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「願いが星に届くなら」



 序章 夜の祈り



 神様……どうか、お許しください。
 私は裏切り者です……。
 そして、この手を血に染めた殺人者です
 この、罪深き血に汚れた手で……、無垢な赤子を抱く私が……。
 この私が……神様に祈ることなど、それこそ冒涜でありましょう。
 けれど……私は、業火に焼かれても構いません。
 ただ一つ、一つだけ……お願いいたします。
 何も知らずにこの世に生まれてきた赤子の将来を……。
 幸多くは……望みません。
 ただ、私の罪が……この子の……この無垢な赤子の……未来を閉ざすことはありませんように……。
 この子が、その足で己の未来を歩いていけるように……。
 今、再び、私が犯すこの罪をどうか見逃してくださいませ。
 この願いを、どうか……お聞き届けください。
 …………神様。









  
第一章 午前六時




  
,ある日の朝に


 昔から寝起きは最悪だと、彼は自覚していた。
 人相はまるで今から人殺しにでも出かけるような具合だし、声も低く地を這うような感じで、せっかくのいい男も台無しだろう。
 それでも、仕事となれば定時に起きるようにしていた。
 趣味に生きるか、仕事に生きるか、人間が生きることと言えば、大まかに分けてその二つの選択肢しかないと、彼は思っていた。
 自堕落に生きるのも、家庭を大事にするというのも、誰にも縛られずに生きるというのも、それは己の趣向からくるもので、その趣向を支えるのが仕事であり金だ。この金に執着してしまうのもまた一つの生き方であるだろうから。
 クレイン・ディックが趣味と仕事の両面から選んだのは騎士だった。騎士と言っても、昔のように軍事に対しての戦力ではない。
 フォレスト王国は宮廷魔法師という、上級魔法使いを十数名抱えることによって、軍隊を放棄した。それは上級魔法使いがただ一人で何万という人間を一度に殲滅する強大な魔力を持っているからだ。この宮廷魔法師の存在だけでフォレスト王国に歯向かえる国は世界を見回してもどこにもなかった。
 上級魔法使いは、ほぼ一億人に一人か二人とされる希少種で、十何人もの頭数を揃えられるのは膨大な人口を支えるしっかりした国と大地があってのこと。
 七百年の歴史において、フォレスト王国は不可侵条約を国交の基本において、外交をしてきた。侵攻して来なければ、こちらから手出しはしない、という至極わかりやすい国策で、どの国とも敵対しなかった。
 実際、宮廷魔法師を前面に出さなくても、軍隊を編成すれば、何千万という兵士が国のために立ち上がる。戦う前から兵力差は歴然としている。だから、諸外国はどこもこの国には喧嘩を売りに来るような真似はしなかった。
 そして、七百年、戦争を知らない国は土地が荒れることもなく、膨大な人口を損なうことなく支えてきた。
 そんなフォレスト王国においての騎士とは王家と、王家と共にこの広大な国を統治する特別階級貴族の七家に仕え、国民の安全のために働く者たちを言う。
 犯罪捜査と抑止を目的とした騎士団……いわゆる、警察組織だ。
 クレインは面倒ごとを好む自分の性質と、喧嘩っ早い体質から騎士を選んだ。それはもう十年ほど前だ。
 最初は生まれた田舎の町を含む南西区エルマを統治しているエバンス家の騎士になった。その後、剣技の腕と面倒ごとに対する処理能力の速さを見込まれて宮廷騎士団<<五色の旗>>に引き抜かれた。
 宮廷騎士団といえば騎士のエリートだ。特に宮廷騎士は、貴族階級の子息だけが許されていた職業だが、先々代の国王から優秀な人材を家系に関係なく採用するようになってはいた。しかし、実際に田舎の若造が宮廷騎士団になるというのはこの田舎町──エイーナでは今までなかった。だから、クレインが騎士団を退団して戻ってきた際は英雄扱いだった。
 その彼が溜め込んだ給金と退職金などなどをつぎ込んで開いた雑貨屋はいつの間にか、町の問題相談所になっていた。
 時に、開店前から店のドアベルをうるさく鳴らす輩がいる。
 この朝もそうだった。







