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 なみだ星


 例えば、小川を流れる一枚の木の葉。
 その小船の行きつく先を、あたしは知っている。
 ゆらゆら、と。
 穏やかな清流に身を任せているうちは、優雅な船路。
 でも、どこまでも綺麗な水が流れているわけじゃないの。
 やがて、汚泥に汚れた水が流れ込む。川底には醜悪なヘドロ。
 表面は、澄んでいるように見えても、雨が降って水が濁れば、その黒さに唖然とする。
 木の葉の小船は、汚水を被って沈むわ。
 暗く澱んだ川底で、二度と陽の目を見ることはない。
 恋愛感情というものも、これに似ている。
 初恋という言葉の甘さに、ときめいていられるうちは、まだ良かったの。
 教室の片隅にいた横顔をそっと眺めて、すれ違い様に声を聞いて。目が合ったような気がした瞬間、心臓が跳ね上がる。
 子供みたいに純粋に、ドキドキして。頬を染めて。
 中学三年を通して、ずっと同じクラスで。だから、少しずつ仲良くなって、「ルイ」という名前を呼んで貰えて。
 その度に嬉しかったけれど、何でもない友達のふりをしていた。
 好きだと伝える勇気がなかったから、もう少し。あと少し。
 そんな言い訳を重ねて、日々を過ごす。
 ……卒業までには、きっと。
 思えば、あたしは小さい頃から「女の子」という生き物が苦手だと思っていた。
 自分が「恋をする女の子」であったにも関わらず。変な話ね。
 大人からは、変わった子だと言われたわ。
 同性の女の子たちからは、クールなのねと、笑われた。
 可愛い声で、自分たちの恋を語り合う彼女たちを、どこか冷めた目で見つめていたから。
 気持ちは心の内側に秘めていて、誰にも知られずに育むものだと思っていた。
 大っぴらに交わされる恋愛話。
 誰が好き、誰が嫌い。そんなこと、どうして他人に明かすのか、あたしにはわからなかった。
 気持ちがバレてしまったら、横顔を盗み見ることも出来やしないのに。
 けれど、よくよく考えれば、それは片想いだからの話。
 気持ちが通じ合えば、堂々とその人を見ることだって出来るのに。
 あたしは気持ちを明かすことを良しとしなかった。
 多分、わかっていたの。この恋が決して、実らぬものだって。
 だって、周りから注目されて、女の子たちには騒がれて。毎年、バレンタインデーには山ほどのチョコレートを貰う。そんな子たちに、誰一人として目を向けようとしていなかったから。
 恋愛なんて関係ないといった素振りで、サッカーに打ち込んでいた。
 女の子に囲まれるより、男の子たちと一緒にいる方が気楽そうで。
 そうして、あたしにも同じように気楽な仕草で話しかけてきた。彼の中であたしは友達という枠組みの中に、組み込まれていた。
 卒業までになんて、言い訳も所詮、言い訳でしかない。
 だから、そっと自分の中だけに仕舞って、秘め事にした。
 そうして、見つめる横顔が時折、物思いに沈むのに気がついた。
 どうしたの? と、友達顔で話しかける。
 男友達じゃ、気づかない。他の女の子にはこの気安さは「恋愛」色が強すぎて、彼の口は閉じられる。
 あたしだけが、彼の秘密を覗き込む。
 ちょっとだけ優越感に浸れたけれど、進路に悩んでいることから、話は思わぬ展開へ。
 彼には長い間、想っている相手がいるとのこと。その相手がいる高校へ進もうと考えているのだけれど、合格ラインがギリギリらしい。
『私立の方からは推薦の話が、幾つか来ているんだよな。サッカーの特待生で、授業料免除だって。担任はそっちを薦めるんだ』
 部活を引退してから伸ばした髪をクシャクシャにかき上げながら、眉間に皺を寄せる。少し怒ったように、唇を尖らせて、『端から不合格だなんて、決め付けるなよ』と、拗ねたように言った。
『……そっちには行く気……ないの?』
 担任から薦められているうちの一つは、あたしが進学を検討している高校だった。
 彼がそちらを選べば、またあたしたちは同じ日常を過ごせる。
 淡い期待を抱いて問いかけると、彼は首を横に振った。
『ただでさえ、二つ年の差のハンデがあるんだぜ? せめて同じ土俵じゃねぇと』
 彼がとても強い気持ちで誰かを想っていると知れば、羨望を覚えた。
『でも、相手はただの幼馴染みとしか思ってないのかも知れないんでしょ?』
 彼の意気地を挫くように、砕くように、あたしは口を挟む。
 話に聞けば、二つ年上の幼馴染みの彼女は頭が良くって、美人。周りの人間に誰からも好かれる女の子で、男たちが放って置かないらしい。
 あたしも少し知っている女の子だった。あたし達が一年生のとき、生徒会役員を務めて目立っていた先輩が、彼の幼馴染みで片想いの相手。
 髪が綺麗で、スタイルも良くて。県内でも有名な進学校にトップクラスで進学するほどの才女。
 まだ彼とはクラスメイトという間柄の、一年生だった頃の教室で。男子たちの会話に囁かれた「セイカ先輩」の名前。彼だけは「セイカ」と呼び捨てていた。
 実際にセイカ先輩は、モテるらしい。何度も、男子に告白されては、その度に心底心苦しそうな顔で詫びて、断るという。そうして、その日のセイカ先輩の部屋の明かりは、部屋にいるはずなのに真っ暗らしい。
 美人で、才女で。モテることを鼻にもかけない彼女の性格が出来すぎだと、あたしは笑いたくなった。
 ――何、その彼女。まるで少女マンガの主人公?
