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 後日談 「本物はどっち? (前編)」


 フラリスの街で、自警団団長をしているグレースがその噂を耳にしたとき、これは由々しき一大事だと思った。
 速攻、師匠であるレイテに、この事態を知らせなければと、彼は移動魔法を発動させていた。
 どんな場所でも、目的地が明確であれば一瞬にして移動できる便利な魔法。しかし今の世では魔法はあまり利用されていない。
 約九百年前、この大陸全土を巻き込んで起こった大きな戦争があった。その戦争で魔法使いは前線に立ち、駒として死んでいった。この戦争を境に魔法使いは減少し、今では偉大なる魔法使いレイテ・アンドリューと後は数えるほどの人間しか残っていない。
 この魔法戦争で、魔法の能力を持つことを恐れた人間がその能力に恐怖し、自ら魔法を封印してしまったのだ。
 現在では独学で学ぶ者以外、魔法の知識を受け継ぐことは殆どない。
 だが、グレースは魔法戦争以前から生きている、偉大なる不死の魔法使いレイテ・アンドリューにある事件をきっかけに、直々に魔法を伝授して貰った。
 そうして不死の魔法使いから教えてもらった移動魔法で、グレースは瞬く間にレイテの城へと辿り着いて、第一声で叫ぶ。
「若様、大変スよっ!」
 レイテ・アンドリューは二十歳の肉体で時間を止めていた。心臓に刻まれた不死の魔法陣により、年老いることなく一千年の時を生きている。
 そんな彼は銀髪に水色の瞳の美貌の麗人だった。純白のローブに身を包んだ彼の白い影は、男のグレースでも見ほれるほどに美しい。
 しかして、長い睫に縁取られた水色の瞳がグレースの姿を目に留めると、微かなため息をこぼして言った。
「やり直し」
「……は?」
 グレースはこちらを冷ややかに見つめる視線に、前のめり気味の己の身体にブレーキをかける。そして、間の抜けた表情を返す。
 そんなグレースにレイテは淡々と告げた。
「大変という言葉は聞き飽きました。もう少し趣向を凝らした、緊迫感溢れる表現をお願いします」
「えーと、緊急事態スッ」
 首を捻りつつ、グレースは言った。即座に、レイテの声が切り捨てた。
「つまらない」
 反応が冷たい。何だろう、機嫌が悪いのだろうか?
 グレースは巨漢の体躯を縮め、茶色の瞳を上目遣いにし、師匠の様子を伺いながら、続けた。
「……一大事スッ」
「だから、どうしました」
「……わ、若様?」
 けんもほろろの素っ気ない態度にグレースが困惑すると、銀髪を額の上でさらりと揺らしてレイテは首を振った。
「大変という第一声で、ろくでもないことにしか巻き込まれた経験しかないのですよ、僕は。そして、今回もまた、ろくでもないことなのでしょう?」
 そう言って、銀の眉を嫌そうに顰める美貌は、どこまでも美麗であった。レイテの言が決して的外れではないので、グレースは言葉に詰まる。
 そんな彼の背後のドアが派手な音を立てて、開いた。
「先生っ! 大変ですっ!」
 そう叫ぶ声に、レイテの眉間の皺が深くなるのを目撃すれば、グレースはこのまま踵を返して帰った方が、己の身のためではないかと思う。
 そう考えていると、部屋に飛び込んできた赤毛の少年のように見えなくもない――一応、少女であるが、少年のような格好をしている――レイテの一番弟子、ルビィ・ブラッドが口を大きく開いて声を張り上げた。
