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1,日常の終わり


 俺ほど不幸な星の下に生まれた奴はいないだろう、とルーは思う。
 膝をむき出しにした半ズボンに、少し大きめのシャツ。その上から掃除の際に少し汚れてしまった白いエプロン。短く切りそろえた赤毛に、赤い瞳の少年のような外見のルーは、ホウキでゴミをかき集めるというよりかき散らしながら、自らの不幸を嘆き続けた。
 赤ん坊だった頃に捨てられたというのも、意地悪で根性腐れのあの人の下で暮らすのも。
「ルー、どうでもいいのですけれど……そういう思念を魔法で飛ばすものじゃありませんよ。心の内で思うだけにしておきなさい。僕が心優しい養い親だから注意するだけですみますけどね」
 背後で声がした。ルーはホウキを持ったまま硬直した。聞こえなかった振りをしてやり過ごそうと決意するが、彼の言った言葉が引っかかる。
(誰が、心優しい養い親だっ?)
 この馬鹿でかい城内を俺一人で掃除しろ、などと無茶なことを命令する奴が。どう考えたって意地悪の根性腐れ以外の何者でもないだろう。
「ルー……」
 ため息をつくような感じで彼はルーを呼んだ。しかし、ルーは振り返らなかった。振り返れなかった。振り向くのが恐ろしくて。
「……ルビィ・ブラッド」
 ルーというのは、愛称だ。
 本名は、ルビィ・ブラッド。彼から貰った名だ。赤い瞳が宝石のようだったからと言って。ルビーにとって最高の品は血の色をしたものだとも。
「ルー? ルビィ・ブラッド? ……ポチ? タマ? ……クロ、シロ、ブチ」
 彼は出鱈目な名前を並べる。最初は堪えていたルーだったが、猫のような名前を呼ばれ続けていると自分が猫になったような気がする。そして、このまま沈黙を続けていたら、本当に名前を変えられてしまうだろう。
 一度、彼を徹底的に無視していたら馬鹿と変名された。それだけは嫌だったので、泣いて謝ったルーだったが、素直に許してくれるような養い親ではなかった。一ヶ月ほど、馬鹿と呼ばれ続けた。そういう経験が前にあった。
「猫ですか、俺はっ?」
 背中を向けたままルーは叫んだ。
「おや、君の名前はブチでしたか。それは知りませんでした。今度からそう呼びましょう。それでブチ」
 のんびりした口調でルーの背中に呼びかける。
「ブチじゃありませんっ!」
「じゃあ、シロ」
「違います、俺はルーです。ルビィ・ブラッドです」
 そう叫んで、振り返ったルーの赤い瞳に白い影が映る。
 銀の髪に白い肌。微かに色づいた水色の瞳。二十いくつにしか見えない美貌の青年は、華奢な身体に純白のローブを身にまとっている。どこまでも白い人だ。
 その姿は、明かりの足りないこの城の中で美しく映えた。
 煌めく白皙の美貌に、ルーは見とれてしまう。もう十七年も、この人だけを見つめ続けてきたというのに、見慣れるということはない。
 と、白いその人は艶やかに微笑んで、首を傾げる。
「それは変ですね。僕はルビィ・ブラッドと呼びかけたはずですが?」
「…………」
 無視していたとは、言えないルーだった。
「それで、何か? 先生」
 皮肉を聞かなかったことにして、ルーは尋ねる。
 面と向かって文句を言ったところで、ギタギタのグチョングチョンに叩きのめされるのがオチだ。
「何かの御用があって、ここまで降りて来られたんでしょう?」
 この麗人が食事以外で自分の部屋を出ることは滅多にない。
 いつも、出向くのはルーのほうだった。
 彼に用事を伺い、その役目を請け負う。もっとも、その役目というのが食事から洗濯、掃除などなどの雑用。この城にルーと彼の二人しかいなくて、彼に養われている身の上としては、ルーに拒否権はない。
 だけど、食事にしても彼はルーが作れない豪勢なものを注文してくるし――意外に、料理が得意な癖して――掃除はといえば、馬鹿っ広い城の掃除を隅々まで一人でやれと、滅茶苦茶なことを言う。イジメとしか考えられない。
 そんな息子の嫁に来た相手に、姑のようなイジメを敢行する彼がわざわざ、自分の前に現れたというのは。
 ルーは、自分を真っ直ぐに見つめてくる水色の瞳に息を呑んだ。
(また何か、ろくでもないことを考えているんじゃないだろうなっ?)
「……ルー、だから、何度も言わせないでください。そうやって心に思ったことを思念として魔法で飛ばすのは止めなさい」
 先程と同じことを繰り返す彼に、ルーは言われている言葉の意味を知る。
 事実と異なる人物像にばかり気を取られていた。ヤバイと反射的に思う。
 彼にはルーの心が筒抜けになっているのだ。
 ルーは彼から毎日二時間、色々なことを学んでいる。魔法もその一つだが、ルーの腕前はまだまだで、能力が上手く制御できない。だから、時として伝心魔法を無意識に使ってしまう。
(ひぇっー、マジ? じゃあ、故意に無視していたこともバレバレ?)
