法使いと紹介屋


「お前だろ? お前があの仕事を紹介したんじゃねぇかっ!」
 アレンは俺と専属契約を結んでいる紹介屋だ。
 紹介屋っていうのは、俺みたいに仕事を探している者と依頼人を仲介する奴らを言う。様々な人脈を駆使し情報を集め、依頼に適した人材を、または仕事を紹介することで、仲介料を稼ぐのだ。
 こう見えても――どう見えるのかは、自分でも甚だ疑問だが――俺、アール・メトールは魔法使いだ。一億人に一人ないし二人しか現れないという稀少価値の高い、上級魔法使いの称号を持つ。
 道を間違ってさえいなければ――ようするに、道を間違えたわけだ、俺は――宮廷魔法師として王宮に召抱えられるような存在だ。
 そんな俺に見合った仕事を紹介することを条件に、アレンと契約を結んだのが一年前。以来、俺はアレンが持ち込んでくる仕事で食いつないでいる日々だ――たまに、魔法師協会からの仕事もこなしてはいる。その辺の事情説明は、ここでは省く。
 で、先日、アレンから持ち込まれた仕事はとある貴族の館の、金庫の寝ずの番。
 最近、王都では怪盗なるものが、貴族の館を狙って盗みを働いているらしい。
 俺たちが住むエルマは――この国、フォレスト王国は王家と、特別階級貴族七家によって統治されている。俺たちが住むこの町エリルールはエバンス家が統治する南西区エルマに属する。とはいえ、町境を北に越えれば、もうそこは王家が直接統治している中央区ファーレスなのだか――まだ、怪盗の被害は出ていない。しかし、心配性な人間はどこにでもいて、それが今回の仕事の依頼人だった。
 バカンスで館を開ける間、金庫の番をして欲しいと上級魔法使いである俺を指名してきたというのだ。
 正直言って、馬鹿か、と思う。
 上級魔法使いは基本給が高い。一回の仕事で支払われる報酬は五百万ゴールド。これは、魔法の権威を守る――特に、上級魔法使いはこの国では、宮廷魔法師として珍重される存在故に――魔法を安売りしてはならないという建前上の設定。
 五百万ゴールドの金額は、普通の一般家庭が一年暮らせるだけのもの。そんな大金を気軽に支払う依頼人は中々いなくて、俺としてはアレンのような紹介屋を雇わざるを得なかったわけだ。
 こんな簡単で、楽な仕事があっていいのか? と思いつつ、現場に向かった俺は魔法を理解していない使用人たちの監視の目に晒され、寝ずの番をやらされることになった。
「くそっ! 泥棒除けなら、不可侵結界の魔法で十分なんだよ。それを、あのわからずやどもが」
 毒づく俺にアレンは小首を傾げた。
「何かあったの?」
「だからっ! 徹夜で見張り番をやらされたんだよっ!」
 目に見えない魔法っていうのもある。結界魔法なんていうのは正にそれ。
 見えない壁で空間を仕切る、不可侵結界の魔法は許可無き者の侵入を防ぐ高等魔法で、王家や七家の城や屋敷に敷かれている。
