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 第八章



  
,戻る日常


「ねぇ、知ってた? 人間って、簡単に家族すら切り捨てられるんだよ」
 小首を傾げて、笑いながらアレンは言う。
 雑踏の中で、透明な声がやけに響く。通りを過ぎる人たちの姿さえ、おぼろげなのにアレンの美貌だけはやけにクッキリと俺の目に映る。
 光を受けて煌めく淡い金髪、空色の瞳。この世のものとは思えない絶世の美貌で、突き放すように、アレンは告げた。
「見捨てちゃえばいいんだよ」
「そんなこと、できるはずがないだろっ?」
 俺は反射的に返していた。


「……何ができないっていうの?」
 妙に冷めた声が降ってきて、俺はパチリと目を見開いた。
 木目の天井をバックに、こちらを覗き込むのは白皙の美貌。穏やかな春の日の空色をした瞳は、アレン・ジーナス……俺の相棒。
「寝ぼけるのもいいけどね、怒鳴らないでよ。ビックリして、お茶をこぼしちゃったよ」
 空になったティーカップを指の先にぶら下げて、そう言ったアレンの視線を辿ると、俺の上に被せられていたシーツの上に茶色の染みができていた。
 それはちょうど、俺の腹部辺りで……じわりと染み込んできたその熱が、俺の身体を焦がすのに時間は掛からなかった。
「アチッ!」
 飛び起きた俺はベッドから転げ落ちる。床に頭を打ち付けて、痛い。
 そうして、目が覚めた俺は自分の居場所に戸惑う。
 ここはどこだ? 俺は[帰らずの森]で邪神と戦っていたはず。
 なのに、見回した場所はどこかの部屋の一室らしい。簡易ベッドが運び込まれたその部屋にあるのは、アレンが座っていたらしい椅子が一脚だけ。
 ……さっきのは、夢か?
「……ここは」
 俺の問いに答えたのは、聞き覚えのある声。
「私の診療所です」
 振り返ったそこに見つけた見覚えのある顔は、こめかみに青筋を浮かべていた。
 開け放ったドアを前に、決然と立ちふさがるその人影に、俺は顔を引きつらせた。何か、不穏なオーラが垣間見える。すげぇ、迫力。怖い。
 まあ、その人物が何に怒っているのかは……わかる。
 自重しろと言って追い出した相手が、全身骨折で舞い戻ってきたんだからな。
 ……思い出した。
 ここは、魔法医師の診療所。アレンにフライパンで殴られた俺が頭蓋骨陥没骨折の治療を受けた場所だ。
 そして、邪神との戦いでズタボロになった俺が再び、駆け込んだところ。
 魔法医師の魔法治療が最大限の効果を発するのは、傷を負って二十四時間内。それ以上を過ぎると、魔法の効果も傷の治癒にはあまり効かなくなってくる。
 全身骨折を負ったままだと、今後の仕事に差し支えるので、俺は森からの帰還後、ここに飛び込んできたわけだ。
 そうして、邪神との戦いと、森からの脱出で魔力を使い果たした俺は意識を失った。
 目が覚めた現状が今というわけだ。







