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 2,彼方の傷跡に狂気をのせて


 古傷が(うず)けば、シエナの心はあの日に(かえ)る。
 遠い彼方の記憶――すべてを喪った日。狂気が芽生えた時。
 赤い血に染まった黒衣を脱いで、冷水に身を清めれば、肩に穿(うが)たれた傷がヒリッと痺れるように痛んだ。
 それは幻痛――過去の痛み。
 復讐(ふくしゅう)を果たした今でも痛むのか。
 目を瞑って幻痛に耐えようとした一瞬、シエナは呆然と見開かれた青い瞳を思い出した。
 口を塞がれ、自由を奪われたアルデリアの、絶望に歪んだ顔を思い出せば、彼の口元は狂気に歪んだ。
 彼女に対して、愛しているという言葉を(ささや)いたのは、一瞬の気の迷い。
 甘い顔をしてアルデリアに近寄ったのも、憎らしい相手に忠誠を誓って見せたのも、すべては復讐を果たすための、布石に過ぎない。
 シエナが口にした誓いもすべては虚飾(きょしょく)
 復讐に燃える炎を前にすれば、灰に変わる。
「アイツが悪いんだ――」
 疼く痛みを堪えて、彼は吐いた。
 何事も因果応報。報いは在るべきところに還る。
 それだけのことだと、言い聞かせるようにシエナは繰り返す。
「――俺が悪いわけじゃない」
 偽りの日々の中で彼の腕の中で咲いていた花に、言い訳をするように呟いて、(かぶり)を振った。
「俺が悪いわけじゃない――」
 自分から何もかもを奪い去ったあの男が、安穏と暮らしていることが許されることであったのならば、あの男が持つものを彼が奪うこともまた、正義ではなかろうか。
 それがどれだけ、血に汚れ、人の命を潰し、何人もの悲しみを生んでも。
 自身の手で艶やかに咲いていた花を枯らしてしまっても。
 胸にあるポッカリと空いた(うろ)を埋める術は、ただ一つしかなかった。
 シエナはその一つを望んだだけだ。他のすべてを失っても、それだけしか選べなかった。
 幼い日、彼が暮らしていた日常は、隣国アッコールトの侵略によって蹂躙(じゅうりん)され破壊された。
 穏やかだった日々は血の匂いと恐怖に、瞬く間に染め上げられた。
 その頃から、運命の歯車が狂いだしていたのだとしたら、責は、やはりあの争いを始めた男にあるだろう。
 白亜の城の玉座で悠々と笑い、己が一人娘のアルデリアを花よ蝶よと愛でながら、殺戮(さつりく)を命じていた男。
 王であれば、すべてが許されるというのであれば――現在、玉座を奪ったシエナの所業を断罪できる者もまたいないはずだ。
 なのに、過去の傷は彼の行いを責めるかのように疼く。
 ――何故?
 シエナは自らの正当性を確認しようと、過去に思いを馳せた。

 思い出すのは、フレムデテーネの大地に広がる黄金絨毯(おうごんじゅうたん)を焼いた劫火。
 実りに重くなっていた稲穂が、かけられた炎によって瞬く間に燃え上がっていた。風になぶられた火の手は波のように、金色(こんじき)の海を赤く揺さぶる。
 黒煙が風にたなびいて、彼の金の瞳の奥に侵入してきた。
 崩壊する日常に呆然とするしかなかったシエナの目が、煙に刺激されてズキズキと痛んだところから、あの日の記憶は始まる。
(――嘘だっ嘘だっ嘘だ)
 叫びは、炎の熱に焼かれた喉の奥で、乾いた慟哭(どうこく)となった。
 震え崩れ落ちる身体を支えようと伸ばした手のひらは、大地に広がる血を吸った黒い土を掴んだ。頬を撫でる熱風に混じった異臭が鼻腔を突く。
 それは人間の肉を焼き、髪を焦がした臭い。胸の奥底を掻き回し、胃液がこみ上げてくるのをシエナは堪え、土を掻く。
(――母さんっ! 姉さんっ!)