 不法侵入者を迷いの空間に誘い込み、捕まえるという、そんな高等魔法をわざわざ敷いてやったというのに、留守を預かっているという使用人は何かあってからでは遅い、と言って、金庫の前で見張っているように命令してきやがった。
 全く、それじゃあ、何のための結界だよ?
 上級魔法使いの俺の魔法を、無効化できるのは同じ上級魔法使いだけだ。
 それは国中を捜しても、宮廷魔法師しかいないわけで――正確には宮廷魔法師団<<十七柱>>以外に、後二名の上級魔法使いがいるわけだが、一人は魔法師協会の長老で、もう一人は元宮廷魔法師で今は七家の一家、サリー家の先代当主の奥方になった人だ――どう考えても、俺の結界を破って泥棒行為をするとは思えない。
 だから、結界魔法だけで十分なんだ。誰も、金庫に近づけないのだから。
 それなのに、使用人たちは俺が金庫の前から離れようとすると、職務怠慢だとか抜かしやがる。旦那様に言いつけるぞ、とさらに脅迫まがいのことまで口に出すに至って、俺は仕方なく寝ずの番をすることにしたわけだ。
 一応、前金で百万ゴールドの金は貰っていた。それはアレンへの紹介料として、俺の手元には入ってこない。俺としては三日間、金庫を守り抜いて、この仕事を完遂してようやく金が手に入る。下手にケチを付けられて、一ゴールドも支払われないとあっては意味がない。
 そうして、徹夜の日々から解放されてようやくの睡眠だった。仕事が完遂できたことで、当面の生活費の心配がなくなった俺は、とりあえず二十四時間は寝るつもりでベッドに入ったわけだ。
 しかし、眠りは一時間で終わった。たった、一時間、一時間だぞ?
 熟睡にも至っていない浅い眠りは、疲労度を増すだけだ。
「……一体、何の用だ」
 俺は脱力感から、頭を抱え、力のない声でアレンに問いかけた。
 何だってまた、こんな真夜中に人の家にやって来るんだ? 俺の家にも一応、不可侵結界が敷いてある。故に戸締りはしていない。そして、アレンは仕事上のパートナーのいうことで、魔法には作用されないようにしてあるので、二十四時間出入り自由なわけだが。
 ……アレンの出入りを考え直したほうが、いいか?
 ベッドの上で胡坐をかいて、俺は思考する。
 ふと、気付いて顔を上げた俺にアレンが笑みを返す。
「あ、もしかして、お前が来たのは仕事が終わったからか? 仕事料が支払われたんだな? 何もこんな時間に持ってこなくても良かったんだが……まあいい、来月分の院代を入金しないといけないなと思ってたんだ。それに、生活費も底をつきかけてたし」
 俺はベッドの上で姿勢を正した。
 一応、仕事の契約はアレンの元で成立しているので、仕事料はアレンに支払われる。そこから、アレンが自分の取り分である紹介料を引いて、残りを俺に支払ってくれる。
 仕事が終わったことで、アレンは早速、依頼人から金を受け取り俺に持ってきたのか?
 そっと手を差し出した俺に、アレンは笑みを浮かべたまま言った。
「ないよ」
「……はっ?」