  
,空白の時間


「あなたは一体、何をやってこられたんですかっ?」
 魔法医師は怒りを微塵も隠そうともせず、怒鳴る。
「どうして、そんなに御身を傷だらけにできるのです? 命が惜しくないのですか? 後数時間、手遅れだったら命がなかったかもしれませんよっ!」
 魔法医師の脅しに、俺は絶句した。
 そ、そんなに大怪我だったのか? そりゃ、肺を傷つけた気はしていたが……。
「死にたいのでしたら、勝手にやってください。私の魔法は命を救うためにある。あなたのように無鉄砲な方に使う力はありません」
「死にたいわけじゃ……」
「だったら、何です? あのザマは。命が惜しくないと見られても致し方ないでしょう?」
「……命は惜しいよ。俺は死んだりなんてできないから」
 この罪が償える日まで、俺は自分の意志ですら死ぬことなんて許しちゃいけない。
「ならば、何故? こんな無茶をなされるのか。何をされたのですか? そちらの方に聞いても、一向に答えてくださらない」
 苦虫を噛み潰したような顔で、魔法医師はアレンを振り返った。
 俺たちの視線を受けて、アレンは肩を竦める。
「僕に説明を求められても、言えることは限られているよ。僕らはジーナさんを捜すために森の中に入って――」
 アレンは顎に指を添えて、目を伏せて記憶を確認するように続けた。
「――人食い熊と」
「熊に襲われたのですかっ?」
 魔法医師は目を丸くして、俺を振り返ったが、その背中にアレンの声が追ってきて、
「遭遇したと思ったら、実はウサギで――」
 魔法医師の眉間に深い縦皺が刻まれた。
「それで今度は人食いワニが」
「ワニなど、この地方には生息していませんっ!」
 ブチッと、血管が切れるような音が聞こえた気がしたが……気のせいだってことにしておこう。
「うん、いなかったねぇ」
 アレンは目を見開いて、それから空色の瞳でどこか遠くを見つめるようにして、言った。
「その後――」
 それ以降のことは、アレンは知らないはずだ。
 神様が宿っている間、アレンの意識は眠らされている。
 そして、神様がアレンの身体から離れたのを見計らって、俺は移動魔法を発動させて、森から脱出し、この診療所に駆け込んだ。
 アレンの意識はあの白い男を追いかけた途中で途切れ、俺がこの診療所で意識を失った前後に繋がっている。
 目覚めたアレンが空白の時間に、何を思うかといえば……。
「――戻ってきたの」
 ……あ、あっさりと省略しやがったっ?
 記憶がないことに、戸惑ったりしねぇのか、おのれは?
 呆れながらも、俺は突っ込まなかった。
 神様のことをアレンにどう説明すればいいのか。だって、言ったって信じないだろ?
 人を信じないアレンが、信じるものはアレン自身だけ。
 記憶の空白の答えを他人に求めても、無駄だということをアレンは知っているから聞かないんだろう。そこにある真実を自分で確認できないのなら、例え、それが事実であっても、信用できない。ならば、初めから答えなんて求めないほうが賢い。
 ……それがアレンという奴の……凄いところで、寂しいところだろう。
 アレン自身がそれを寂しいと認めるかは、謎だが。







  
,救われたもの


「そうだ……ジーナはどうなった?」
 俺は魔法医師を振り仰いだ。
「クロレンス様はご無事でした。憔悴は激しいものですが、呼吸、脈拍も正常です。後は眠りからお目覚めになるのを待つだけです」
「起こさないの?」
「急ぎ、覚醒を促す必要はないかと思われます。身体機能の低下により、生命保全を優先させたゆえの眠りです。今はゆっくりと静養されたほうが良いでしょう」
「……目が覚めないってことは?」
 俺は自分の声が頼りなく響くのを、自覚した。
 自殺を図った妹は、一命を取り留めたが、目覚めることなく昏々と眠り続けている。
 神様の話によれば、意識が外界に接触することを拒んでいるのだという。
 妹は眠り続けながらまだ、俺に会うことを拒んでいるのだ。
 陰鬱になる俺を魔法医師は不思議そうに見て、安心させるかのように笑った。
「大丈夫ですよ。ただいま、点滴にて栄養薬を体内に入れています。自然、目が覚めるでしょう。こちらが与える光や音に反応していますし」
「……そっか」
 ホッと安堵の吐息が漏れた。
 今まで女神の犠牲になった奴らの数を思えば、たった一人しか救えなかったわけだが。それでも、ジーナを待っている家族の下に帰せたのは良かったと思う。
 だけど、神様は……。
 もっと早く、女神を止められなかったことを責めるんだろう。
 あの言葉を聞けば……。