 歪む口元を自覚すれば、自分の内側にひそむ嫉妬心の、暗い澱みに唖然となった。
 悩む彼から秘密を聞き出すだけ聞き出して、あたしは何も言葉を返せなかった。
 なのに、バレンタインデーの日。セイカ先輩からの告白で彼の恋が成就したと聞いた瞬間、彼の隣に立つセイカ先輩を羨ましいと感じると同時に、ズルイと思った。
 ――ズルイ?
 何をおいて、あたしはそんなことを言えるというの。
 あたしは何もしなかった。
 友達という距離に満足して、それを変えようとしなかった。
 たった一度、セイカ先輩から告白されたという今年のバレンタインデーに、あたしは彼の机にチョコレートを忍ばせた。
 名前も記さずに、そっと。
 誰の物かもわからない代物で、どうやって気持ちを伝えるというのだろう。
 昨今、実の親に子供が毒薬を飲ませる時代。贈り主のわからないチョコレートなんて、そのままゴミ箱へ直行に決まっている。
 あたしの恋心も同じよ。
 ゴミとして、川底へと沈むの。
 勇気がなく弱虫で。その癖、他人を妬む気持ちだけは一人前に持っている。
 卑屈なあたしの恋には、お似合いの結末だ。
 滑稽すぎて、涙も出せない。
「ルイ」なんて、親もふざけた名前を付けたものだわ。
 恋する女の子たちのようにあたしには「涙」なんて、可愛らしいものをこぼせるような柄じゃないのよ。
 唇からこぼれるのは、失笑。
 自分自身への、嘲笑。
 明日、卒業を間近に控えた学校は、式の準備で三年生は短縮授業。まだ空も青いのに、教室は無人。
 静かな空間で、あたしは一人笑う。
 すると、まるでタイミングを計ったように彼が現れた。
「何、思い出し笑いしてんだ、ルイ?」
 笑っているあたしを前にして、彼は小首を傾げる。
「――ツキヤ」
 三年間の月日で、あたしには彼の名を呼び捨てにする権利が与えられていた。でもそれは、友達という関係が許した権利だった。
「っていうか、まだ帰ってなかったのかよ? 何してんだ?」
「そういう、ツキヤは何していたの?」
 問いかけた答えを、あたしは知っていた。
 今日は三月十四日。俗に言うホワイトデーの日だ。
 バレンタインデーにチョコを貰ったツキヤは女の子たちへのお返しに、忙しい。
 勝手に好意を押し付けてきた女の子たちに、律儀にお返しをする。そういうところが、ツキヤが女の子たちにモテる要因なのかも知れない。
「――挨拶回り」
 ツキヤもまた、セイカ先輩と同じくモテることを鼻にかけない。誤魔化そうとするツキヤなのに、あたしは暴く。
 セイカ先輩とは比べ物にならないひねくれ者のあたし。
「モテる御仁は大変ね?」
 どうせ、明日までの関係。このまま友達のままで終るのでしょう?