  
,消えた報酬の行方


「報酬はないよ」
「……えっ?」
 自分が馬鹿になった気がする、というのはこんなときだろうか?
 アレンの言葉が理解できない。
 えっと……今、報酬はない、と聞こえた気がするのだが。冗談だよな?
 俺はマジマジとアレンの表情を覗き込んだ。
「ど、ど、どういう、ことだっ?」
 焦りからか、舌が回らない。そりゃそうだ。この仕事の報酬が入らなければ、俺、明日から生活していけねぇんだぞ。落ち着いてなんぞ、いられるかって。
「だから、報酬はないよ。だって、アールってば、泥棒を捕まえてないし」
 肩を竦めたアレンは、どうしようもない、と言いたげにため息を吐いた。
「ちっ、ちょっと待て。何で、泥棒を捕まえなきゃならんっ?」
 俺の仕事は泥棒から、金庫を守ることだろっ?
 目を剥いて反論する俺に、アレンは白い指先を突きつけるようにして、あっさりと言ってきた。
「違うよ、アール。君の仕事は、家族がバカンスに出掛けている間、ひと気が少ないのを機に侵入してくるかもしれない泥棒から金庫を守って、捕まえることだよ」
「何だっ! それ」
「何って、依頼人との契約内容。つまり、泥棒を捕まえて、この仕事は成立するの。金庫を守るだけじゃ駄目なんだよ」
「そんなの聞いてないっ!」
「えっと、言い忘れたのかな」
 アレンは薄く笑って、全く悪びれた様子もなく言った。
 こいつ、知ってて言わなかったなっ!
 俺はある可能性に思い至って、アレンに問い詰めた。
「前金はっ?」
「何?」
「泥棒を捕まえることが条件なら、前金の返却はっ?」
「それは必要ないよ。依頼人とは、前金は一応、金庫番としての役割に支払うものと契約したからね。だから、金庫番を勤め上げた分、前金はまあ、報酬としては正当に支払われているわけ。とはいえ、あくまで金庫番としての支払いであって、泥棒を捕まえていないから、これまた残りの報酬は依頼人としては支払う義務はないの。わかる?」
 やっぱり、そういう魂胆か。くそっ! 端から全額狙いの仕事じゃなかったんだな。
 金庫を守るために五百万ゴールドの報酬をポンと支払う輩なんぞ、貴族にしたっていやしない。それだったら、その半値で十人ほど、人を雇って俺みたいに寝ずの番をさせりゃあ済むことなんだから。
「じゃあ、前金の半額でいいっ! 俺に回せ」
「ないよ」
「…………」
「もう、使っちゃった」
「おっ、おっ、お前っ、百万だぞっ? それも数日前じゃねえかっ! んな短時間でどうやって、百万の金を使いきれるんだよっ」
「どうって、アパートの家賃を一年分前払いしたでしょう。それからスーツを新調して。ついでに靴とかもね」
「お前、この間、スーツがとうとう百着超えたって言ってたじゃないかっ! それでまた、スーツを買ったのか?」
 アレンは俺なんかと違って、外見にとにかく金をかけている。何で、そんなに外見にこだわるんだよっ? と問いかけてみれば、
「だって、考えてみてよ。この綺麗な僕が、みすぼらしい格好をしていたら、それって犯罪だよ」
「何の犯罪だっ?」
「アール。綺麗なものはね、綺麗であるから価値があるの。ダイヤモンドの原石だって、磨かなければただの石ころなんだよっ! 道端に転がっている石と変わらないの」
 違うだろ? 原石だったら、それだけで他の石とは違って値がつくはずだ。
 そんな俺の心の声は、言葉にするより先に、アレンの声に遮られた。
「僕はダイヤなの。綺麗でいてこそ、僕なの。アールみたいに、お風呂に入っているのかわからないような毎日毎日、おんなじ服なんて着ていられないの。なぜなら僕は、アールじゃなくて、僕だからっ!」
 声を高らかに、力説する。そりゃ、誰だってお前になれないよ。っていうか、お前みたいな人間はなりたくないぞ、俺は。
 ……名誉のために言っておくが、俺は風呂には入っている――仕事で時間が取れないときはしょうがないけれど――服が毎日、同じなのは同じシャツとズボンを一度にまとめ買いしたからだ。
「だからね、新しいスーツが必要なの。靴もそう。僕は綺麗でいる義務があるんだよ」
 誰が決めた、そんなこと。
 確かに、この超絶美貌が薄汚れていたら、なんか悲しいものがある気がする……例えるなら、丹精込めて磨いた窓ガラスにくもりを見つけたときとか?
 アレンの言いたいことってつまり、そういうことなのか?
「僕は僕を綺麗に見せるの。そのためなら、アールが過労死したって、僕は構わない」
 構えよっ! っていうか、そういうこと、心で思っていても公言するなっ!
「…………それで、全部使ったのか?」
「うん。もう、綺麗さっぱり」
 アレンは白い両手の平をヒラヒラさせた。
「俺の取り分は?」
「それはアールがちゃんと仕事していれば、ねぇ?」
 突き放すように言ってきたアレンに、俺はガックリとうなだれた。
 そうだよ、こいつは。アレン・ジーナスっていう人間はこういう奴だったっ!







  
,相棒は詐欺師?