  
,寝起きは不機嫌


 朝の冴え渡る空気に、ベルの音はリンリンと響き、店舗の二階に住居を置き、通りに面した眺めのいい部屋を寝室にしていたクレインの耳に勢いよく飛び込んでくる。
 安眠は即座に打ち破られた。
 彼は薄紫色の瞳を見開いて、天井を睨む。それこそ、眼力だけで人を殺せるような視線で。
 クレインはユラリと腹筋だけの力で上半身を起こし、枕元の窓を開ける。
 そして、店の従業員で身の回りの世話をしてくれている少年が、男所帯が少しでも華やかになるようにという心遣いから置いていた、小さな花をつけた鉢植えを手に取ると、思いっきり通りに叩きつけた。
 ガシャンと、素焼きの植木鉢が割れる音が、通りの石畳の上で響くと、ドアベルは鳴り止んだ。
 一瞬後、早朝の静寂を切り裂いて悲鳴が上がる。
「何するのっ!」
 軒下から通りに現れたのは、店の従業員ドリィだ。今年、十九歳になる少年が両手に何かを抱えながら飛び出してきて、二階のクレインを睨みつける。
「うるさいっ! 俺の安眠を妨害したんだ。殺されても文句言う権利なんぞ、あるわけないだろっ!」
 まさに今から人を殺しかねない形相で、クレインはドリィを見下ろした。
「なっ? クレインさんってば、それ、無茶苦茶だよ……」
 呆れたような声で呻くドリィに、クレインは喚く。
「無茶は百も承知だっ! 俺のテリトリーに入ってきた以上は俺が法律だ。殺されたくなかったら、黙って俺に従えっ!」
 暴君顔負けのセリフを吐いた。そこで寝起きのために回らなかった血液が、一気に脳内を駆け巡って、クレインは一呼吸の後、冷静さを取り戻した。
「……って、何だ……従業員一号じゃん」
「ドリィだよ。何回、名前を言ったら覚えてくれるのさ」
「自慢じゃないが、人の名前だけは覚えらんのよ」
 ポリポリと砂色の寝癖髪を掻いて、クレインは言い訳した。
 一年前にクレインは宮廷騎士団を退団してこの町に戻ってきた。その十日後、雑貨屋を開店するにいたって、従業員として雇われてからこっち、ドリィは従業員一号と呼ばれていた。最も、二号はいない。いつか、新しく雇うかもしれない誰かのためとのこと。
 最初、町の英雄ともてはやされているクレインの下で働くことに、この上ない誇らしさを覚えていたドリィだが、「一号」と呼ばれ続けるにしたがい、情けなさが勝ってくるようになった。
 ……ホントにこの人、宮廷騎士だったの?
 しかも、宮廷騎士団<<五色の旗>>の名にある通り、五つある部隊の一つ、青色部隊の副隊長だったと言うけれど、それはどこまで本当のことなのか、ドリィには判じがたかった。
「それより、大変だよ、クレインさん」
「何が大変なんだ? 俺の眠りを妨害するだけの重大事件なんぞ、この世にあるものか。国王が死んでも俺の知ったことじゃないぞ」
 一年前まで、王家に仕えていた騎士の言うことか? 仰天して抗議するドリィにクレインは冷静な声で言う。
「アンタだって知ってんじゃん、あの王様がそうやすやすと、くたばるわけないないでしょうが」
 言われてみれば……その通りだとドリィは納得してしまった。
 前に南西区エルマに視察のため立ち寄った若き国王ジルビアはその途中、この店に前触れもなく現れたのだ。
 公式予定のスケジュールを無視して現れた国王は、驚いているクレインを笑って、来た甲斐があったと言った。
 何事に対しても泰然としているクレインが珍しく動揺した、その姿が国王の目的だったのだ。
 ただそれだけのために行動を起こしてしまうお人なのだ、とクレインが苦虫を噛み潰したような顔で説明してくれたのを覚えている。
 そんな国王陛下は、ドレスを着せればそのまま女性として通用するような美女顔で、だけど人を小馬鹿にするような視線と口元の嘲笑が印象的だった。同じく同行していたエバンス家の若き当主クライ・エバンスも目を見張るような美貌の主で、今思い出しても別世界を夢見ていたような感じだ。そんな、ドリィにとっては雲の上の人たちとクレインは対等に会話をしていた。やっぱり、只者ではないのだろう。
「つーか、アンタ、何をわざわざドアベルを鳴らしてんのよ。鍵は預けてんでしょうが」
 クレインが不機嫌さを隠ししもせずに、声を投げてきた。
 身の回りの世話までさせているドリィは朝早くにやって来て朝食を用意する。彼が来るたびに一々起きるのは面倒なので、クレインは少年に鍵を預けていた。
 もう慣れたもので、ドリィは早朝やってきてはクレインの朝食を用意し、店の開店準備をし、室内や風呂掃除をし、ついでに洗濯物を洗って干す。九時になったところでようやくクレインが起きてくる。それがいつもの始まり。
 まだ、クレインが起きるには三時間も早い。
「そんなこと言ってないで、降りてきてよっ! 大変なんだから」
「あーもー、一号が上がってくりゃいいじゃん」
「手が離せないんだ。お願いだよ、クレインさん」
 何やら抱えているせいで両手が塞がっているドリィはクレインを見上げて懇願した。
 知るか、とただ一言吐き捨ててみても、またうるさくベルを鳴らすのだろう。諦めの吐息を吐いて、クレインはベッドから降りた。







