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 君が呼んだ、その先で

― 前編 ―


 何で、気づいてしまったのだろう。
 この瞬間を振り返れば、私は後悔するに違いなかったが、そのときの私は目に映った彼に視線を奪われた。
 学校の帰り道での出来事だ。とはいえ、時間帯は中途半端だった。
 真っ直ぐに帰宅しているわけでもなく、部活動で遅くなったという時間帯でもない。少し寄り道をして駅前の本屋で新刊棚を三十分ほどチェックして、二冊ほど見繕った結果、帰宅路には誰もいなかったというわけだ。
 特に寂れているわけでもない町中の道で、誰かの姿を見かけたとしても特に驚くには値しない、そんな光景であるはずだった。
 珍しくもなんともない、日常歩き慣れた道の途中で、私の無意識は違和感を覚えたのだろう。無意識だったのだから、その時点では自らの行いも推測でしか語れない。
 アスファルトを踏む、自らの靴先から視線を上げていた。
 道に影が差していたわけではない。道をふさぐものは何もなかった。何もないから、俯いていた。
 コツコツと靴底が鳴らす足音でリズムを取り、一定の間隔で足を前へと運ぶ、右、左、右、左。ただ、それだけの行為に没頭していたと言っていい。
 こうして自分の行いを語ってみれば、物凄く意味不明だ。ただただ、歩くことに没頭するなんて、競歩の選手でもあるまいに。
 だけど、住宅街の道は両側に塀があって、建て売り住宅の家はどれも似たり寄ったりだし、毎日のように見ているから、特に目新しいものがあるとは思えない。そんな意識が足下へと視線を向けていたのだ。
 それに小気味良いリズムを刻んで闊歩するというのは、動き的に美しい。靴底を引きずったり、ペタペタとペンギンのように鳴らして歩く姿は実際、傍から見るとだらしないものだ。
 もっとも俯いていた姿勢では、美しいとも言えないだろう。美しさへの道のりはまだまだ遠い……って、何の話をしているの。
 話を元に戻そう。
 その日、何か変わった物があったとしても、気づくはずはなかっただろう。
 でも、私は視線を上に向けていた。
 あっ――と、微かに息がもれた。
 塀に閉ざされ道なりの先に目を向けたのなら、十メートルほど先でこちらを手招いている人影があったからだ。
 距離があるから、顔を上げなければ気づくことはなかっただろう。第一にもう二メートルほど先の曲がり角で、私は右に進路をとるのだから、気づく可能性がゼロであっても良かったのだ。
 なのに、気づいてしまった。
 人影は「おいで、おいで」と招くように手首を前後に揺らして誘う。
 今時、見知らぬ人間が子供にこんな真似をしたら、怪し過ぎて逃げられるのは必至だ。声も上げずに人を呼ぶなんて、不審極まりない行為だと見なされる。
 もしかしたら、何かの事情があって声を出せないのかもしれないけれど、それならもっと大げさな動きをしているだろう。人を呼ぶにしては緊急性を感じない。
 何なの? という不信感が先立つ。怪しいことこの上ない。
 下手すれば警察に通報されるだろう。そんな話を耳にしたこともある。冗談でしょ、と思ったけれど、ホントらしい。
 何でもこの近辺では、昔から誘拐事件らしきものが多発しているようで、住宅地のあちらこちらでは新旧の警告ポスターが見受けられているけれど。
 ちょっとした不審行為で、通報騒ぎというのは、それだけ世の中が物騒になったのと同時に他人に対する信頼感が薄れたということなのだろう。
 最も、無防備すぎるというのもいただけない話ではある。
 私はもう高校生で、子供というには年をとっているけれど。知らない人について行っちゃいけないことはわかってる。
 自分がこの手の不審者に警戒すべき対象であることは理解していた。未成年だし、非力な女子高生だし、大人相手に対等に喧嘩できるほどの力はない。
 だから、近づくべきではない、と。
 わかっている。わかっていた。わかっていた、はずだった。
 過去形になってしまうのは、私の足が自宅へ曲がり角を折れることなく、人影に近づいていたからだ。
 このときの私に、私自身が忠告できていたのなら、私は私に「好奇心は猫をも殺す」とか「身を滅ぼす」などといった言葉を贈っていただろう。
 もっとも、好奇心というよりはお節介気質が災いしていたのかもしれない。だって、もしかしたら、何か困っているのかもしれないじゃない?
