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 1,喪われた拠り所を目指し


 アルデリア、と――名前を呼んでもらった記憶は遠い。
 あまりにも遠い。
 夜空に瞬く星たちのように、手を伸ばしても触れることは叶わない。
 闇夜を照らす星の微かな光のおこぼれが、消し去れない記憶の隅に残った傷跡を照らす以外に……過去は薄れ、遠く。目を()らさなければ、闇にまぎれる。
 現在の彼女にはもう、自らの名前を呼んでもらっていた平穏な日々を思い出そうという意識はなかった。
 その名前は、喪われた人たちと共に、この世から抹殺された。
 そう――殺されたのだ。
 闇の中で満ちた月が、金色に燃え輝いていた夜に行われていた宴が、アルデリアの転落の始まり。
 平和だった日常の崩壊(ほうかい)は突如訪れ、血の色をした赤い波は彼女を(さら)い、悲劇の深淵(しんえん)に叩き落した。
 大広間を飾った陶器や卓に並んだ食器類が、狼藉によって破壊される音が飛び交い、あちらこちらで悲鳴が響いた。
 次々と倒れていく人間たちの切り裂かれた肉から迸る鮮血は、湯水のように溢れ、大理石の床を赤く塗り替えた。
 これは悪夢だともがき、逃れようとする彼女の腕を、足を、波は絡めとり、深い底へと沈める。
 鮮血の沼に足を取られて、転倒した。
 打ち付けた頬に痛みを覚えながら、顔を起こした目先に転がるは、大陸でも名の知れた大国アッコールトの王――アルデリアの父の苦悶に歪んだ頭だった。
 胴から切り離された父王の生首は、彼女の眼前で強大な靴底によって踏み潰された。
 眼窩(がんか)から零れ落ちる目玉。砕ける頭蓋(ずがい)
 飛び散る脳漿(のうしょう)が、既に全身を赤く染め上げた彼女の頬を撫でていく。
 喉奥から突き上げてくる激情に、泣き叫ぶ声は口を塞がれ、封じられた。
 人としての尊厳(そんげん)を奪われ、荷物のように担がれた彼女の耳に、下卑(げび)た声が一人の青年に問いかける様子が入ってきた。
『アンタがここまでやるとは、思ってなかったぜ。姫さんとの結婚も目の前で、黙っていてもアッコールトの玉座は手に入っただろうに』
『俺の目的は復讐(ふくしゅう)だ。……玉座を手に入れることが目的だったわけじゃない』
 そう答える抑揚のない声に、彼女は目を見開いた。
 死神の如き黒衣を(まと)った秀麗な顔立ち青年は、血が滴る(つるぎ)を片手に、もう片手に王妃の死体を引きずりながら現れた。
 闇よりも深い漆黒の髪の間から覗く、瞳は暗く(よど)んでいた。
 闇夜に煌々(こうこう)と輝く月のような黄金色の瞳は、今は曇り光りを失い、焦点がどこにあるのかわからない胡乱(うろん)な眼差しでアルデリアを見つめた。
 護衛隊という――国王が直接統括する部隊の頭として、常に王族の傍らに在り続け、国王の覚えめでたくアルデリアとの婚約を許されたその青年。
 彼に対して呼びかける声は、アルデリアの中で凍り付いてかすれた。
 この瞬間、彼女の中からシエナという、彼の名前もまた失せた。
 彼を、愛していたなんて――認めない。
 彼に、愛されていたなんて――幻想(まぼろし)だ。
 全ては闇に消えて。もう、星の光りさえ見つけられない。
 彼女はただ闇の中で、泣き続ける。それだけしか、出来ないとでもいうように。