 だったら、後腐れがないように、あたしを嫌いになってよ。
「思えば、バレンタインデーは男にとっては迷惑な日なのかもしれないわね。望む相手からのチョコレートなら、嬉しいだろうけど。そうじゃない女の子からチョコレートを貰って、お返しなんて要求された日には、あたしが男だったら冗談じゃない、と叫ぶわよ」
「……それを言ったら、お終いだろ? まあ、お菓子会社の戦略にまんまと踊らされている日本人も日本人だって感じだけどな」
 苦笑しながら、ツキヤは肩を竦めた。
「第一に、貰えるモンならって、ホイホイ貰った俺も悪いんだし」
「それで律儀にお返しして回る男なんて、いないと思うけど」
「無視すんのは、性に合わないんだよ」
「そうして、言って回ったわけね。彼女が出来たって」
 舌が自分でも驚くぐらいに回る。嫌なセリフ。世界中の女の子を敵に回すつもり?
 ツキヤは真っ直ぐにあたしを見て、頷いた。
「――ああ、言ったよ」
 既に、セイカ先輩とのことはツキヤから聞かされていたけれど。
 あたしはまだ、どこかで嘘だと思っていたのかもしれない。
 決定打を前に、舌が凍りついたように動かなくなった。息が詰まる。
「……へぇ」
 何とか吐いた声は、掠れていた。それを誤魔化すように、あたしは矢継ぎ早に言葉を紡いだ。
「何か、ツキヤとそのセイカ先輩だっけ? 二人って、少女マンガ路線を地で行くのね」
「はぁ? 何だ、それ」
「憧れの王子様キャラ、お姫様キャラ」
「少女マンガって、そういうのが出てくるのか?」
「モテモテの美形に、モテモテの美少女。現実にはあり得ない幼馴染み設定とくれば、もうマンガの世界よ」
「幼馴染みって、あり得ないのか?」
「普通あり得ないでしょ。特に家が隣同士だなんて、兄弟みたいなものでしょ? 知られたくないことも知られていて、性格なんて筒抜けでしょ?」
「――まあ、それは納得」
 ツキヤは唇の端を釣り上げて笑った。
「恋愛する気が知れないわ」
 あたしは何を根拠に、こんなことを言っているのかしら。既に、単なるやっかみだわ。
 あたしはツキヤの恋を否定している。
 友達だなんて、どの面下げて言うのかしらね。本当に嫌な女。こんなあたしを好きになって貰えるはず、ない。
「でも、性格も知っているから好きになるじゃねぇの? 何も知らない奴相手に恋愛できるなんて、それこそ嘘っぽいだろ」
 あたしの言葉に一つも動揺した様子もなく、ツキヤは泰然と返してきた。
「……一目惚れっていうのもあるわよ?」
「ああ、それだってさ。例えば、外見を好きになったとして、それだけで終るものじゃねぇだろ? 相手がどんな奴か知りたくなる。そうして、もっと好きになる。ただ性格が思っていたのと違えば、幻滅する。結局さ、誰かを好きなるっていうのは、そいつを知ることだろ?」
「……何か、凄い説得力ね?」
 あたしは思わず苦笑した。
「あいつはさ、何でも出来る癖に、どこか自信無さ気なんだ。だから、放って置けない感じで見ていたんだけど。でも、時々、俺が予想する範疇を超えて大胆で、度胸があるっていうか。……何か、負けられないって気がして来るんだよ。あいつを見ていると」
 遠い目でツキヤは語った。その視線の先は、セイカ先輩に向けられているんだろう。
 どんな言葉を使っても、ツキヤの中にあるセイカ先輩への想いは揺るがない。
 幼馴染みという月日を重ねて、ツキヤはセイカ先輩を見つめて、その全てを知って、幻滅することなく、ただ好きという気持ちを重ねた。
 その気持ちをあたしも知っているわ。
 ツキヤがセイカ先輩を想っていた時間より短いけれど、あたしだってこの三年間、ツキヤを見ていたの。
 女の子たちに騒がれても、浮かれないで。だけど、自分に向けられる好意には律儀にお返しをする。
 慕ってくる後輩には面倒見が良くって。目指すものを見つければ、ひたすら前向きで。結局、自分の進路を自分が思うままに決めてしまった。
 気取らない、飾らない。誰にも左右されない、強い人。
 そんなツキヤは、弱虫でひねくれ者のあたしには、眩しくて。
 だから――。
 ――だから、好きになったの。
 友達でもいいから、傍にいたかった。
 あたしの中で、内側からこみ上げてくるものがあった。でも、それを外に出すのを躊躇うのは、どこまでも弱虫なあたし。
 喉の奥に引っ掛かった思いを誤魔化すように、あたしは言った。
「ホント、凄い説得力。幼馴染みでも恋愛できるって、気がしてくるわ」
「究極の真理だろ?」
 ツキヤは勝ち誇ったように笑う。その笑顔はセイカ先輩との恋が成就したからなのだと思う。