 助けを求めて叫ぶも、声にならない。掴んだ土を捨てて、赤黒くぬかるんだ地面に小さな手形をつけて、シエナは立ち上がる。
 家族を捜さなければと、条件反射のような意識が彼を動かした。
 侵略者たちと戦うために、戦場へと出て行った父に後を任された。唯一の男手である自分が母を、姉を守らなければ。
 まだ幼いシエナだったけれど、男としては一人前のつもりだった。
(……だって、約束したのだから)
 父さんは悪い奴らを倒して、帰って来るって。
 それまでは、僕が母さんと姉さんを守るって。
(……だから、だから)
 焦げた黒い空と燃え盛る赤い海が、見慣れた景色を別物にしていた。
 見知らぬ異国に迷い込んだ心もとなさと、恐怖に竦みそうになる身体を叱咤し、勇気を奮い立たせて走る。
 道を塞ぐは、顔を見知った村の者たち。でも、男たちの姿はない。
 戦える男たちは前線へ旅立っていたから、辺りに倒れているのは農具を片手に家族を守ろうとした、老人や女たち。
 若い女は、服を乱され、(なぶ)られた形跡が見えた。
 命を奪われた無惨な(むくろ)の群れを避けながら、この人たちが殺されなければならない理由はなんだろうと考える。
 何も悪いことなんて、していないはずだ。
 フレムデテーネは小さな国ゆえに、周辺諸国に顧みられる事がなかった。その国では、誰もが慎ましやかに田畑で採れる実りを糧に生きてきた。
 そんな僅かな財産も、灰へと変わった。それだけならまだしも、命すら奪われて。
 あまりの仕打ちに、シエナの瞳から涙が零れる。
 潤んだ視界に家が見えた。
『母さんっ! 姉さんっ!』
 声の限りに叫べば、家の玄関ドアが弾かれるように開かれた。家から出てきたのは姉だった。しかし、血塗れでよろめく足取りはもつれて、転倒した。
 微かに呻き血を吐きながら、『逃げなさい……シエナ……』と姉は彼に向って言った。
 シエナは姉に駆け寄り助け起こそうとしたところで、激痛に悲鳴を上げた。
 姉の身体を貫き通した剣が、シエナのまだ成長しきれていない身体を突いていた。
 肩を穿たれ、皮膚が裂ける。痛みに大きく見開いた視界に映ったのは、隣国の軍服を着た兵士。子供にも容赦なく刃を振り下ろす、無慈悲な殺戮者の姿だった。
 事切れた姉の死体を抱いて、シエナもまた意識を失った。
 自らの死体を楯にして姉が守ってくれたのか、村が灰に変わって誰も息をするものがいなくなった頃、シエナの目は開いた。
 守ってくれた姉の骸が重たいと感じる心に罪悪を覚え、血を失い痺れの残る腕で身体を起こしたシエナの金色の瞳がそこに見つけたのは、この世の終わり。
 ――狂気の始まり。
 生き残ったシエナは流れるままに、隣国へと辿り着いた。
 その道中はまるで地獄だった。
 戦火に倒れ、埋葬(まいそう)されずにいる数々の死体にハエが集り、ウジがわき、腐敗した肉や汁が土に染みて、異様な臭気を放っていた。
 獣に食い荒らされたらしい、人の内臓が干からびて落ちてもいた。
 腐り落ちた肉の間から覗く、やけに白く輝いて見える骨。そんな死体が、纏うはフレムデテーネのボロボロになった軍服。
 それは命を賭して国を守ろうとした戦士たちの成れの果てだった。
 戦に勝利していれば、英雄になるはずだったが、シエナの目に映る死体に尊厳はなく、腐敗したゴミと化す。
 戦に負けるということは、人であることを否定されることなのかと、吐き気を堪えながらシエナは泣いた。
 きりきりと、胃が軋む。じんわりと広がる痛みは熱に似て、身体が燃えていくような錯覚に陥った。
 殺されずに生き残った子供たちは、養い手を失い、乞食になった。
 シエナもまた、そんな一人だった。
 アッコールト王国の片隅で、仇である敵国の人間に慈悲を乞うことに屈辱を覚えた。
 その辺りのことを見越してか、アッコールトの人間は暗い愉悦に歪んだ口元でフレムデテーネを侮辱し、シエナの心を言葉の暴力で叩き伏せた。
 故国を汚され、怒りの芽を内側でひっそりと育てながら、彼は自国に起こった悲劇の発端を知った。
 それは、何もないと思われていた小国フレムデテーネに、希少な宝石の鉱山が見つかったこと。隣国アッコールトの王はそれを欲し、彼が暮らしていた小さな国を滅ぼした。
 そんな理由で、穏やかだった日常が切り裂かれたというのか?