「――いつまで泣くの?」

 冷ややかな声が問う。
 声に(にじ)んだ嘲笑(ちょうしょう)に気付いてアルデリアが顔を上げれば、そこに立つのは、黒衣を纏った後の彼女自身だった。
 柔和な美貌は、研ぎ澄まされた刃のように鋭くなっていた。
 引き締まった肢体、得物(えもの)を自在に操る節くれだった手は、革の手袋で覆われていた。
 曙色(あけぼのいろ)()めそやされていた髪は、短く切り揃えられ、返り血を浴びすぎたのか、赤黒く燃えていた。
 それは夜に堕ちていく夕陽のような色。
 内側に燃える復讐の炎に決意して、短く切った髪。感情を冷たく凍りつかせた瞳の青。そうして、死を纏う黒衣。
 花よ蝶よと、(うた)われていた頃の、金糸銀糸で刺繍(ししゅう)を施した豪華絢爛(ごうかけんらん)なドレスは、脱ぎ捨てられていた。
 復讐と冷酷を宿し、死の化身となった彼女は殺し屋ダリアと呼ばれ、ただ泣き伏せるしか能のない過去のアルデリアを嘲笑(あざわら)う。
「いつまで泣いているつもり? そんなことでは、あの男は殺せないわよ」
 泣き濡れた瞳は、暗闇に目を凝らし、
「――殺す……」
 呆然と呟くアルデリアの声は、震えていた。
 平穏だった日々を憶えている意識が、アルデリアに涙を流させる。
「そう、殺すの。それとも、アンタはあの男を許すつもり? 父様、母様を殺して玉座を奪ったあの卑劣(ひれつ)な男を――許せるというの?」
 黒衣のダリアが目の前で片膝をついて、アルデリアを覗き込んできた。
 身を寄せたダリアの唇から吐き出された、冷たい息が耳の中に流れ込んできて、悲しみに揺れるアルデリアの心を凍らせる。
 アルデリアの思考は冷たさに麻痺(まひ)し、ダリアの声だけを聞いていた。
「あの男はアンタを騙したのよ。愛しているなんて、囁いて。アンタを味方に引き込んで、警戒を解かせた」
(彼を、愛していたなんて――そんなこと認めない……)
「ねぇ、まだ信じているわけではないでしょう? あの男に愛されていたなんて」
(彼に愛されていたなんて――幻想だと知っている……)
「愛されていたのなら、何故、アルデリア(わたし)はこんなにも(みじ)めに泣いているの?」
 ダリアの声に、アルデリアは目を伏せる。
 全ては嘘。偽りの日々。
 遠い日に消えた幻。
「騙したあの男を許す? あの男に玉座を与えるの?」
 静かに問いかける声に、アルデリアは思考を放棄(ほうき)し、ダリアは首を振った。
「――いいえ。あの椅子は、私たちのものよ」
 喪われた人々が守り続けた玉座を受け継ぐのが、卑劣な裏切り者であってよいはずがない。
 ギリっと唇を噛めば、復讐に燃える赤がダリアの内側に広がった。
「――そう、あれは私たちのもの」
 ダリアはアルデリアを両腕に包み込む。脆弱(ぜいじゃく)な姫君の意識を飲み込んで、殺し屋ダリアは彼女(アルデリア)を動かす主導権を握った。
 その手が握るのは、分厚い刃を砥いだナイフ。人攫いの男から奪ったそれは肉片をこびりつかせ、血に濡れていた。
 涙が乾いた青い瞳は、復讐の炎に照らされた闇の端、路地裏で滅多刺しにされた男の死体を冷たく見下す。
 混乱を極めた城から攫われる途中で、アルデリアの生存本能が彼女の中に眠っていた(けもの)を目覚めさせた。
 男の首にかぶりつき、持っていたナイフを奪って、アルデリアは初めて人を殺した。
 命を奪うという行為に震えていたのも、一瞬。
 己のこれからを思えば、道端に捨てられた男の命など取るに足らない(くず)だ、と。
 やがて、冷酷なダリアが囁き、アルデリアの目を塞いだ。
 こんなことで、アルデリアの胸に穿(うが)たれた傷は癒されるはずがない。
 この穴を埋める方法は――ただ一つ。
「私たちは――取り戻さなければならない。あの男を殺して」
 言葉を紡いで、ダリアは胸元に落ちる曙色の髪をナイフの刃で削いだ。
 ザクリという音が耳元をかすめると、頭は軽くなり、彼女の手には長い髪の束が握られていた。
「私たちはあの場所に帰るの」
 顔を上げれば、闇を背景に、月の光りに照らされて(そび)え建つ白亜の城。
 アルデリアが穏やかに過ごしていた楽園。
 手を伸ばすも届かない――あまりにも遠いその場所だけれど……。
「必ず――帰るわ」
 

 長い夜の狭間。
 繰り返される夢の中で、ダリアは心の奥底に眠るもう一人の自分(アルデリア)に、そっと囁いた。

(だから、眠っていなさい、アルデリア。……本当の悪夢が終るまで)

 まだ何も、終ってはいないのだから。


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