第七章 1,その声の行方 ――ああ、どうか、それ以上は―― ――お願いです、グリーディ。もう、人を喰らうのは、お止めください―― ――これ以上、人を殺せば……あなたはもう―― ――我らが女神よ―― ――愛しき女神よ、どうか、どうか―― ――この声をお聞きください―― ――そして、本来のお姿にお戻りください―― ――我らを慈しんでくださった、お優しいあなた様に―― 痛切な響きを持った声が俺の意識に入り込んでくる。 それは森の声だろう。女神の力を受けて育った木々たちが女神に訴える願い。 ハラハラと舞い散る木の葉は涙のように、俺と女神の上に降り注いでくる。 一枚の葉が、投げ出された俺の指先に触れた。 そこから流れ込んでくる映像があった。 これは……森の記憶か? ザクザクと散った枯葉を踏みしめて、歩く一団があった。薄汚れ憔悴しきった彼らはやがて、一人一人と群れから脱落していく。 倒れた仲間を振り返る余裕なんて、誰にもない。 この森を抜けなければ、助かる見込みがないのなら……自分だけでも。 生き延びてみせる……。 そんな悲愴感が歩く者たちの横顔に伺えた。 ああ、これは三百年前の……。 滅びた国から脱出した難民たちが[帰らずの森]を抜けようと試みたそのときの……光景なんだろう。 俺は一団の中に見覚えのある顔を見つけた。 白銀の髪が異様に目を引くその男は……他でもない、女神によって蘇った死人の男。 勿論、このときはまだ、生きていた。だが、ふらつく足取りから、もう長くはないことを察することができる。 やがて、一団の頭数は指折り数えるほどになっていた。 そのなかで、あの男はまだついていった。 何度も倒れながら、這いつくばって、それでも一歩一歩、確実に歩みを刻んで……。 だが、森は広く、深く、立ちはだかる木立の間に、道を見失っては同じところをぐるぐると彷徨っていることを知るに至って、彼らは歩みを止めた。絶望に自らの命を摘んだ。 ただ一人残った男は仲間の骸を胡乱な瞳に捕らえ、自分たちの不幸を呪い始めた。 ――何で? ――どうして? 己の上に課せられた運命を誰に責めるのかといえば、やはり神か。 矛先が違うとわかっていても、それでも呪わずにはいられない。恨まずにはいられない。 強い呪いの、怨嗟の声が――星に届く頃。 もう生きている者など誰もいない。 それでも、強い思念は森を満たして、女神は降りてきた。 あの男の前に立ったとき、死体が動いた。勿論、身体は死んでいる。 死んでいて、だけど肉体を離れられずにいる男の魂が、腐敗寸前の死体を動かし女神を押し倒した。 ――どうしてっ! 何でだっ! 何で俺たちだけ、こんな目に会わなければならないっ? 俺たちが一体、何をしたって言うんだっ! ―― 男が叩きつけた声が、俺の中で重なる。 くそっ! それは俺の言葉だ。 あの子を傷つけてしまった俺は、その責任から逃れようとして、神に呪いの言葉を吐いた。 ――どうして、どうして、どうしてっ! 俺の声に応える者は誰もいなかった。でも、その男に女神は応えてしまった。 それが[帰らずの森]の始まりだ……。 2,掛け違ったボタン 何が正しくて、何が間違っているかなんて、簡単に答えが出せるほど、この世の中は易しくない。 間違ったつもりはなくても、俺は取り返しのつかない過ちを犯してしまった。 そんなボタンを掛け違うような、ミスは誰だって経験があるだろう。 そのミスを誰かに転嫁すること自体、間違いであるはずなのに、人は思い通りにならないことを人のせいにする。運命のせいにする。 それを正しいと思い込んでいる限り、それは間違いではないのだと、確固たる自信を持って、無茶苦茶な論理を振りかざす。 筋の通った正論に聞こえれば、それが正しいのだと勘違いして。 多分、それが正しいのだと、思ってしまう。 本当に正しいのかなんて、わからないし、間違っていないとも限らない。 でも……でも……自分に罪はなかったのかと、間違いはなかったのかと、俺はあのとき、冷静に自分を見つめていたかといえば、全然、そんなことはなくて。 ただ、起ってしまった現実を認めたくなくて、それを誰かのせいにしたかった。 けれど、誰のせいにすればいいのか、わからなくて、俺は神を呪った。恨んだ。 この運命を強いた神々を。 今なら自分の浅はかさがわかる。 