「彼を解放して欲しい」
 神様が告げると、森はジーナを捕らえていた蔦を解いた。落ちてくるジーナの身体を受け止めて神様は、動くのが億劫で座り込んだ俺の前に運んでくる。
 華奢なアレンが自分と同じぐらいの男を抱えて――いわゆるお姫様抱っこ――いる姿は、ちょっと驚かされるが、ああ見えて結構、怪力だったりするんだよな、アレンは。
「後のことは、頼むよ、アール」
「……わかっている」
 頷いて、俺は神様の肩越しに横たわった、白い男の死体を見た。赤い血に沈んだその姿はもう、白とは言えなかったが。
 神様は俺の視線に気がついて、そちらを振り返った。
 そして、ゆっくりと立ち上がると、死体のほうへと歩いては、その側に跪いた。
「彼の肉体を土に返してあげて欲しい」
 神様がそう告げると、天上から木の葉がハラリハラリと舞い落ちて、死体を緑の葉で覆った。それはやがて、時が経てば腐葉土となり、土になる。
 男の死体もまた土に還るのだろう。
「ありがとう」
 神様は礼を口の端に乗せる。そして、何かを掬い上げるような仕草をした後、立ち上がり、森を眺め回した。
「……おいで」
 柔らかな声音で呼びかける。一瞬、俺に向けられたのかと、目を見張ると、森のどこからか光の玉がポツリポツリと現れ、神様の元へと集い始める。
「未練はあるだろう、恨みはあるだろう。何もできなかった私を責めたいだろう」
 静かに語りかけるその声は、慰めるように囁く。
「だが、その感情に捕らわれてしまっては、天へ昇れない。私と共に天へ行こう。新たな生に、私が導こう」
 光の玉は恐らく、女神に殺された人間たちの魂だろう。俺の感受能力では、人の姿――幽霊という形では目視できない。今じゃ、森の声も聞こえない。
 あのとき、森の声が聞こえなかったら……俺は、どうなっていただろう?
 逸脱しそうになる思考に神様の涼やかな声が過ぎる。
「ほら、道が見えるだろう。行こう」
 神様が天を見上げる。それにつられて、俺も顔を上げると木々が枝葉を掻き分けて、出現させた空は星が瞬き始めていた。
 その空へ、一つ一つ、光の玉が昇っていく。
「次の生は健やかなることを……」
 神様の声が密やかに唱えた祈りは、所詮、願いでしかない。
 それを実現できるか否かは、生まれ生きてゆく者たち次第だ。
 神様は視線を戻すと、まだ一つ昇らないでいる光の玉を手に取った。
「君が女神を地に堕とした罪は……君自身が思うように、軽くはない。だけど、罪を罪と自覚するのなら、償うことはできるはず。そうだろう?」
 光の玉に問いかけながら、空色の瞳は俺を振り返って微笑んだ。
「君のために犠牲になった命が多くあったことを、その魂に刻むといい。例え、記憶を失っても……その悔恨は新たな生において、君を正しきほうに導いてくれる。だから、君も行きなさい」
 天へと解き放つように、神様は光の玉を空へと投げた。
 ゆっくりと昇っていくそれに、神様はもう一度、告げる。
「いきなさい」
 ……その言葉が、「生きなさい」と言っているように聞こえた。





 
  
