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 みらい星

 後日談 婚約者は強敵


 寝起きというのは、人間にとって二番目に無防備な時間帯ではないかと思うの。勿論、一番無防備なのは、眠っている時よね。
 無防備な眠りから無粋な目覚まし時計のベルが夢の中に闖入してきて、強制的に起こされる。
 でもね、頭の端では起きなきゃ遅刻しちゃうってわかっているんだけど、意識はまだ睡眠を欲していて、身体が思うように動いてくれないのよ。
 それでもなんとか半覚醒の脳が命令を発して、とりあえず顔を洗おうと、寝ぼけ眼をこすりながら、洗面所へと向かう。
 スリッパをだらしなくぺたぺたと鳴らし廊下を歩きながら、身体の奥からこみ上げてくる眠気に大きく欠伸をすれば、
「お早うございます、ミキさん」
 と、いう声が聞こえた。
 低いけど、柔らかな声。どこかで聞いたような気がするけど……誰の声だっけ?
 ぼんやりした頭で思いだそうとしていると、額に柔らかな感触。自分とは違う小さな熱が肌に刻まれる。
 ええっと……あの、これってもしや?
 己が置かれている状況が冷や水を浴びせられたように沁みてきて、一気に目が――目というより、頭が醒めた。
 明瞭になった意識が指令を下して飛び退けば、ワイシャツにスラックス姿の男の人の姿が視界に入ってきた。
 サラサラの黒髪を、ちょっとだけワックスで撫でつけた髪形は清涼感を醸し出している。涼やかな切れ長の目元、細面の繊細な印象は、程よく日に焼けた肌によって、健康的に見せた。
 もう見るからに「爽やか」を具現したような笑顔の好青年は、目を見開く私に首を傾げる。
「今のは? 何よっ?」
 私は思わず声を荒げて、目の前の好青年――認めたくはないんだけど――フタバに問いかけていた。
 青埜家四兄弟の上から二番目のフタバは――上から、一葉、二葉、三葉、四葉という実にわかりやすい名付け――目を瞬かせると、
「挨拶ですよ?」
 不思議そうに首を傾げた。
 このフタバは高校生のときから海外に留学し、会社経営の勉強をしてきた。二十三歳になるフタバの海外生活は割と長いと言えると思うわ。
 でも、貴方は純粋の日本人でしょう?
 何を照れもせずに、挨拶にキスをしているのよっ?
 というか、最近も前置きもなく抱きしめてくれた。
 それが海外の人にとってはごく普通の挨拶だとしても、やっぱり郷に入れば郷に従えというでしょ?
 パクパクと私は口を動かす。衝撃が強すぎて、口の動きに声が追いついてこない。
 そうして、呆然と立ち尽くす私など目に入らない感じで、朗らかな声がフタバに投げかけられる。
「フタバ君、お早う」
 ちょっぴり頭が寂しくなったハゲ親父は――勝手に婚約者を決めちゃうような父親は、ハゲ親父で充分よ――嬉しそうに、フタバの背を叩く。
「昨日は実に楽しい晩酌だったね。やっぱり、息子はいいね。これからも付き合っておくれ」
 昨日のお酒が残っているのか、頬を火照らせ陽気に言う。まったく、私の存在なんて眼中になしの無神経発言に、私は秘かに握り拳を作った。
 息子がいいって、一人娘を前にしていう? 第一に、私は未成年。晩酌に付き合いたくても付き合えるわけないじゃない。お酒は二十歳になってからよ!
 小さいなりにも会社を経営しているハゲ親父にとって、後継者候補であるフタバの存在は心強いだろう。
 でもね、私だって一人娘として、それなりに色々と考えていたのよ。それを無視されて、小学生の頃から婚約者を決められた。
 その婚約者が他でもないフタバだ。
 ハゲ親父の友人で、うちの会社の親会社にあたる大企業の御曹司――最も、フタバは二男坊で、他に三人の兄弟がいるわけだけれど。
 これ以上ない縁組だけれど、明らかに私の意志を無視した時点で、政略結婚も甚だしい。
 第一に、勝手に決められた将来に甘んじるほど、私は淑女じゃない。
 大昔の王侯貴族じゃあるまいし、現代の女性は男の庇護を受けないと自立できない世の中ではない。
 自分の結婚相手を決めるのは、自分だ。結婚しないという選択肢だって、今の世の中じゃ普通の権利だ。自立している女性は山ほどいる。
 そんな現代に生きていて、何故、親の言いなりになって、政略結婚に甘んじなければならないの?
 私の未来は私のもの。
 未来と書いて、ミキと呼ぶ私の名前。そんな私が人のいいなりになって、自分の未来を手放すなんて、冗談じゃないわっ!
「あのね、言っておくけれど、フタバとの婚約は解消したのよっ!」
 私は拳に溜めこんでいた怒りを声にして口から放出した。