間違っていたのは、他ならない俺だ。あの子の声を聞かなかったのは、俺だ。 ちゃんと、あの子は言っていたんだ。俺に寂しさを訴えていたんだ。 俺はその声を無視した。 自分の都合のいいように、解釈して。あの子の存在を黙殺した。 そうして、導いた運命は初めから決定されていたものではなく、俺がそう選択して選んでしまった最悪のシナリオ。 あのとき、俺の声に応えてくれたものはいなかった。 その後、出会ったアレンは俺に同情しなかった。神様はただ、自分には何もできないと告げた。 救いの手なんてあるはずがない。 間違っていたのは俺だったんだから……。罪を犯したのは俺だったんだから。 それを知った俺は過ちを認め、償うことを決めた。 間違いを認めなければ、本当に行きたい先に辿り着けるはずなんてない。 間違いを間違いだと知った俺は、今、歩いている道が茨の道でも、信じて行ける。 だからこそ、言える。 俺と同じ過ちを犯している女神に……。 ――もう、止めて……―― 指先に触れた葉をギュッと握りこんで、俺は全身の苦痛も構わず声を出した。 「あんたには……聞こえないのか、あの声が」 3,譲れないもの 「まだ、息があるのか。しぶとい」 女神の手に力がこもる。首をへし折ろうとでもいうのか? だが、俺には死ぬ気なんてないのならっ! 「<竜巻乱舞>」 かすれる声で――わざわざ、呪文を唱える必要もないのかもしれないが、声を出さずに構成した魔法では女神に太刀打ちできるとは思えない――呪文を叫んで、風を巻き起す。舞い散る木の葉が風にあおられ、それは鋭い刃となって女神の肌を切り裂いた。 「ああっ!」 悲鳴を上げて女神は自身を守ろうと、俺の首から手を離した。俺は逆に女神の手をつかんで横に引っ張った。勢い込んで倒れる女神の身体を払いのけて、立ち上がる。 全身の骨が軋もうが、痛みがあろうが、今やらなければ、殺されてしまう。 俺が死んだら、ジーナは助からない。これから先も[帰らずの森]の悲劇は続いていく。 神様はこの事実を前にしても、決して女神と対決したりはしないだろう。それはアレンの身を危険に晒すことになるのだから。そして、神々の力がぶつかれば、この森だけではなく甚大なる被害をもたらすことを知っているから。 神様がアレンの身に宿っている以上、アレンの命に対して、責任がある。神様がこの責任を放棄するはずない。そうして、神様が掟を守る以上、アレンの身に宿る形でしか、地上に降りることはできない。 間違いを正そうとする者が、ルールを破ってしまっては正論なんて口にできない。何を説いたって白々しい。誰も耳を傾けない。 それでは邪神を止められない。止める者がいなければ、邪神は……女神は人を喰らい続けるだろう。それが森を悲しませ、そして、あの声の主も置き去りにして……。 神っていうのは死なないという。だから、邪神の行いを止めるのは封印するしかない。 今、それができるのは俺だけだ。 神様が俺に邪神狩りの話を持ちかけたのは、他でもない。封印魔法を扱える上級魔法使いの力が必要だった。 邪神と戦える人間ならば他の上級魔法使いでも良かったはず。しかし、命をかけるようなこの役目に対して、決して表沙汰にならない栄誉に、勇んで挑むほど人間は強くない。 背負うものがあるから、守るものがあるから、人は強さを求め、戦う。 そして、他の上級魔法使いは国を守ることを選んでいた。 宮廷魔法師になることを選ばなかった俺にも、守るものがあった。背負うものがあった。 その、俺にとって自分の命より大切なあの子が、一年前のあのとき、危険に晒された。その場に居合わせた俺は神様に戦うことを求められた。 あの出会いは偶然だったのだろう。 でも、今、俺が戦うのは必然。神様と契約し、俺は自ら戦うことを決めたんだ。 譲れないものがあるのなら、ボロボロになろうが、血反吐を吐こうが。 「負けるわけにはいかないんだよっ!」 「黙れっ!」 女神の声に応じて、木々たちが襲い掛かってくる。前後左右から槍のような鋭さで突き出される木の枝に、木の根。それを目に留め、俺は魔法を組み立てる。 「<火炎牢獄>」 地面から天上に突き出された炎の檻は、内側と外側を隔離し、中にいる俺を襲う木の枝や根は、炎に巻かれて燃え落ちた。 その火炎の檻を維持したまま、俺はさらに魔法を組み立てる。 