,報酬


 森で何をしてきたかという説明を一向にしない俺たちに、業を煮やした魔法医師は、
「あなた方とはもう二度と、お目にかかることがないことを、心よりお祈りいたしますっ!」
 と、叫ぶように言い放って、俺とアレンを診療所から追い出した。
 まあ、……会わないほうがいいよな。
 会うってことは、また怪我をしたってことだろうから。
 外に出たアレンは着替えなどが詰まったトランクを歩道に置くと、その上に腰掛けた。
「そうそう、アール。今回の報酬だけど」
 俺が眠り込んでいる間に、アレンはクロレンス家に行って報酬を受け取ってきたらしい。
「色々差し引いて、これがアールの取り分だよ」
 スーツの内ポケットから小切手を取り出したアレンは、金額を記入して俺のほうに差し出してきた。俺は受け取った小切手の、その額面に目が点になる。
「……なあ」
「何?」
「これ……金額、間違ってないか?」
 五百万ゴールドの報酬。その中から、アレンへの紹介料――普通は三割のところを、アレンは四割持っていって――二百万ゴールドを差し引いた、三百万ゴールドであるべきなんだが……。
「何で、百万ゴールドしかないんだよっ?」
 詰め寄った俺にアレンは、暑苦しいから近づかないで、と俺を突き返して、白い指をこちらに突きつけながら言い放つ。
「アール、忘れちゃいけないよ。まず、君の頭の治療費に貸した三十万ゴールドと、今度の全身骨折――何で、そんな怪我をしたのかは興味ないから、聞かないけどね。その治療費に、百万ゴールドかかったの」
「計算、合ってねぇぞ」
 三百万ゴールドから百三十万ゴールド差し引いても、後百七十万ゴールド残るはず。何で、俺の手元には百万ゴールドしかないんだっ?
「ああ、君が寝込んでいる間の僕の宿代も差し引いたから」
「どうしてっ?」
 宿代? 何だ、それ? 俺は目を剥いた。
「森から帰ってきたアールは、自分じゃ気付いていないみたいだけど、二日間寝込んでいたの。まさか、そんな君を置いて、僕一人でエルマに帰れないでしょう? 心優しい僕は付き添いのために、宿を取ったの。だから、宿泊費用はアールが負担して当然だよね」
 心優しい? その思い込みも甚だしい認識はどこから来るんだ、おのれは。
 思い込んでいることを口にしても、それは嘘にはならないって言っても、限度があるだろ?
「…………その宿代は、幾らだ?」
「二日で、五十万ゴールド」
 金額を聞いて、俺はフッと意識が飛んでいきそうになった。
「はあっ? 何でそんな金額になってんだよ。普通の宿だったら、五万ゴールドあれば十分だろっ?」
「普通の宿だったらね。でも、僕が泊まったのは貴族御用達の高級ホテルの特別ルームだったから」
「何で、そんなところに泊まるんだっ?」
「だって、泊まりたかったから」
 あっけらかんと言ってきたアレンに、俺の開いた口は塞がらない。
「よくよく考えてみてよ、アール。僕がうらぶれた安宿に泊まるなんて、絵。全然、僕らしくないでしょう?」
 なんていう理屈だ、それ? わけ、わからんし……。
「この美しい僕が泊まるのは、きらびやかな豪華ホテルに決まってるじゃない」
「……それでも計算が合わない」
 後、二十万ゴールドはどこに消えた?
「ああ、後はスーツのクリーニング代に、泥まみれになった靴を新調して、アパートの大家さんへのお土産代でしょう? アールの服も汚れていたから、新しいの、買ったよ。今、来ている服ね」
 俺は診療所から追い出される際に、着替えたシャツに目を落とす。
「この機会だから、アールにお洒落させようと思ったりもしたけどね?」
「止めてくれ」
「そう言うと思って、白いシャツを選んでおいたよ。それから、暇だったんで劇場に観劇しに行ったチケット代。その他、もろもろ。あ、忘れるとこだった。こないだ奢ってあげたお昼代も引いておいたから」
 しっかり、請求してきやがった。一つ言っておくが、それを支払ったら奢りでも何でもないだろうが。
 俺は半眼でアレンを睨んだ。
「……それ、何で、俺の報酬から差し引かれるんだよ?」
 お前、寝込んだ俺に付き添うために泊まったんだろ? それが、暇だったから観劇って、どういうことだ?
「だって、アールが悪いんだよ? さっさと目を覚まさないから」
「俺はっ!」
 邪神と戦って、死線を潜り抜けて生還したんだぞ? そんな俺に労わりの気持ちはないのか、おのれはっ!
 ――そう言いたい。言ってしまいたい。しかし、邪神のことを知らないアレンに説明するのは、まず、無理だ。
「まあ、何か色々とあったみたいだけど……そういえば、僕らが追いかけたあの人ってなんだったんだろうね?」
 アレンは空色の瞳で俺を見ると、微かに笑う。可憐な微笑が町行く人たちの足を止め、雑踏から音が消えた。
 俺が辺りを振り返ると、彼らはそそくさと足取りも速く立ち去って行った。
 アレンの美貌はここまでの効果を――恐ろしい。敵に回したら、……どんなことになるか。
 俺はアレンに視線を戻すと、真っ直ぐにこちらを見上げる空色の瞳は、鏡のように俺の影を映した。
 何かを見透かすような視線……それは俺の気のせいなのかもしれないが。
 俺は視線を逸らしながら、言った。
「森に住んでる住人だろ?」
 その言葉に嘘はない。あの男は、蘇生してからずっと女神と共に森で生きていた。
「その人が何で、僕たちに帰れなんて言ったのかな?」
 問い返すアレンはまるで、俺がどれだけ真実を語るのか、探っているような?
 そんなことはありえないと思うけれど――まさか、神様と意識を共有していたとか?
 でも……あの神様と意識を共有していて、アレンの性格がこれってことは……幾らなんでも、ありえねぇよな。 絶対、絶対に、ありえん。
 だって、それなら、もう少し優しくなってもいいはずだろっ?
「森の奥に入ったら危険だっていう忠告だったんだろ。無駄も良いところだったけど」
「全身骨折負っていればね、危ない目にあったんだってことはわかるよ。まあ、僕が五体満足なら、そこで何があったのかなんて興味ないからいいけど」
 俺の語る言葉すら信用しないのだから、何を聞いても一緒ってことか?
 俺の戸惑いなんて全く気にしないで、アレンは言った。
「何にしても、ジーナさんが助かって良かったじゃない。こうして、報酬が貰えたんだから」
 その報酬……結局、全体の二割しか、俺は手にしてねぇんだが。