  
,朝の運動


 ブーツに素足を突っ込んで、ベッドの傍らに、置いた椅子に掛けていたシャツを取る。前ボタンを半分近く留めてあるシャツを頭から被って左腕を袖に通す。皺の寄った服の裾を引っ張ってのばし、はだけた胸元のボタンを留める。片腕だけで着替える方法を模索して、こういう結果に行き着いた。
 最初から被り物のシャツを着れば、と一号が提案してきたが、脱ぐという行程ではボタンを外すだけのシャツのほうが楽だった。
 ズボンはそのまま作業に適した厚手のジーンズ。寝苦しいことこの上ないが、朝晩、着替えが面倒で風呂に入る際に新しいズボンに着替えるだけにしておいた。
 片腕を失くした当初は、楽観的に考えていたが、実際に生活してみると利き腕が使えないということは、色々な場面で面倒さが増えた。
 掛け金式のドア鍵を外して、階下へ降りる。
 階段下は食堂兼台所で、脇に風呂場に続くドアがある。階段を下りたすぐのドアはそのまま店舗に繋がっている。ここに鍵はかけていない。ドアを開ければちょっとした食料品と雑貨を取り扱うクレインの店がある。
 田舎町にしては豊富な品揃えは、宮廷騎士をやっていたときに知り合った宮廷魔法師の実家がこの手の店をやっていたから。世話好きのその宮廷魔法師は、クレインが田舎で店でもやってのんびり過ごす、というのを聞きつけて、自分の家族と引き合わせた。おかげで、ずぶの素人がそれなりに繁盛する店を構えることが出来た。
「ああ、そういや、礼をしてなかったな」
 厚意に甘えて礼を言っていなかったことを思い出す。同情で親切心を買ったことに抵抗はないが、こちらの思惑以上の親切心を発揮してくれたわけだから、これには相応の礼を返すのが礼儀だろう。
 面白い土産話があればいいんだが、と思う。
 彼は何かしらの物品を貰って喜ぶような人間ではなかったから、こっちが元気にやっているというその手の話で十分に喜んでくれる。今度、王都に上がるときには、その手の話があれば彼に聞かせてやろう。
 店の陳列棚の間をすぎて、入り口のドアの鍵を外す。
 ドアを外に開いて、顔を覗かせたクレインの前にドリィが飛び込んできた。
 騎士をやっていたときの習慣で避けると同時にドリィの足をすくい上げる。足をとられて倒れこむ少年を振り返って、クレインは床に衝突する寸前、左腕で少年の襟首を引っつかんで止めた。
「なっ、何するの……」
 顔すれすれに迫った床に目を見張って、ドリィは放心しながらも抗議した。
「いきなり飛び込んで来たんは一号でしょ、俺が騎士をやってたんはアンタだって知ってんでしょうが。ちゃんと、覚えていたほうがよい。腕に覚えのある奴の間合いに不用意に入ってくるのは自殺行為だって」
 ドリィは床に膝を着いて、なんとか身体を支える。それを見やってクレインは手を離した。
「そんなこと言われても……僕だって、急いでいて」
「何なんよ、こんな朝っぱらから。大した用事じゃなかったら、ぶっ飛ばすぜ?」
 言葉通りのことを実行しかねない店主に、ドリィは抱えていた物を差し出す。あのまま転倒していたら、自分の体重で潰れてしまいかねなかっただろう。
「……何、これ」
 目の前に現れた物体にクレインは眉をひそめた。清潔そうな産着に包まれているのは生後間もないと思われる赤ん坊だった。







  
,素敵な置き土産?