「<水龍咆哮>」 水の龍が撒き散らす水流が炎を消し去り、さらに森をしっとりと濡らす。それを確認したところで、新たに魔法を放つ。 「<氷龍咆哮>」 冷ややかな空気が辺り一面を凍結させた。大地は凍り、木の根は地中に閉じ込められ、木の枝もまた動きを封じられた。 これで、女神がいかに命令を下そうと、木々たちは従えないはずだ。 ゆらりと起き上がる女神と対峙して、俺は大きく息を吐いた。それだけで、身体中が痛い。意識を失いそうだ。 それでも、やると決めたら、最後まで貫き通す。それが今の俺にできる唯一の償いだから……。 4,悔恨 女神の目が俺を捉えた瞬間、衝撃波が襲ってきた。 「<絶対防壁>」 受け止めて、勢いに押されて片膝をつく。ただそれだけの衝撃でも、今の俺には全身をたこ殴りにされているかのような痛みが走る。 集中が途切れ、魔法が弱まる。押さえきれなくなった衝撃波が俺を地面に叩き伏せるのは容易だった。 「……がぁっ!」 肺に溢れた血を吐いて、俺は貧血で眩む目を凝らして女神を見上げた。 女神は自分の薄いグリーンの髪を一本、引き抜いた。それは見る間に槍へと変化する。 神々の身体が力の結晶体ならば、意志によって自在に変化できるのか? 「人間の分際で神であるわたくしをよくも、てこずらせてくれた。それを誇りに死ぬがいい」 冷ややかに言い放った女神が槍を突き出し、鮮血が舞った。 赤い血が目に入って、俺の視界を朱に染めた。紅色の世界に立ちはだかった人影の、その腹を貫通した槍の先が俺の目と鼻の先にあった。矛先から緋色の雫が俺の頬へと流れてきた。 「どうして……?」 震えて問いかける女神の声は、女神の敵である俺を庇った白い男に対して向けられていた。 「もう……止めてください」 男は自分の腹に突き刺さった槍を押さえ込むように片手で握り、首を振った。白銀の髪がさらさらと音を立てる。 俺は男の背後で、何とか上体を起き上がらせた。 どういうことだ? 疑問に思ったのも、一瞬だけ。 最後に触れた森の記憶が、俺の考える通りなら、この男はもう……。 「何故です。どうして、その人間をあなたが庇うの?」 女神は信じられないと言いたげに、目を見開き、槍から手を離した。槍はその瞬間、形を失い消えた。 傷口を塞いでいた槍が消えたことによって、男の腹から血が大量にあふれ出す。一度死んでいても、肉体にも血が流れているのか……俺はそんなどうでもいいようなことを考える。 この出血は男にとって、どんな意味があるのか。やはり、血を失えば死ぬのか? ジリジリと距離を取って、俺は立ち上がる。そんな俺に構わず、女神は男に駆け寄ろうとした。その慌てぶりからみれば、その血が男の命を繋いでいるのがわかる。 女神が人間たちから生気と共に血を吸い取り、男に与えることで、死人は蘇った。血が枯れれば男は死ぬんだろう。 滴り落ちる血液は、凍った大地に赤い血だまりを作る。男はそこに片膝をつき、女神は倒れる男を胸に抱いた。 「今、血を……」 男の傷口に触れて、血を止めようとする女神の手を、男は握って止めた。 「もう、止めてください。……俺はもう、誰かの命を喰らって……生きることなど、望まない」 「何を言うのです。今さら……そんなっ!」 女神は嫌だ、というように首を振った。さらさらと流れるグリーンの髪。駄々をこねるように首を振るその姿は子供のようだ。 さっきまで、俺を殺そうとしていた、あの姿とはまるで別物に見える。 女神にとって、この男は恋人なのだろう。 俺を人間風情と蔑みながら、それでいて人間の男を愛する矛盾。けれど、人間の心も神の心もそう大して変わらない。 神とはいえ万能ではないのだから迷いはあるだろう。矛盾は付きまとうだろう。 「……グリーディ様。あなたは俺を生き返らせるために、天と決別した。あなたが俺を選んでくれたことは、この上ない幸せだった。……全てを、何もかもを失った俺にとって……あなたが俺という存在に目をかけてくれて、どれほど幸せだったか。どうすれば、伝わるのか……」 男の呼吸が浅く速くなる。肺の深くまで息を吸い込むことすら困難になっているようだ。 まさに虫の吐息。 「本当にありがたく思う。……でも、だからこそ……」 男は唇を噛んで、女神に最後の言葉を告げた。 