「部屋の壁に穴が開きましたっ!」
「…………ほう。先ほどの轟音は壁に穴が開いた音だったのですね」
 レイテのその一言に、グレースは自分が最悪のタイミングでこの場にやって来てしまったことを知り、己の不運を呪う。
「それはまた、一体どういう理由から壁に穴が開いたのでしょう?」
 静かに問いかける声が微妙に殺伐とした雰囲気を作り出しているのを、ルーは――ルビィ・ブラッドの愛称はルーと言う――気づいていない様子で続けた。
「先生の言いつけで部屋の掃除をしようとして」
「…………それは、それは」
 何故、掃除をしていて壁に穴が開くのだ? と、水色の瞳は冷たく問いかけていた。
 ――鮮やかに微笑みながら。
 キラキラと後光をまとい、華麗に微笑む笑顔の中で、水色の瞳に浮かんだ冷ややかさは、研ぎ澄まされたナイフのような剣呑さを湛えていた。触れるだけで傷つけられそうな鋭い視線が、グレースの背筋を震わせる。
 どこまでも美しく、壮麗である笑顔。
 この師匠が、その美貌を惜しげもなく輝かせて微笑む――それは表情とは裏腹の感情を爆発させる兆候だと、グレースはこの数年の付き合いで見抜いていた。
 彼の傍で暮らした日数がもう直ぐ二十年になろうかという、ルーも当然知っていることだが。どうしてか、少女は目を瞑っている。
 部屋の壁に穴が開いた過程を脳内で反芻しているのだろうか、目を瞑ってこめかみに指を置きながら続けた。
「この間、先生から教えてもらった竜巻の魔法を試そうとしたんです。あれで、ゴミを吸い上げたら、お掃除も簡単かなーって」
 と、目を開けた少女の赤い瞳はキラキラと輝いていた。
 まるで、その発想を褒めて欲しいというように。
(――じ、嬢さん)
 少女の思考はこの一瞬、壁に穴を開けたという過ちを、綺麗サッパリ忘れているようだ。師匠がまとう後光に気づかず、レイテに問いかけていた。
「俺って、何か賢いと思いませんか、先生?」
「――この馬鹿娘っ!」
 ドゴッという音に、握られた白い拳が赤毛の脳天に落ちた。それは暗雲によって黒く染められた天空を、瞬きの間に白く塗り替える稲妻にも似た衝撃。
 他人事ながら、グレースは情けない声を上げて飛び上がった。
 そんな中、白目を剥いて床に崩れ落ちるルーを一瞥して、レイテの水色の瞳が肩越しに振り返る。
 視線に射られる一瞬、グレースの身体は無意識に師匠から距離を取っていた。
 部屋の隅に避難し怯えるグレースに、レイテは額の上で銀髪をサラリと揺らしながら、微笑む。
「それで、グレースさん。一大事とは、どういったご用件なのでしょう? 前もって宣言しておきますが、僕の機嫌は、自分でも自覚できるほどに最悪です」
 どこまでも丁寧な口調でレイテは淡々と告げる。そうして、純白のローブの胸元で両手の指を組み合わせるとポキポキと間接を鳴らし始めた。
 涼しげな表情のこめかみに、青筋が見えるのはグレースの目の錯覚か?
 壁に背中を押し付けた――もう、逃げ場はなくなった――グレースを前に、美貌の麗人は唇に淡い笑みを浮かべて、言った。
「くだらないことだった場合、多少の八つ当たりは覚悟しておいてくださいね」
 頬を傾けてニッコリと微笑むレイテに、グレースは無意識に問い返していた。
「や、八つ当たりって?」
「大丈夫です。貴方の死体は灰すら残さず、消してあげます」
 レイテからの返答は死刑宣告に似ていた。