  
,続く約束


 ガックリと肩を落とした俺に、アレンはどこまでも透きぬけていきそうな笑い声を響かせた。
「まあまあ、そうがっかりしないの。近いうちに次の仕事を紹介してあげるからさ」
「頼むぜ、マジで」
 次の仕事で報酬が手に入らなければ、妹の入院代が支払えない。
 俺としては、自分の明日の生活費云々より、重要問題だ。
 その辺りのことはアレンも承知済みのようだ。ニッコリと笑って請け負う。
「うん、任せといて」
 嘘をつかないアレンの、この言葉は信用していいだろう。
「あ、それと……」
 アレンはポケットを探って、手の平に収まる小瓶をこちらに差し出してきた。
「これ、アールのでしょう? 気を失いながらも握っていたんだって、お医者様が言っていたよ」
 俺はその小瓶を受け取った。そっと、指の中に握りこむ。
「それ、何?」
 アレンが頬を傾けて尋ねてきた。
「……薬」
 俺は慎重に言葉を選んで告げた。
 厳密言えば、これは生気だ。神様が邪神狩りの報酬として、俺に分け与えてくれたもの。三ヶ月程度の延命効果しかないものだが、それでもあの子にとっては必要なものだ。
 点滴治療だけでは、意識がなく眠り続ける身体を維持できない。よって、こうして神様から生気を分け与えてもらっている。
 ……掟に反するんじゃないかと、神様の申し出に最初は戸惑ったりもしたけれど。
 神様は笑って言った。

『……これは、賭けだから』
『……賭け?』
『そう。何故なら、君は戦わないことも選べた。……それに、邪神との戦いで命を落としてしまう可能性もあった』
『…………俺は』
『可能性の問題だ。私自身はそんなこと信じたくはないよ。でも、それも有り得る。そんな危険なことに、神々の問題であることに、人である君を巻き込んで……何もしないというのは、少し心苦しいよ』
 微苦笑を浮かべて、神様はスッと俺のほうに手を差し出してきた。白く細い指先が握っているのは小さな小瓶。
『君は賭けに勝った。そういうことに、しておきなさい』
『だけど……』
『私が君の働きに対して、何も与えないという、可能性もある。そういうことだよ。それに……それを得たからといって、彼女の目が覚めるということはない。目覚めは彼女自身が決めるものだから……本当の意味で、私は君の望みを叶えているわけじゃない』
 神様は俺の手に小瓶を握らせた。
『それでも、君は私の望みを叶えてくれた。人を喰らう呪縛から、私の同胞を救ってくれて礼を言う、ありがとう』

 心の底から感謝の念をあらわにした神様の――正確に言えば、アレンの顔だが――表情に俺は頷いた。
 礼を言いたいのは、俺のほうだ。神様に会わなければ、俺は神々を呪ったまま、自分の過ちに気付けなかったのだから……。