 ああ、結果を知ってしまった現在においては、遅いんだけど。
 こんなことを語ったところで、何も変えられやしないんだけど。
 私は視力がさほどいいわけではない。とはいえ、眼鏡やコンタクトレンズで視力を補強しなければならないほど、悪いわけでもなかった。
 ぼんやりと人相が確認できる程度の距離に近づくと、その人影が目立つことに気がついた。
 十メートルほど離れたところから、存在を気づかせたのだから目立たないはずがなかったのかもしれない。
 とにかく、彼は目を惹かせた。
 こちらを手招く動きの次に、まず目に入ったのは、住宅地全体を茜色に染めつつある夕日に染まったオレンジ色の髪――ようするに、夕焼け色の影響を受けた銀髪だ。
 そして白色人種にみる色素の薄い肌。こちらを見つめる瞳は赤色。
 赤い光彩は小学生の頃、飼っていた兎を思い出した。
 それまで元気だった子が翌朝には冷たくなっていて、ちゃんと育てて上げられなかった後悔が私の胸の奥に、苦く傷跡を残してる。
 目の前の人物は記憶の中にある兎のように赤い目をしていた。これって、カラーコンタクトよね?
 少し疲れたように傾いだ頭はその背丈に比べて、少し小さいような気がした。だからだろう、痩せた印象があった。
 肩幅も細く華奢といっても良いかもしれない。ただ折れそうなほど軟弱には見えない。全体的に肉付きが薄いのだと、わかった。所在なさげな佇まいのせいもあるかもしれない。
 細い顎、シャープなラインを描く頬。切れ長の目元に、真っ直ぐな鼻梁。額にこぼれた銀髪の影で見え隠れする柳の葉のような形のいい眉。目元を縁取る銀糸のような睫も、赤い瞳を引き立てるのに一役買っていた。
 着ている服は何だか変だ。ベストとスラックスという装いは、秋が深まりかけたこの季節にはおかしくないのに、デザインが古臭く感じるせいか、ちょっと浮いている。
 首元のタイはリボン結びをしていて、ヒラヒラと秋風になびいてる。シャツの袖口はゆったりと生地を余らせて膨らんでいた。
 そこから見える手は男の人の大きさはあるのだけれど、指がやたらと細く見える。綺麗に磨がれたナイフの刃のように、私を招く指は空を裂く。
 銀髪のその人の顔立ちも端正であるから、研ぎすまされた感がある。無駄のない美貌と語っても、過言ではない。
 これまで述べた内容で、私がやたらと目敏い人間であることはわかって貰えただろうか。
 はい、その人は私の審美眼にかなう、儚げな美形でした。
 二十歳は過ぎているだろうか、銀色の短髪の彼に近づいて私は赤い瞳を見上げていた。
 その美形様の薄い唇は、何か言いたそうに少し開いたかと思うと、顔の横の位置に持ち上げていた腕をストンと力なく落として、私の手首をつかんだ。
 その指先がほんのりと熱を伝えてきて、あ、生きている、と思った。
 日常的ではない美形の登場に、私の意識はどこか現実的ではないものとして、受け取っていたようだ。
 彼の美貌が体温を感じさせなかったからかもしれない。左右対称の整いすぎた面差しが人形のように印象づけていた。
 黄昏時の幻想のように思っていた私の意識は、手首に触れた熱で現実に目覚めた。
 彼は身を屈め、私の目を覗く。夕陽を透かした銀髪の間から覗く赤い瞳が私の姿を映し、視線が縫い取られ、縛られる。
 ――何なの?