「……一号の子か?」
 十九歳の年齢にしては子供っぽさが残るドリィに子供がいたとは、それはそれで驚くべき事実だが。
 まあ、そんなこと俺の知ったことじゃない、とクレインは驚愕を一瞬で切り捨てた。
 冷静な視線で赤ん坊とドリィを見比べる。
 ドリィの髪は茶色で瞳も茶色。
 赤ん坊の髪は茶色だが……クレインは指先で眠っている赤ん坊の目を開く。指先に伝わる体温が、赤ん坊が生きていることを証明する。瞳の色は水色だ。瞳孔は開いていない。間違いなく、生きてはいる。見たところ、生後二、三ヶ月といったところか。
 淡々と赤ん坊を調べていくクレインにドリィが問う。
「……ええっと、クレインさんは驚かないの?」
「何を驚くっての? 一号に子供がいても不思議じゃないでしょうが。一応、そのなりでも男なんだから。これが、一号が産んだ子供だってんなら、そりゃ、さすがの俺でも驚くが」
「ちょっと待って! 何で僕の子供になっているの?」
「一号が連れてきたから一号の子でしょ? 違うなら誘拐ということになるが、アンタ、俺が騎士をやっていたことを知っていて、俺に公然と犯罪を見せ付けるほど度胸はないでしょ」
 目を丸くするドリィを斜め下に見下ろしてクレインは言い切った。
「……犯罪とわかっていて実行するほど馬鹿じゃないって言って。っていうか、この子、僕の子供じゃないよ。店の前に置かれていたんだ」
「……捨て子という奴かね」
「……最初、そう思ったけど、これが産着の間に挟まっていて」
 ドリィは赤ん坊を抱えている手に握っている紙切れを視線で示した。クレインは指先でそれを抜き取る。
 くしゃくしゃの紙切れには走り書きでクレイン宛に(この子は貴方の子供です、よろしくお願いします)と記されていた。
「クレインさんの子供だって書いてあるからビックリしちゃって、ベルを鳴らしたんだよ」
「あり得んな」
 興奮気味のドリィに対して、クレインはどこまでも冷淡な声で切り捨てた。
「……えっ?」
「俺の子供じゃないね」
「だって、その手紙に書いてあるよ?」
「事実じゃない。第一に、子供っていうのは十ヶ月近くを女の腹の中で宿っているわけだ」
「……あ、うん」
「で、この子供はどう見積もっても生後二、三ヶ月といったところだ」
「……そういわれれば、そんな感じではあるけれど」
 ドリィは赤ん坊を抱き寄せて顔を覗きこむ。柔らかい身体。まだ首も据わっていない。
「ってことは一年前に遡って考えてみろ」
 こちらに指を突き立ててくるクレインに、ドリィは一年前を思い出してみる。
 ちょうど、クレインが王都からこちらに戻ってきて、店の準備を始めた頃だ。ドリィは住み込みの従業員募集という話をクレインから聞いて、一号となった。
 今は別のところに部屋を借りて通いでやって来ているドリィだが、一年前はずっとこの店にいた。クレインの身の回りの世話に慣れるのが忙しく、またそんなドリィを張り付かせていたクレインに女性が接触するチャンスなんてなかったわけで……。
「あ、あれ……?」
「ようやく、気付いたか。俺がこの子供の父親だってんなら、女は俺が入院していた王立病院に俺を見舞いに来ていたことになる」
「あっ……」
 ドリィはクレインのヒラヒラと泳ぐシャツの右袖に目をやった。
 英雄が町に帰ってくることになったのは任務中の負傷で利き腕を失ったからだ。右肩から腕をまるまる一本、喪失してしまったクレインは騎士を続けることを困難として騎士団に退団を申し出、それが受理されたからだった。