                     * * *


「――くだらないですね」
 椅子に長い足を持て余すように組んで腰掛けたレイテが、気だるそうに声を発した瞬間、グレースは、
(――死んだ)
 と、思った。
 一瞬、意識が遠のきかけるのを何とか堪えて、反論する。
「くだらないってことはないスッよ、若様っ!」
 ここで、この事実を「くだらないこと」にしてしまったら、グレースに明日はない。必死に、この噂の危険性を訴える。
「だって、若様の名を名乗る偽者が現れたスッよ? これは一大事じゃないですかっ!」
「そうだよ、先生っ! 先生の偽者がいるだなんて、許しちゃっていいんですかっ?」
 グレースに同調するのはルーだった。
 少女は鉄拳制裁から意識を取り戻していた――が、頭に受けた衝撃が激しかったのか、殴られた事実をスッカリ忘れていた。
 そうして目を覚ますと、何事もなかったような顔をして、本来いるはずのないグレースを前にして、目を丸くした。
『どうしたの、グレースさん? 何か用事?』
 この少女の問いかけに、グレースは自分がこの城に赴いた用を思い出し、レイテに耳にした噂を申告した。


 ――レイテ・アンドリューと名乗る輩が、三つの街向こうの街道を中心に強盗行為を働いている――と。


 そうして、明らかに間違いだらけのこの噂を、レイテは「くだらないですね」の言下の元に、切り捨てた。
 これが、現状に至る経緯である。
「そうスッ、これは由々しき一大事スッよ。若様の名前を汚す不貞な輩を許しちゃ置けないスッ」
 我が身に降りかかる危機感が、グレースの舌を忙しなく動かした。彼の熱弁に釣られるかのようにルーもまた、鈴の音のような声を響かせる。
「そうだよっ! どうして、放っておくんですか? このままじゃ、先生が悪者になっちゃうよ」
 赤い眉を跳ね上げると、握り拳をブンブンと振り回して、いきり立つ。
 この勢いなら、目の前にレイテの偽者が現れたのなら、一直線に突っ込んでいきそうだ。
 そんなルーに、グレースは感銘を受けた。
 己が師匠の名誉のために我が身を省みない勇敢さ――レイテなら無謀と称するだろう――これぞ、師匠と弟子のあり方だろう。
 例え、先ほど、タンコブが出来上がるぐらいの鉄拳制裁を受けていたとしても、二人の絆はやすやすとは壊れないようである――ルーが殴られたことを忘れている事実をグレースは意識的に忘れることにした。
 ルーに追随してレイテを説得すべく、グレースもまた立ち上がった。
(くだらないで、八つ当たりされたら堪らない)という、本音を隠して。
「若様っ! 若様の名を騙るあくどい輩は成敗するスッよ!」
 弟子たち二人の温度が上がるのに対して、レイテの反応は冷淡だった。
「僕の名前が悪評に汚されていることなど、今さらですよ。放置しておきなさい」
「そんなこと、出来るはずないスッよ! (放っておいたら、オレが八つ当たりされるじゃないスッか!)」
 グレースは頑として譲れなかった――己の命が掛かっているのだから、譲れるはずもない。
「大体、若様は怠慢が過ぎるスッ。そうやって、放置するから、若様の名前を騙って悪事をしようとする輩が絶えないんじゃないスッか」
 現に、グレースがレイテに弟子入りするようになったのは、彼の偽者がフラリスの街で事件を起こしたからだ――最も、あの事件の首謀者は、レイテ本人をこの城から引っ張り出すという計画の下に遂行された。
 それを思い出して、グレースはハタリと我に返る。
 ――もしや。
「あのー、若様。もしかして、この偽者事件も、前みたいな?」
 恐る恐る尋ねてみれば、レイテは軽く首を振った。
「いえ、それはないでしょう。単に、僕の名前を盾にした強盗ですよ。そんな輩は今まで掃いて捨てるほどいました。彼らは本気で僕と言う存在を信じてはいません。だから、僕の名を騙っても、魔法を習得して僕のフリをするようなことはしていないでしょう?」
 レイテの指摘に、グレースは噂話を検証した。確かに、今回の輩は魔法を使って人を脅しているといったものではない。
「魔法を悪用するようでしたら、僕としても放置出来ません。間違いなく、人々はそれを僕の仕業だと思い込んでしまうでしょう。……いえ、思い込まれても構いませんが」
 後半、レイテは切なげに笑った。
 その笑顔を前に、ルーとグレースは目を見合わせた。