 自分の信念が間違っていなかったことを確信している笑顔を前に、
「――何、それ?」
 あたしはつられたふりをして笑う。涙なんて出せない。
「ああ、そうだ。ルイはさ、甘いもの好きか?」
 突然思い出したように、ツキヤは手にしていたバッグの中をあさり始めた。
「えっ? ……嫌いじゃないけど」
「じゃあ、これ。ルイにやるよ」
 ポイッと投げられたそれを、あたしは両手のひらで受け止めた。それは綺麗にラッピングされたクッキーの箱だった。
「……これ」
「ああ、チョコのお返し。一つだけさ、机に入っていたチョコがあったんだけど、誰からのか、結局わかんなくって」
 ……それは、あたしのチョコレートよ。
 なんて、今さら言えるはずはない。言えない。
 最後まで、あたしには気持ちを伝える勇気がないみたいだ。
 素知らぬふりで、言った。
「誰のものかわからないチョコレートにまで、お返しを用意したの? 律儀にもほどがあるわ」
「ただ単に、名前を書き忘れた可能性だってあるじゃん。それに、名乗り出て来るかもしれなかったし」
「イタズラだったのかも知れないわよ? まさか、食べたわけじゃないでしょうね」
「食ったけど?」
「――信じられない。毒入りだったら、どうするのよ?」
「はあ? 毒入りチョコなんて、どっから入手するんだよ」
 ツキヤは丸く目を見開いた後、ケラケラと笑った。
 危機感がないというか――ねぇ、もしかして……。
 ……あたしの気持ちに、気づいているの?
 あたしが贈った物だって、知っていたから、食べてくれたの?
「それに、ちゃんと美味かったぜ? 誰だかわかんねぇけど。凄く丁寧に作ってくれたのはわかったからさ。気持ちには応えられないけれど、好きになって貰えているっていうのは、悪くない」
 小さく微笑むツキヤから、あたしは目を逸らした。
 見透かされているのが、わかった。
 今日、誰もいなくなった教室に居残りしているあたしを見れば、余程鈍くなければ気づくでしょうね。
 だけど、ツキヤは名乗れないあたしに付き合って、小芝居をしている。
 何でもないようなふりをして、何でもないままに終る。
 あたしがそれを選んだから。最後まで、名乗らなかったから。
 弱虫のあたしに、ツキヤは面倒見の良さを最大限に発揮してくれる。そんなところも大好きだけど。
 せめて、あたしの狡さに幻滅してくれたら良かったのに。
 そうしたら、思いっきり泣けたのに。
「これ――貰っていいの?」
 あたしは俯いて、ツキヤから貰ったクッキーの箱を胸に抱きしめながら、そっと尋ねた。
「ああ。ルイには三年間、世話になったし?」
 頭上でツキヤの声が笑う。
「世話をした覚えなんてないわよ?」
「ルイが覚えてないだけだろ。薄情だな」
 ツキヤの言葉に、あたしは心の中で反論した。
 何一つ、忘れない。忘れたりしないわ。
 明日で、あたしたちの道は別たれる。
 もうこんな風に言葉を交わす機会なんて、ないかもしれない。
 結果は出ていないけれど、ツキヤは県立への進学を決めるだろう。テストの成果は上出来だったと、自信満々だったことから、彼の未来が明るいことを伺える。
 そうして、あたしはとてもじゃないけれど、ツキヤと同じ道を選べなかった。選ぶ努力すら放棄した。
 ツキヤがセイカ先輩を想う気持ちと、あたしがツキヤを想った気持ち。
 その想いの強さは一目瞭然。勝ち目なんて、端からなかった。
 だけど、忘れない。忘れたくない。
 叶わない恋だったけれど、ツキヤを好きになったこの想いはあたしにとっては特別だから。
「さて。挨拶回りも終ったし、帰るか。用がないなら、一緒に帰るか?」
 ツキヤが頬を傾けて、問いかけてきた。
 あたしは俯いた姿勢のまま、首を横に振った。
 最後の思い出としては、随分と魅力的な誘いだったけれど。一緒には行けないわ。
「そっか。じゃあ、また明日な?」
「うん。バイバイ」
 あたしは教室を出て行くツキヤの背中に手を振った。
 この瞬間を区切りに、この恋は思い出にするわ。
 友達のふりをするのも、今日でお終い。
 川底に沈めた想いを綺麗に洗って、大切にする。
 明日からは、本当の友達としてツキヤの恋を応援するから……。
 だから……お願い。
 あたしが流した涙には、最後まで気づかなかったふりをして。


                                「なみだ星 完」



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