  
,もう一度、寝かせて


「自慢じゃないが、病室にまで俺を見舞いに来てくれた女は騎士団の紅一点であるお花さんと、正真正銘のお姫様だけだ」
 クレインは肩を竦めて、首を振った。
 お花さんというのは、名前を覚えられないクレインがつけたあだ名だ。そのあだ名が指し示すのは、宮廷騎士団白色部隊の隊長であるルカ・アルマ嬢だ。宮廷騎士団で唯一の女性騎士の名はドリィも知っていた。
 前に国王が視察途中にやってきたとき、彼女が護衛を勤めていた。凛とした美人を今でも思い出せる。
 そして、姫様というのは国王ジルビアの妹、セイラ姫のことだろう。
「命知らずの俺でもさすがに手は出せんよ。相手は俺より強い白色の隊長と、あの王様の妹だぜ。第一に、お姫様はエバンスの若殿様にぞっこんなんだから」
「……クレインさんの子供じゃないの?」
「あのな、当時の俺はこれからこの左腕一本で生きていかなければならない状況に迫られていたわけだ。リハビリで忙しいときに女の相手なんてしてる余裕があったと思う?」
「クレインさんなら……」
「……ほう」
 半眼の薄笑いで睨まれて、ドリィは首を竦めた。
「だっ、だって、クレインさんってば女の人のお客さんにモテるから……」
 目つきが鋭く粗野で、何かしら悪巧みをしていそうに、唇の片側を持ち上げた笑みを常時湛えたクレイン。その何だか悪っぽい印象が年上の女性にやたらと受けている。
「女の客って俺より年上の主婦ばかりじゃないかよ」
 ややげんなりと呻いて、クレインは左手を腰に手を当てる。
「むしろ、可愛がられてんのは一号でしょ」
「僕は……」
「ああ、言い訳はいらんよ。とにかく、この子供が俺の子だって可能性は、絶対にあり得ないね」
「絶対に?」
「ない」
 キッパリと断言してやる。
「俺のこの怪我は暴漢に襲われてのことだったんだ。それで、捜査のために部隊の連中が始終、俺の病室を出入りしていたんだよ。そこへ女を連れ込むほど、俺は破廉恥じゃないね」
「……じゃあ、この子、誰の子?」
「知らんよ、俺は」
 そっけなく言って、クレインは店内を横切って食堂へと向かう。
 ドリィはしょうがなく赤ん坊を抱きかかえて後をついていくと、彼は二階への階段を上っていた。
 二階には外から通じる階段があって、店の客以外は二階の玄関を訪ねる。だから二階には応接室や居間があるのだけれど……、クレインは店頭にいるため、実際に客が訪れるのはいつも店のほうだ。ドリィも昔はここに住み込んでいたが、雇われて半年を過ぎたとき、クレインが少し離れたところにアパートを見つけてきた。以来、二階には掃除を頼まれたとき以外は上がらない。
 追いかけられず、その場に留まったドリィを置いてクレインは階段を上っていく。慌てて、その背中に声を掛ける。
「ク、クレインさん?」
「あー? 何よ」
 面倒くさげに振り返るクレインに、ドリィは恐る恐る尋ねる。
「……どこ行くの」
「寝る」
「ね、寝るって。この子、どうするの?」
「とりあえず、元に戻してきたら?」
「元にって……」
「もしかしたら、捨てた本人が拾いに来るかも知れんでしょ?」
「そ、それでも……外にこんな小さい子を置いておくなんて、できないよ」
 突けば破けそうな柔肌は、野良犬に噛み付かれただけでも大事になりそうだ。
「じゃあ、治安管理官に届けてきたら。拾い物ですってさ」
 治安管理官というのは、王家と七家により任命された人間だ。町のトラブルを一手に引き受け、自分に手が終えないと感じたとき、騎士団へと繋ぐ役割の者だ。管理官の特権で自警団も結成できる。
「自警団が深夜パトロールに回っていたはずでしょ。夜勤で事務所に駐在していた奴もいるはずだよ。そのときに、誰か不審な人間見かけなかったか聞いてみなよ。幾ら朝早くっても起きてる奴は起きてる。そんな中で赤ん坊を捨てるなんて目立つ行為をするよりは、闇夜にまぎれて捨てに来たと考えたほうがいい。ここで、騒いでいるより何か進展があるかもよ?」
「……それは……そうかもしれないけど。クレインさんは何もしてくれないわけ? だって、この子はクレインさんに預けられているのに」
「あのね、例えば俺の店先に百万ゴールドの金の山があったとして、それは俺の物って主張できると思ってんの? それと同じでね、それは俺の子供じゃないし、俺が面倒を見てやる義理もないの」
 淡々と吐き捨てて、クレインは寝癖頭を掻く。面倒ごとにどちらかといえば、自分から首を突っ込んでいく自分であるが、今は睡魔が勝っている。
「とにかく、後三時間は寝かせろよ。その子は寝かせときゃ、大丈夫でしょ。今の俺の頭じゃろくな思考はできないんだから」
「この子の親……捜してくれる?」
「あー、まあ、そうね。土産話にはなりそうではあるわな」
 あまり気がなさそうに言って、クレインは階段を上る。
 ドリィは眠っている赤ん坊に目をやってため息をついた。
 ……本当に、宮廷騎士だったのかしら? 今さらながらに疑問が過ぎる。



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