 偉大なる不死の魔法使いは、人を喰らって生きてきたなどと言われており、この城が立つ麓の街ではレイテの怒りを買わないようにと、生贄を捧げるのが習慣になっていた。
 いかに、この師匠が長く生きて人間離れし、人が出来てそうにみえて、実際問題のところ鬼畜であっても、人を食べない。
 人を食わんばかりの鬼ジジイに見えても、腐っても人間であるレイテが人間を食べるわけがない――何気にひどい言い草であることを、グレースは意識していない。
 なのに、千年も生きているという得体の知れなさに、人間はレイテの本質を見ようともせずに勝手なイメージを作り、彼を人外へと祭り上げた。
 そのイメージをレイテが最初から受け入れたわけではない。ある悲劇があってから、レイテは自らに課せられたイメージを払拭することを諦めたのだ。
 そうして、今もまた己の名が汚されることを前にしても、「くだらない」の一言で捨て置こうとする。
 今まではそうしてきた。これからも、そうしてレイテは汚れた名を背負っていくのだろう。
 果てしなく続く時間に。終わりのない人生に。
 師匠が背負う苦渋を思い、グレースは唇を噛みしめ考えた。
 どうすれば、この連鎖を止められる? レイテの諦観思考を変えられる?
「そんなの駄目だよ、先生っ!」
 ルーが白い歯を剥くようにして咆えた。一瞬遅れて、グレースもまた叫んだ。
「そうスッよ、若様っ! 若様の名を騙れば悪事が許されるなんて、そんなことを認めちゃ駄目スッ!」
 無言でこちらを見上げてくる師匠に、二人の弟子は詰め寄った。
「ちゃんと、違うってことを説明しなきゃ、先生は悪者のままだよ」
「そうスッよ、そうして若様の名前を盾にすれば何でもまかり通ることになったら、犯罪の……ええっと」
 グレースは言葉に詰まった。一気に畳み掛けて、レイテを説得しようと試みたのだが、口にしようとした言葉が出てこない。
「……温床ですか?」
 グレースが口をパクパク動かしていると、レイテが先回りして言ってきた。
「そう、それスッ! このままじゃ、若様の名前を隠れ蓑にした犯罪が増えるスよ。犯罪の温床になってしまったら、自警団のオレとしても見逃せないスッ!」
 ――だからこそ、由々しき一大事だと思ったのだ。
 グレースはここへ来た当初の目的を思い出した。
 レイテの不機嫌さを目の当たりにして、何だかあらぬ方向へと進みかけていたが。
 強盗に両親を殺された経験を持つグレースにとっては、大事な師匠の名を汚す輩が許せなかった。犯罪者が許せなかったのだ。
 それを「くだらない」の一言で、切り捨てられるのは切ない。
 レイテは人々から悪鬼と囁かれても、世界を守るために戦ったのだから。噂話に目をくらませて、真実を見失ってはならない。
 本当に大切なことを見失えば、大事なものすら失くしてしまう。
「生きる」という約束をレイテとルーが交わしたとはいえ、再びレイテが理不尽な不名誉に絶望しないとは限らない。
 グレースには、ルーのように死んだら生まれ変わるという観念にはついていけない。自分が死ぬことを想像できていないだけなのかも知れないし、ルーのように死んだ後も残る強い想いを持っていないからかも知れない。
 それでも、レイテの果てのない人生が、穏やかなものであればいいと願う。
 レイテとルーの幸せが、変わらずに続けばいいと思う。
 そのためには、憂いは打ち払っておくべきだろう。今を生きている自分には、それが出来るはずだから。
 握った拳を振るわせるグレースに、
「……なるほど、グレースさんの言われることも一理ありますね」
 レイテは顎に繊細な指を引っ掛けて呟いた。
 目を上げれば、白皙の美貌の麗人は薄く微笑み、椅子から腰を上げる姿が映る。
 多分、レイテ本人はやはり今回の偽者も「くだらない」ことだと、思っているのだろう。そして、今回の一件を片付けたところで、事態が好転するとも考えてはいない。
 それでも、こちらの想いを汲んでくれたようだ。
「それでは、僕の名を騙る不届き者を成敗しに行きましょうか?」
 そっと微笑みながら――この笑みは、自然なものだとわかる――尋ねてくる師匠に、二人の弟子は大きく頷いた。


                                「後編に続く」

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