「……俺は、あなたを……この道に引きずり込んでしまった俺が……許せない」 5,森の記憶 いつからか、女神は男を生かすという名目で、人を喰らうことを当たり前のこととしていた。 最初の頃は人間を捕らえた後、女神は命を喰らい男に生気を分け与えた。そうやって、喰らうのは男の生気が尽きかけたときだけ。 だが、一度に複数もの人間を捕らえたとき、女神は人間を目的もなしに喰らった。 言い訳するなら、そいつら人間が森の外に出て、女神と男のことを口外させないために……。 だが、それが本当に言い訳に過ぎないことを、森は、そして男自身は気付いていた。 命を奪う瞬間の、女神の恍惚とした横顔は、人を喰らうという行為に酔っていた。それは俺の生気を奪おうとしたときの、女神の表情からもわかる。 完全に中毒症状に陥っていた。 だが、女神には建前があった。男を生かし続けるのだという名目が、女神自身に中毒症状を自覚させることはなかったんだろう。 男はそんな女神に違和感を覚え始める。 彷徨っていた俺とアレンの前に現れて「命が惜しくば、この場から去れ」と言ったあの言葉は男の本心だったと、森の記憶に触れた今の俺には確信できた。 もう、女神には人を喰らって欲しくない。本来の姿に戻って欲しい。 森や男のひそやかな願いの声は、完全に中毒になっている女神には届かない。 ……昔の俺と同じだ。 俺が十三のとき、両親が揃って死んだ。俺たちは親戚の下に預けられた。 預けられたその先は、決して居心地が良いとは言えなかった。親類は俺たちの保護をあくまで、義務として受け止めていた。 親戚と交わす淡々としたやり取りは、俺には逆に有り難かった。恩着せがましくない分、俺としてはその場にいることに抵抗を覚えなかったのだ。 両親が残した遺産で俺たちの生活費を賄い、俺たちを養う。保護者面をすることがないので、俺としてはその家を出ることに全く、抵抗を覚えなかったのだ。 十五になって、魔法学校に入学を決めると、俺は親戚の家に妹を置いてそこを出た。 そして、卒業するまでの三年……俺は妹を顧みることは一度もなかった。 最終的な目的に達すれば、全てが良くなるのだと信じていた。宮廷魔法師になれば、安定した収入と家屋敷が望めば与えられる。そうすれば、妹に楽をさせてやれる。幸せになれるのだと、そう思っていた。 それをあの子もわかっているのだと、確かめることもしないで。俺はあの子の声に耳を傾けずに振り返らなかった。 ……結果もまた、同じだ。 女神は自分を愛してくれる森や男たちの気持ちを踏みにじり、傷つけた。 俺はあの子が自らの命に死の選択を下すまで、追い詰めた。 大事なものをなくして、初めて自分が犯した過ちの大きさに気付く。 妹はとても甘えたな性格だった。いつも、両親の後を、俺の後をついてくるようなあの子が、俺と同じように親戚の無関心さに割り切れるはずはなかった。 そして、三年――孤独に耐えていた妹は、俺との再会を拒んだ。 再会した兄に、存在を否定されることを恐れた妹は、俺と会うことを拒み自らの手首にナイフの刃を切り込んだ。 わかっていたんだ、俺は。あの子の甘えたな性格も。魔法学校に届けられたあの子からの手紙に記された、寂しさを。 なのに、俺は無視してしまった。寂しさを増長させ、追い詰めた。 愚かでしょうがない。 だけど……過ちを知ったなら、間違いを正すことはできるはず。償うことはできるはず。 亡骸を取り落として、女神はゆらりと立ち上がった。亡霊というものを目にすることができたなら、今の女神はまさしく、それかもしれない。 血走った目、鬼気迫る形相で、俺に詰め寄る。 「貴様の命を寄越しなさいっ!」 「あんた、まだっ! また、奴を生き返らせるつもりかっ?」 「そうよ、まだ間に合う」 払った女神の腕が俺の頬を打ち、爪が皮膚を切り裂いた。熱い血が――自分の中にこれほどの熱があるのかと思い知らされるほどに、傷口は熱を持ち、血が頬を流れる。 まるで刃だな。畜生っ! 全身骨折を負っているだろう俺に、ちょっとした切り傷は、今さら驚くような痛みではないが、それでも痛いもんは痛いんだぞっ! 「<風波>」 俺は風圧で女神の身体を押し戻し、魔法呪文を立て続けに唱える。 「<氷牙>」 氷の牙が女神を襲う。女神は一睨みでそれらを粉砕すると、再び俺に手を伸ばしてきた。 「貴様など、生きていてどれほどの価値があるというっ!」 