「薬って、酔い止め?」
 アレンの声が俺を現実に引き戻す。
「…………」
 俺はその質問に答えずに、曖昧に笑った。アレンが嘘をつかないように、俺も嘘をつきたくはなかったから。
「そうだ。アールはこれからどうする?」
 やっぱり興味がないのか、深く追求せずに別の問いを発してきた。
「これから?」
「僕、クレス、ファーレスを経由してエルマに帰るつもりなの。ちょっと、確かめたい情報があるんだ。上手くいけば、お仕事になるかも」
「へえ」
「それでアールはどうするのかなって。魔法で直接、エルマに帰る? それとも一緒に行く? あ、宿代は自分で出してね」
「……帰る」
 次の仕事で報酬が入っても、入院代の四百万ゴールドはギリギリだ。一ゴールドたりとも無駄遣いできない状況の俺に、金を出させるな。
「そう。エルマに直接? だったら、アパートの大家さんにお土産渡してもらえる? 少し帰りが遅くなるから、留守中、よろしく言って欲しいの」
 アレンは路上であるのにも関わらず、トランクを開け放って小包を取り出した。
「ファーレスに寄るつもりだけど……構わないぜ」
 土産物を受け取って答えた俺に、アレンは「ああ」と嘆息をつくように頷いた。
「妹さんのお見舞い?」
「まあな。……とりあえず、この金を前金として払っておく。手元に持っていてもろくなことになりそうにねぇからな」
「大変だよね。いつも、思うよ。たった一人の家族だからって何もかも、アールが背負うことなんてないと思うよ? 見捨てちゃえばいいのに」
 何かにつけて、アレンはそう言う。家族に捨てられた過去を持つアレンには家族の絆にしがみ付く俺たちはさぞ滑稽なんだろう。
 でも、どんなに重たくても家族は家族だと思う俺の答えは、昔と変わらない。
「そんなこと、できるはずないだろ」
「言うと思った。ホントに馬鹿だよねぇ。でも、そんなアールは嫌いじゃないよ」
 クスクスと笑って、アレンはトランクを持ち上げた。
「あ、そうだ。土産代はやっぱり請求するのか?」
 俺は手にした土産に目を落として、アレンに問う。
 出先から戻ってきては、アレンは土産だと色々な物をくれる。しかし、きっちり、土産代を請求してくる……それって土産と言っていいのか?
「は? そんなことしないよ。アールとは違うんだから」
「……お前、俺にだけ、土産代を請求するのか」
「アールにお土産を奢ってどうするの。何の得にもならないじゃない」
「アパートの大家に土産を奢って、得になるのか?」
「もしかしたら、アパートの家賃を安くしてくれるかもしれないじゃない? それにたまにご飯を差し入れて貰っているからね。愛想を売っておいて、損はない」
 うん、とアレンは頷いた。どこまでも計算づくなのか、お前。
 呆れる俺にアレンは薄く笑った。
「じゃあ、またね」
「ああ、またな」
 ヒラリと手の平を泳がせるアレンに、俺も手の平を振って応えた。馬車を拾うために大通りに出て行くアレンの背中を見送って、掲げた手で拳を握る。
 また、という約束を交わせることが、どれだけ幸せなことか。
 明日が、未来が、あるということを、確信できる約束は生きている者にだけ与えられる特権か。
 世界はそんなに優しくなくて、生きていくこともまた易しくない。
 罪を償うということも、死んで詫びるなんてことで許される、そんな甘いもんじゃない。
 だから、生きて――。茨の道がどれだけ険しくても、辛くても。
 泣き言なんて言っていられない。
 けれど、暗い道にも歩いていける希望を見つけたから……。
 俺は挫けずに、明日を信じられる。
 絶望した未来の先にも、まだ光があるってことを。
 それをあの子に教えられたら……。
「さて、行くか」
 俺は一人呟いて、移動魔法を構成させた。

 いつかまた、お前が笑える日まで。



                                   「不死の魔女 完」
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