 淡い金髪に空色の瞳の、絶世の美貌。
 アレンはその甘いマスクで、今回の依頼人も騙したんだろう。
 きっと、伝を使ってどこかの貴族の館に出入りして、今回の依頼人に接触したに違いない。そして、透き通るような声で言葉巧みに、こう並べ立てたに違いない。
 詐欺まがいのその光景が目に見えるようだ。
 ここから先は俺の想像だが、事実は大して変わりないと思う。


『最近、首都のほうでは怪盗なるものが、貴族たちを狙って盗みを働いているようですね。貴族様というだけで、ターゲットにされるなんて、気の毒だなぁ。あなたも気をつけてくださいね。
 えっ? 何ですって? これから数日、家を開けるのですか?
 それは心配でしょう。信頼の置ける使用人に留守を預けるといっても、所詮は使用人ですからね。自分の命が危なくなったら、逃げるんじゃないかなぁ。
 えっ? 首都の怪盗は人を殺めていない? 
 駄目ですよ。犯罪者は犯罪者です。前歴に安心していたら駄目です。それに、あなたの家を狙う怪盗が、紳士だとは限らないでしょう? 
 可能性を考えれば、使用人だって怪しいものです。ちゃんと、身元を確認して雇ったとは言え、住民登録の際に偽名を使うのもそう難しいことじゃないですしね。
 そうだ、僕の知り合いを雇いませんか? 上級魔法使いなんです。宮廷魔法師にスカウトされた逸材ですよ。彼の魔法があれば怪盗も手も足も出せませんよ。それに、魔法師協会に正式登録している魔法使いだから、身元は確かですよ。
 はあ、五百万の報酬は高い?
 意外ですね。貴族様がそんなことを言われるなんて。
 えっ? ケチってそんなこと言ったわけじゃない?
 はあ、そうですか。でも、よく考えたほうがいいんじゃないかな。確かに五百万ゴールドを払って金庫を守るなんて、馬鹿げていますよね。泥棒だって、そんなに沢山のものは盗めないだろうし。
 でも、盗みが露見するのを恐れて、屋敷に火を放つなんて極悪非道な強盗もいないとは限らないんじゃないかなぁ。だとしたら、バカンスから帰ってきたら家がなくなっていたりして?』

 ――矢継ぎ早に言葉をつむぎ、不安をあおって。

『もし、そうなったら、五百万どころじゃないですよね。全財産、炭と化すんですもの。
 大丈夫ですかぁ? 用心するに越したことはないんじゃないかなぁ。
 そうだ。じゃあ、こうしません? 
 前金で百万。それで僕が紹介する魔法使いを雇いませんか?
 そして、残りの報酬は彼が泥棒を捕まえてからということで。
 これだったら、泥棒が入らなかったら、あなたは残りの四百万は支払う必要はないですよ。
 この契約内容だったら、上級魔法使いの報酬についての取り決め事項にもそう接触しないから、後にややこしいことにはならないですよ。だって、泥棒を捕まえたら、勿論、報酬は支払ってくださるのでしょう?
 泥棒が入らないに越したことはないけれど、この条件はかなり良いと思いますよ。泥棒を捕まえることができれば、あなたの屋敷は上級魔法使いによって警備されているという評判が広がり、二度と泥棒に狙われなくなると思うもの』

 ニッコリと極上の笑顔を差し向けられたら、正常な判断なんかできなくなるだろう。
 泥棒に入られる可能性がゼロに近いことなど、忘れて。
 依頼人はアレンの口車に乗ったに違いない。
 そして、俺はまんまと、タダ働きをさせられたわけだ。
 依頼の正確な内容を知らなかったが故に。
 詐欺だっ! と叫んでしまえたら、どれだけ良いか。
 でも、依頼の内容を確認しなかったのは俺の責任だ。アレンから肝心のことを聞きそびれたのは他でもない、俺の不手際だ。
 アレンという人間が、その美貌と口先だけで、約二十年という人生を渡り歩いてきたことを、俺は知っているはずだったのに……。







  
,泣いてみてもいいですか?


