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 死神の抱擁


 むせ返るほど濃密な血臭が漂う谷間は、無数の屍に埋め尽くされていた。骨を砕かれ、肉を潰し、内臓をぶちまけ、無残な肉塊となり果てた死体を足元に敷いて、一人の男が佇んでいる。足元にとり落とした斧槍(ハルバート)は月光を受けて、白く輝いていた。
 群青色の空に散った星の明りと白い月明かりを仰ぐ横顔は泣いているように見えた。
 しかし、頬を滴り落ちる雫は夜の闇に黒く、月明かりの下にはガーネットの色をしている。
 それは地に広がった赤い海に呑み込まれて、同化された。
 乾き切らない他人の返り血を髪から滴らせながら、空を仰いでいたシルヴィオは(わらわ)の気配に気がついたのか、肩越しに振り返る。
 本来なら銀色をしているシルヴィオの髪は、一本たりとも元の輝きを失い、赤黒く額に張り付いていた。引き締まった頬に散る朱色の斑点は、シルヴィオが手に掛けたフィエブレ帝国兵の血だろう。
 シルヴィオ自身が傷を負うことはない。何故なら、そんなことは妾が許さない。
 軍人として理想的に鍛えられたその肉体と高潔な精神を形に表したような精悍な顔つきは、セグレート王国の宮廷の花たちの間でも、かなりの評判だ。
 もっとも、それらの評判に耳を傾けるほど暇人ではないシルヴィオは、己の美貌に気づいている様子はない。
 気づいたところで、何かが変わるわけでもないだろう。
 英雄と呼ばれセグレート王国のため、死神である妾のために、人の命を狩り続ける己の生を嫌悪しているこの男が自らの未来に何を望もうというのか。
 シルヴィオが求めるのは、ただ一つ――それは妾だけが与えることが出来るもの。
 それを決して妾がシルヴィオに与えることがないと知っているから、この男は妾を憎む。
「失せろ、死神っ!」
 妾を目にした瞬間、シルヴィオの青灰色の瞳に剣呑な怒りの炎が燃え上がり揺らいだ。無駄な肉などない頬が痙攣(けいれん)したように震えているのは、死神である妾に相対する恐怖ではなく憎悪だ。
 この男は、出会ったときから片時も妾を恐れたことはない。
 死と向き合い、そして拒み、求めた。
 大抵の者は、死を顕現(けんげん)する妾の存在を前に恐れを抱く。どんなに受け入れた形を見せても、死と隣り合わせれば覚悟など微塵(みじん)に砕ける。
 シルヴィオの主であるセグレートの若き王が、そうだった。
 無様に泣き喚いて、助けてくれと幼馴染みに(すが)った。
 その一言が、シルヴィオを追い詰めると承知してのことだったのか。あの愚かな王に、それでも忠誠を誓った騎士として仕えたシルヴィオもまた愚かであったのか。
 見捨ててしまえば楽になれただろうに、愚直なまでの実直さが妾を惹きつけた。
「つれない口を利くではない、愛しの婚約者よ」
「何が婚約者だっ! ふざけたことを言うんじゃない」
 牙を剥かんばかりに大口を開いて、シルヴィオは反論する。毛並みを逆立てた獣のような獰猛(どうもう)な怒りを前にすると妾は愉快な気持ちになる。これほど、この男に憎まれている女も珍しかろう。
 まったく、可愛い男だ。常々、そう思う。こちらを毛嫌いするその反応こそが、妾を楽しませるのだと気づいていない。
 出会って二年が経つというのに、いまだ死神という人知を超えた存在を前にして、不遜にも妾に屈服しないその姿勢こそが堪らなく、愛しい。
 くすりと、妾の喉の奥が鳴る。それにまたシルヴィオは眉間に皺を立てて、声を荒げる。
「何が、可笑しいっ?」
 首や腕、さらには腹から真っ二つに切断された屍の、肉塊の海で(わら)える神経をシルヴィオは持ってはいない。
 いっそのこと心を狂わせてしまえば、シルヴィオも楽であっただろうになと、妾は思う。
 しかし、幼馴染みを守るために自分の命を賭けた、騎士としての責任感が全てを背負おうとする。その自ら愚直さに気づいているのか、否か。
 どちらにしても、これほど妾を楽しませてくれる男はいない。
 妾は微笑みながら頬を傾け告げた。
「死神である妾は、死と共に在るのだよ、シルヴィオ」
「何っ?」
「お前が死を生み出す以上、妾はお前と共に在ることを忘れるな」
 そう簡単に、これほど面白い男を手放すはずがなかろう。
 妾はくつくつと嗤った。それを聞いて、シルヴィオがギリッと、奥歯で歯軋りする音が耳に届く。
「俺はっ……」
 握った拳を震わせて、口を開きかけたところでシルヴィオは声を呑み込み、深く項垂れた。
 妾を罵り、責任転嫁をすれば激情は冷めるだろう。
 だが、妾の手をとったのは他でもなく、シルヴィオ自身であり、この場の百人近くの敵兵を血祭りに上げたのもまたシルヴィオだということを気づいたのだろう。
 心を狂わすことを許さない理性の強さが、自らの罪を認める。そうして、眉間に皺を寄せ、精悍な顔立ちを苦悶に歪ませる。
 その表情の歪みが妾の内側で歓喜を呼び起こす。
 苦しめばいい、そして終焉を求めて、もっと妾を――死を望めばいい。
 もっとも、何が起ころうと、妾はシルヴィオに死を与えることはない。何故なら、彼こそが妾の花婿に相応しいからだ。
 死ねないという永久の拷問に狂わない強さと、解放を願い、切実に死を望む弱さと。