 真実を確かめるべく、シエナは痩せ衰えた四肢を鼓舞(こぶ)して再び駆けた。
 灰色に死んだ故郷フレムデテーネへと。
 もう誰もいないはずの――世界の果てへ。
 そうして辿り着いた先で、彼は鉱山で奴隷として働かされている自国の生き残りたちを見つけた。
 戦に負けて捕らえられた敗残兵たちかもしれない。
 シエナの父親と同年代に見える男たちが、隣国の軍服を着た兵士たちに睨まれて、山に開いた穴の出入り口を蟻のように並んでは、出入りしている。
 過重な労働を強いられながら、それでもろくに食料も与えられていないだろう、奴隷たちの痩せた身体は、骨に皮膚が張り付いたかのような按配(あんばい)だった。
 平和だった頃なら、きっと逞しく田畑を耕していた男たちの栄光は幻と消え、立っているのでさえ苦痛なのか、足元が震えている。
 掻き出した土を外へと運び出しているのだろうか、抱えた木箱には山のような土と石。
 箱を支える手の細さに、影で隠れて事態を見守っていたシエナは思わず身を乗り出す。
 そうして、痩せた面差しに父親の面影を見つけて、あっとなった。
(――父さんっ?)
 様変わりしている容貌に、それが本当に父親であるのか、シエナには判断がつかなかった。もしかしたら、全くの別人かもしれない。だけど、助けなければならないと、小さな正義が彼を動かした。
 しかし、シエナが木陰から飛び出すのを制するかのように、木箱が地面に転がった。途端に、奴隷たちに振り下ろされる無慈悲な懲罰(ちょうばつ)
 血が滲み出るほどに背中を(むち)で打たれ、結局、そのままあの世へと旅立ったらしい奴隷を足蹴りにして、隣国の兵士たちは嘲笑っていた。
(――許さないっ許さないっ許さないっ!)
 嘲笑が響けば響くほど、シエナの中の復讐と狂気の萌芽は育っていた。
(――殺してやる、絶対にっ!)
 ギリっと唇を噛めば、口内に広がる熱に、シエナは我に返った。
 灰色に曇った過去は眼前から消え去り、豪奢(ごうしゃ)に飾り立てられた室内に一人佇む自分を自覚する。
 シエナは心の内側で育て上げた復讐心の赴くままに、すべての元凶であった(アッコールト王)を殺した。
 そうして、男のものを奪ってやった。この部屋もまた、男のものだった。
 あの日から今まで、どれだけの時間が経ったのだろう。
 もう肩の傷も癒えて、痛みも消えてよいはずなのに、傷は痛み、過去へと心は還る。
 過去と現実の境目が曖昧となる狂気を前に、彼は笑う。
 繰り返される記憶に、少しずつ狂気に蝕まれていく自我を止める術が、彼には見つけられなかったから――シエナは幻痛に涙を流し、笑った。


 それは、満月の夜。
 惨劇に静まり返った城内に、嗚咽(おえつ)が響いた初めての夜だった。


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