 あ、何か……俺、泣きそう。
 アレンに手玉に取られ、ここ数日、夜を徹して寝ずの番をした自分が、あまりにも滑稽で情けなくて、涙がこぼれそうになった。
 男の俺が泣くのって、うん、それもまたちょっと、情けないよな。
 でもさ、男だって泣きたいときがあるじゃん?
 そういうとき、泣いてもさ、うん、別に罰はあたらないよな。
 泣こうかな、俺。泣いたら少しは気が晴れるかもしれない。それに、明日からの食生活を思うと、もう、涙なんて止められないっていうか、泣くか? 泣こうぜ、俺。
 目にこみ上げてくる熱いものが、睫の淵からこぼれそうになったとき、ベッドにうずくまった俺の頭上から透明な声が冷たく言ってきた。
「これぐらいで、泣かないよね?」
 釘を刺されてしまった。くそっ! ここで泣いたら、何だか、よりいっそう惨めじゃねぇか。
 今度は俺が恨みがましい目で――多分、そう見えるだろう――アレンを睨み上げた。
「誤解しないでよね。僕は何もアールを苛めているわけじゃないよ? 本当のことを言っただけ。僕、嘘が嫌いなの、アールが一番知っているでしょう?」
「……認めたくないがな」
 アレンは嘘が嫌いだ。だから、アレン自身が嘘をつくことはない。
 意図的に本当のことを語らないことはあっても――それは事実を黙認することであって、偽証することではないのだから、一連の行為自体は嘘をついていないと言っても間違いじゃない。
 だから、アレンは馬鹿正直に金の使い道を答えた。報酬が一ゴールドたりとも残っていないことで、俺がどれだけ打ちのめされるかわかっていても……。
 こんなときこそ、黙っていてくれよ、と俺は思うが。
「まあ、何にしても泣かないでよ」
「泣くかっ!」
 いや、もう泣きそうだったけど……。こいつの前で泣くのだけはやっぱり、嫌だ。
「うーん、アールが泣いてもそれはそれで絵になりそうだけどね。美男子の涙なんて、なんか良くない?」
 アレンはそう言って、俺の顔を両手の平で包み込んだ。間近に迫る空色の瞳。白皙の美貌。
「何度見ても、アールって綺麗な顔をしているよね。アールが女の子だったら、良かったのに」
 心底、惜しそうに、アレンはため息をついた。
 漆黒の髪に紫紺の瞳。母親似の俺の顔は、まあある程度に見られるものらしい。とはいえ、この世で一番だろう、と思う顔を前に、俺が美形であるか、ないかなんて、たいした問題じゃないと思うが。
「お前が女だったら良かったと思うぞ、俺も」
 女相手に手を上げるというのは、男の風上にも置けない行為だろう。だから、女であるアレンを殴れない、それは当然の行為として成り立つ。
 しかし、ここまでコケにされて、男であるアレン相手に殴れないのは、その白い美貌のせいか。性別すら超越して、綺麗で可憐。男だってわかっているのに、くそっ! やっぱり、殴れねぇ!
 俺は馬鹿か? 何で、男相手に躊躇してるんだよ。
 拳を握って、苦悶している俺を余所にアレンは言う。
「駄目だよ、僕まで女の子になったら、アールをお嫁さんにできないじゃない」
「……嫁候補相手に、お前はこの仕打ちか?」
 もし、俺が女だったら、報酬を山分けしてくれたってのか? ただ働きさせるようなことはなかったってのか?
「女の子は大切にしなきゃ、男が廃るよ。でも、考えてみて? アールは男だし、僕も男。所詮、僕たちは男同士、結ばれぬ運命なんだ」
 口では何だかんだと言いながら、俺もアレンも男同士でいちゃつくような趣味はない。
 綺麗だと思うけどな。可憐だと思うけどな。中身がアレンのままなら、女になってもこいつだけとは恋愛しねぇよ。
「…………」
 何にしても、俺は男でアレンも男。ようするに、俺はアレンにとって、使い勝手のいい手駒なんだ。
 そうして、これからも馬車馬のように働かされるわけだ。いつものパターンだろ?
「それで……新しい仕事が入ったのか」
 俺はもう諦めて、アレンに本題を問いただす。こんな夜中にアレンが尋ねてきた理由は結局のところ、それしかないわけだろ?
 アレンは俺から手を離すと、ニッコリと花が咲いたように笑った。
「話が早いね、その通りだよ。お茶でも飲みながら、話そうよ」




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