 ――お前が切ないほど真摯に死を求めるから、妾はシルヴィオを愛さずにはいられない。
「……俺は」
 震える声で何かを訴えようとしたとき、呻き声が深閑とした谷間に響いた。
 ハッと弾かれたように、シルヴィオは顔を上げ、音の出所を探る。それは少し離れたところで、今度はハッキリと声になって響いた。
「……助けてくれ……誰か……」
 折り重なった死体の山から聞こえてくるそちらに妾は足を向ける。
 その先には背中に仲間の死体に埋もれながら、助けを求めるフィエブレ帝国兵がいた。肩の骨を砕かれ、腕を切り裂かれているが、呼吸の具合から致命傷には至っていない様子だ。もう片方の腕で地面を這い、何とか逃れようとしている。救いを求めるのに必死で、妾やシルヴィオの存在など感知出来ていないようだ。
 妾は肩越しにシルヴィオを振り返り、問う。
「どうやら一人、しくじったようだな」
 常に迷い苦しみながらも、敵には容赦なく斧槍を振り降ろすシルヴィオには珍しいことだった。それほどまでに、戦場で敵を(ほふ)る行為に疎み、疲れているのだろうか。
 苦悩が深まれば深まるほど、シルヴィオは妾が与えるそれを求めずにはいられなくなるだろう。
「どうせ誰も助けに来ない……直に死ぬ、放っていろ」
 シルヴィオは完全に戦意が抜けている様子で投げやりに言った。もう沢山だと、態度が語っている。
「お前には慈悲(じひ)がないのかね、シルヴィオ」
 妾はうっすらと唇に笑みを浮かべながら、問いかけた。
 口にした言葉が、シルヴィオの神経を逆撫ですることを計算すれば案の定、彼は噛みついてきた。
「お前が慈悲など、口にするなっ!」
 怒りに駆られたシルヴィオが妾に迫る。
「おや、妾がお前を――お前が守ろうとした者たちを助けてやったのは、慈悲ではないと」
「……慈悲だと?」
 吐き捨てるようにシルヴィオは低く呻いた。あのとき、妾の手をとった自らを唾棄するように唇が歪む。
「俺は――堕ちた。英雄と褒めそやされようが、求められることはただの人殺しだ。それを救いだというのか?」
 殺したくない――そう望んだところで、誰もシルヴィオの願いを許すことはない。国を背負う英雄は、凱旋(がいせん)すれば新たな戦場に送り出される。
 その道を選んだのも、またシルヴィオだ。愚かな幼馴染みを見捨てきれず忠義に尽くしてしまったときから、もう引き返す道などない。
 ただ延々と、敵兵の命を狩り続けるしかない。
 天の神が求める十万の命を潰した先に、終わりがあると信じるしか、シルヴィオには成す術がないのだ。
「妾は正直に名乗ったはずだ。死神であるとな、それでも妾の手をとったのは、お前だよ」
 傷口に塩を塗り込む如く、指摘してやった。
「隠しごともせずに、お前に選択の道を与えてやった妾に慈悲などないというのは、あまりに酷いな、愛しき婚約者よ」
 責任はそう、すべてお前にあるのだと、突き付ける。
 そうすることで追い詰められるシルヴィオの心情を思いやって、妾の嗜虐(しぎゃく)の欲が満たされ、恍惚となる。
 期待に応えるように、シルヴィオの顔に苦悶の色が濃くなる。
 死を与えられること叶わず、幼馴染みを見捨てるには高潔すぎて、狂ってしまうには心が強すぎたシルヴィオの命運を妾は手のひらに転がして、微笑む。
 このような妾の愛し方を、人であるシルヴィオは理解できぬだろう。
「では、もう一度、妾が慈悲を見せようか」
「……何?」
「そこに這いつくばる哀れな生き物に、お前と同じ妾の加護を与えようか? さて、そうなると戦局はどうなるであろうな?」
 人ならざる力を得たシルヴィオ。彼を擁するセグレート王国が大陸の勢力図を書き換えている。彼が戦うから、その背後にあるシルヴィオの守るべき者たちは生を保証されているわけだが。
「――どうする?」
 小首を傾げ、妾はシルヴィオに訊ねた。
 新たに死神の花婿――妾の加護を受けた者が誕生し、今のセレグレート王国の優勢が危うくなれば、血に汚れながらもシルヴィオが守り続けてきた者たちの生が脅かされることになるだろう。
 では、何のためにシルヴィオは今まで戦い続けてきた?
 五万以上の敵の命を潰してきた行いは?
 振り出しに戻ることを良しとするのか?
 今までのすべてが無意味に還ることを理解できぬほど、シルヴィオは馬鹿ではない。
 暫しの沈黙の後、シルヴィオは無言で足元に落とした斧槍を拾い上げる。
 死神である妾の加護を受けたその武器は、何人もの肉を斬っても刃が鈍ることなく、磨き上げた新品さながらの輝きで月光を反射させた。
 銀色の軌跡を残しながら、斧槍は哀れな生き物に終焉をもたらす。
 絶命の悲鳴と噴き出す血飛沫の狭間で、シルヴィオの心が軋んで、噛みしめた唇の奥から嗚咽が漏れる。
「――こんなもの、戦でも何でもない。ただの人殺しだ……っ!」
 己の所業に呻き、慟哭に震えるシルヴィオの肩を背後から抱きしめて、妾は囁いた。
「そう、妾の花婿はお前だけさ。誰もお前を救いはしない、誰もお前を理解しやしない。覚えておくがいい、シルヴィオ」

 堕ちていくその果てで、お前を抱きしめることができるのは――妾だけであることを。


                              「死神の抱擁 完」



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