女神にとってあの男以外の人間は、大した価値を持っていないのだろう。喰らう一瞬、快感に似た酔いを与えてくれる以外は。 「あんたにとっちゃ、俺なんて存在の価値すらないだろうさっ! だけど、それでも俺は俺の目的のために、生きているっ! あんたにくれてやる命はないんだよっ」 掴み掛かってくる女神のわき腹に手を突き出して、魔法を放つ。 「<水龍激進>」 水圧が女神の身体を木の幹へと叩きつけた。地面へと崩れる女神を見据えて、俺は吐き捨てる。 「それこそ、あんたは一体、何なんだ? 邪神と呼ばれる覚悟を持って、その男を愛したなら、そいつの思いに気付けよっ! あんたを呼ぶ、森たちの声に耳を澄ませっ!」 「何を……」 女神は怪訝そうに目を細めた。 「俺にだって聞こえてるってのに。あんたには聞こえないのかよっ! こんなにも森はあんたを呼んでるのにっ!」 6,終焉 ――女神よ―― ――我らが愛しき、女神よ―― ――もう、お止めください。貴方様の優しさも悲しみも―― ――願うことはただ一つ―― ――ならば―― 木々のざわめきと共に降り注ぐ声に、女神は目を見張った。 「わたくしは……」 「あんたが人を喰らうことを森が黙認し、神様の目からあんたを隠したのは、他でもないあんたを守りたかったからだろ? あの男が、俺を庇って死んだのは、あんたにこれ以上罪を重ねさせたくなかったからだろ? その愛し方が正しいのか、俺にはわかんねぇ。あんたが掟を破らなければ、そもそも、森はこんなに苦しまずに、あの男だって生まれ変わって新しい人生を選べたはずだからなっ!」 「わたくしは……」 「過ちを犯した俺自身に、あんたが仕出かした間違いを本当はとやかく言えやしない。でも、過ちを知るから、言ってやるっ! もう間違いを繰り返すのは止めろっ!」 俺は全身の力を振り絞って叫んだ。 「もう止めにしようぜ!」 重たい腕を持ち上げて魔法陣を描き、呪文を唱えた。 「<縛捕>」 放たれた魔法の、光の網が女神を捕らえた。 網に捕らわれた女神は身を捩じらせ、逃れようとする。 「わたくしはっ! ソフィっ!」 女神は神様へと身を乗り出す。魔法の網で女神を捕まえている俺は引っ張られそうになって足を踏ん張る。力を込めたそれだけで、全身から汗が吹き出るほどの激痛が襲う。 「……グリーディ。帰ろう」 神様は哀れむように囁いた。 「わたくしは彼を愛しただけっ! それは間違いだったのですかっ?」 「人を想う心に間違いはないよ。ただ、愛し方を君は間違えた。私たちは神だ。この存在はいともたやすく、人の運命を歪めてしまう。同じ世界で愛し合うことなんて……できないのなら、私たちは天上界から、愛しき彼らを見守ろう」 それが、神々が決めた慈愛。掟の本当の意味。 「私たちにできる愛し方で……」 女神の身体から力を抜ける。俺は神様に視線を投げて、神様はそれに応えるように頷いた。 「帰ろう――」 「<封印>」 神様が女神の真名を呼ぶ声と、俺の魔法呪文が重なって、響く。 パァッと弾けるように、光が拡散し収束したその後、女神の姿はどこにもなかった。 そうして、神様の手に握られたのは一片の石。それは女神を封印し結晶化したもの。神様は長い月日をかけて、女神をこれから浄化する。 それはとても長い長い月日だ。人間の俺なんかが、想像もつかないような年月。 それほどに、邪神のなかに染みた罪は深い。 人を喰い、覚えたその味に、快感に、二度と溺れることがないように。 浄化――それは記憶を消すことに似て、女神が再び意識を取り戻すとき、あの男のことは忘れているだろう。 堕ちる覚悟を決めて、人を愛したその気持ちを消されてしまうのは辛いと思う。 けれど、罪を犯すということは、同じ分の辛さを周りのものに与えるんじゃないかと、俺には思えた。 女神の与えた傷が、癒える月日は如何なものか。 女神を止めることができなかった森は、そして、女神をこの道に引きずり込んでしまった男の魂は未来永劫に苦しむだろう。女神が忘却してしまっても。 罪を消すことは、簡単じゃない。 同時に、傷が癒されることも、簡単じゃない。 だから、許されることを望んじゃいけない。そんなことはわかっている。でも、それでも、いつか、もう一度。 ……もう一度、お前が笑える日が来ることを。 願う俺を……許して欲しい。 |