 怒るって、凄くエネルギーのいることね。目が覚めて、まだ朝ご飯も食べていない状況だから、エネルギー不足でぜいぜいと肩を上下させる。
 そんな私に初めて気がついたように、ハゲ親父は目を瞬かせた。
「そうなのかね?」
 ハゲ親父は私ではなく、フタバに確認をとる。
 婚約に反発していた私だ。今までも、絶対に結婚しないとか騒いでいたので、今日もその続きだと思っているのだろう。
 でも、今回は違う。
 私とフタバは婚約関係にあったけれど、話し合いの結果、婚約は解消した。
 ……解消したはず。
 婚約解消する前と何変わらず、フタバが同居しているのは、フタバがハゲ親父の仕事を手伝うことで、仕事を覚えているからだ。
 秘書みたいな立場で、いずれはハゲ親父の片腕になる予定。フタバがうちの会社を継ぐのかどうかはわからないけれど……私と結婚すれば、間違いなくフタバが継ぐのだろうけれど。婚約が解消された今となっては、それは白紙になった。
 普通ならぎこちない関係になりそうだけれど、フタバは今までと変わらない顔で、ハゲ親父の下で仕事をして、私に微笑みかける。
「お早う」の挨拶に額にキスしたりして……ええっと、私たち……婚約解消したわよね?
 フタバが余裕ある笑みをハゲ親父に返すのを見て、私は不安になる。
 確かに、「婚約は解消しましょう」とフタバは言ってくれたわけだけれど、結婚するのを諦めたとは言っていない。
 私自身、政略結婚でなければフタバは……嫌いじゃない。最近知ったことだけど、フタバは私の初恋の人だった。初恋の人と結ばれるって、乙女の夢よね。
 でも、今は絶対にフタバでなければならないというほど、フタバが好きなのかはわからない。
 空白時間が長かったし、フタバに相応しいと思える自分を自覚できない。
 だから、すんなりと結婚を承諾はできない。
 何だかんだと、婚約解消の問題は一方的に私の方にあったわけで、私が終わったつもりなっていても実際フタバ側からにしてみれば、「婚約」していようが、いまいが、結婚というゴールにたどり着ければどうでもいいのかも知れない。
 それが二十三歳の大人の余裕か、爽やかな笑顔は朝方の寝ぼけ眼には眩し過ぎるくらい輝かせて、ハゲ親父に語りかける。
「ええ、婚約は解消しました。ですが、お父様」
 フタバはハゲ親父を、敬意を込めた口調で「お父様」と呼ぶ。そうするとハゲ親父は何だか嬉しいらしく頬を上気させる。 まあ、娘にハゲ親父呼ばわりされているのだから、しょうがないかもしれないわね。
 でも、そう呼ばせたのは娘に承諾もなしに勝手に婚約を決めたハゲ親父の自業自得よ。
「僕は将来、結婚するのはミキさん一人と決めていますから、大丈夫ですよ」
 ……何が大丈夫なの?
「ああ、ミキは君のような青年に想われて、幸せだな」
 ニコニコと顔から笑顔がはみ出しそうな、満面の笑みを浮かべて、ハゲ親父は頷く。
 ……ちょっと、待ってよ。人の意向を無視して、勝手に納得しないでくれる?
 心配性のハゲ親父としては、娘を任せられる相手がいてくれて心強い。そう、婚約の理由の大半は、私の将来を心配してのことだ。
 だから、ハゲ親父が私とフタバのどっちに付くかと言えば、フタバだろう。
 ……味方が少ないこの現状、なし崩しに結婚させられそうな気がするのは、気のせいってわけじゃない。
 だけど、私は恋愛がしたい。この人じゃなきゃ駄目だって思うくらいに相手を好きになって、その人を選びたい。
 例え、その相手がフタバになるとしても……。
 私の未来は誰のものでもなければ、私の意志で決める。それが私の未来に、私自身に責任を持つってことだと思うもの。
 世の中には、色々なことを人のせいにして逃げちゃう人がいるけれど。私は、私の未来を誰にも譲ったりしないから、叫ぶ。
「――私は絶対、恋愛結婚をするんだからっ!」
 そうして、洗面所に飛び込み勢いよくドアを閉じれば、扉の向こうでフタバの声が聞こえた。
「お父様、ほら、大丈夫ですよ。ミキさんが僕を好きになってくだされば、何一つとして問題はありません」
 捨てゼリフを間違えたことに気がついた私は、思わず床に座り込んだ。
 どうやら敵は、諦めるつもりはないらしい。婚約解消のダメージもまったく見せやしないフタバはなんて、手ごわいのかしらっ! でも、恋愛結婚という乙女の夢のために、負けるわけにはいかないわっ!


                          「婚約者は強敵 完」



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