「その通りですよ、ルー」
 彼はニッコリと微笑んだ。一見、邪気のない笑顔に見えるが、それが一番危ないことをルーはその身でもって知っていた。
「いい根性しているじゃないですか、えぇ? ルー君?」
 笑顔を一転させ、銀の瞳を据わらせると彼は柔らかな白い頬を引きつらせた。
「……先生」
 ルーは一歩、後退した。カツンと靴音を響かせて彼はルーに一歩、詰め寄った。
「捨て子だった君を拾い、ここまで満足に食わせて育ててやったのは誰だか、わかっているのでしょうねぇ?」
「そりゃゃゃゃあ、もちろんっ!」
「では、その養い親の名を言ってごらんなさい」
「はいっ、俺を十七年間、満足に食わせて愛情たっぷりに育ててくださったのは偉大なる不死の魔法使いでこの世における奇跡の麗人、レイテ・アンドリュー様でございます」
「その僕に、君は何ですか? 根性腐れ? 酷いことを言ってくれるではありませんか」
 彼、レイテは壁際に追い詰めたルーの顔を白い綺麗な指先でなぞった。その妖しい指の動きにじっと耐えていると、ルーの目の前でレイテはそっと微笑んだ。
「本当に……可愛らしく育って」
 ぷにっと、レイテはルーの頬の肉を摘んだ。
「しかし、口は可愛くありませんねぇ〜。優しい養い親を根性腐れと」
「おひぇはぁいっていはせん」
 俺は言っていません、とルーは言いたかった。心の中で思っただけで発言はしていない。
 しかし、レイテに頬を摘まれて引っ張られている状態では、正しく発音はできない。
「素直に謝れば許してやるものを」
(素直に謝った相手を一ヶ月、馬鹿と呼び続けたのはどこの根性腐れだっ!)
 ルーは頬の痛みに耐えながら、心の中で毒づく。その思考が、彼に筒抜けになっていることを忘れて。
「馬鹿を馬鹿と言って何が悪いのです? 親切丁寧に伝心魔法で思念を飛ばすなと、教えてやっているのに、いまだに養い親に根性腐れなどと毒づく馬鹿に」
 レイテは頬を引っ張る力を強めた。
「ずびばぜん」
「謝れば良いという問題ですか?」
 前言を撤回して、レイテはさらに力を込める。
「いだじいだび」
「きちんと発音しなさい。でなければ、何と言っているのかわかりませんよ。ルー」
 きっと通じているくせに、根性腐れのレイテは力一杯にレイテの頬肉を引っ張る。
 ルーはこのまま、頬の肉が剥ぎ取られてしまうのではないかと本気で心配した。それほどに痛かった。
「……僕はそれほど、残酷ではありませんからね」
 レイテは指を離す。ルーはレイテの指が離れた瞬間、両手で頬を包んだ。同じ仕打ちを受けないためのガードのつもりである。
「……自業自得ですよ、ルー」
 そんなルーの視界の端で、レイテは顎を上向かせながら言った。
 確かに、彼を怒らせた自分が悪い、とルーは思うのだが。
(それにしても……)
 根性が悪い、と思いかけてルーは思考を停止した。これ以上、進んではならない。
「そこで止めたのは賢明ですけどね。君の考えていることなんて魔法でなくとも手に取るようにわかるのですよ、ルー」
 ニッコリとまた、彼は笑った。
 その笑顔を見やって、ルーは言い逃れが無駄なことを知る。
(ああ、どうか神様、俺に救いの手を……)
 そのとき、ルーは普段は無神論者の癖に、そう願った。
「君ってつくづく馬鹿ですねぇ」
 レイテが呆れたように呟く。
 その思考が、他でもなくルーの心のやましさを証明しているのだった。
 筒抜けになっているルーの思考に、レイテはため息をつくと、不意に顔をあらぬ方向へと向けた。
「………………ルー、お客様をお通しして。それと金庫から百枚ばかりの金貨を用意してください」
「えっ?」
 てっきり報復が来るものと、身構えていたルーは間抜けな反応を返す。
「君の耳はお飾りですか? ならば外してしまいなさい」
 さっきまでのおどけた調子から一転して、レイテの声音は厳しいものに変わっていた。
 滅多に見ることのない彼の険しい横顔に、ルーは一抹の不安を覚えながら、その命令に従った。
 踊り場から玄関に降りて、ルーは扉を開いた。多分、レイテが城の外に捨てられていたルーを拾うために開かれて以来、十七年ぶりの開門に外にいた客は城内に招かれる。
 このとき、この来客が嵐を呼ぶ客であることを、ルーは知らなかった。

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