 危機感なのか、違和感なのか、今更ながらに神経が不信感を認識して、警告を発する。
 身体を引いて、彼の手から逃れようとしたけれど――時、既に遅し。後悔、先に立たず。
 私は引っ張られて、前のめりになり、そして暗い何かに呑み込まれた。
 その闇が何だったのかはわからない。単に気を失っただけなのかもしれない。
 闇を抜けた私の意識が次に覚醒したのは、どこかの古めかしい屋敷の一室だった。
 古いと言ったけれどボロいとは、違う。時代を感じさせるという、意味だ。そして屋敷という表現がするりと出てきたのは、部屋が広いからだった。
 私の家の一戸建て住宅がすっぽり入ってしまいそうなくらい――というのは、さすがに大げさだけど。この一部屋は我が家の敷地の半分はあった。
 十年前に住宅ローン三十年で庭付き新居を買った父がこの部屋を見たら、泣くんじゃないかな。新しい家を前に、豪邸だろうと誇らしげに語った姿がちょっと虚しく思うくらい、広いのだ。
 この一室の規模からしたら、お屋敷と呼ばざるを得ないだろう。内装は完全なる洋装だった。グリーンの壁紙には蔦薔薇模様が描かれており、飴色の木材家具もアンティーク調で、部屋に馴染んでいた。
 ここはどこ?
 現状では当然の疑問が頭に浮かぶ。
 私は誰? ――とは、さすがに言わない。
 大丈夫、私は私だ……ええっと、これが夢ではない限り、私は十七歳の女子高生のはず。
 私、起きているよね?
 少なくとも私は見知らぬ部屋の長椅子で眠っていたらしい、という現状を把握するくらいには、冷静なのだけれど。
 目をパチパチと瞬かせていると、声が聞こえた。
「あんた、学校で怪しい人間に近づくなとか、知らない人間について行っちゃ駄目だって、教わらなかったの?」
 声の方に目をやると、背凭れ付きの椅子にふんぞり返って座っている女性がいた。
 黒いワンピースに白いフリルエプロン。フリル飾りがついたカチューシャと、ここまで完璧な装いをされたなら、彼女の職業がわからないという人はいないだろう。この広そうなお屋敷にならば一人くらい居てもおかしくはない、メイドさん。
 黒髪黒目の彼女は切れ長一重の日本人顔をしていた。年の頃は二十代後半か、姐さん的なさばさばとした印象だ。
「……あ、の」
 私の口から戸惑った声がもれる。
 彼女はふんと鼻を鳴らすと、小馬鹿にしたように言った。
「教わっていたって、ついて来ちゃう馬鹿もいるのよね」
 と、軽く肩を竦める。
「ついて来たわけじゃなく……」
 呼ばれて、引っ張られたんだけど。
 私は反論を試みる。手招きされた時点で、近づくべきではないことが明らかだったから、彼女の言い分は正しいのだけれど。
 抗えない磁力のようなものが、あの美形様にあったのだと伝えるには、どうすれればいいだろう? だって、銀髪なんだよ? 赤い目なんだよ? 見たこともないような超絶美形だったんだよ?
 ……まあ、美形に興味ない人からすれば、だから何という話なんだろうけど。
 口ごもる私の前で、彼女は手首を翻した。
「ああ、今のはあたしも含めての話よ」
 と言う彼女に私は目を丸くする。
「……え?」
「あの美形に釣られたのは、あんたが初めてじゃないってこと。ちなみにあたしが初めてってわけでもないから、もう既に確信犯の領域よね」
 彼女は横目で視線を流した。冷淡な眼差しの先には広い部屋の奥に置かれたソファに疲れたように腰掛けている、件の美形様がいた。
 彼女の話から察するに、元凶はあの美形様らしい。まあ、心当たりは彼しかいないわけだけど。
「あんたの持ち物、調べさせて貰ったんだけど。ねえ、そっちの世界じゃ、今はこんなの流行ってんの?」
 そう言って彼女が見せたのは、今日買った新刊本だ。イラストが表紙の本は、現実感の薄い異世界が舞台のファンタジー小説だ。
 うん、中高生向けの本だから十七歳の私が読んでも、別におかしくはないはずなんだけど、改めて言われると、ちょっと恥ずかしいような気がしちゃうのは何故だろう……。
「流行りってわけじゃないですけど」
 馬鹿にされるのを警戒した声が私の唇からもれた。
 彼女は気にした風もなく続けた。
「こういうの読んでいるんなら、わりとすんなり、自分の状況に納得できるんじゃない?」
 いやいや、現実とフィクションは別物ですから。
 私は頭の中で否定していた。
 現状に対する的確な言葉をファンタジー読みとしては知っているけれど。今に始まらず、この手の話は昔からあるわけだけど。
 認めたくはないじゃない。
 自己認識が確立されている、やたらとリアルな夢を見ているって、そう思いたい。
 目が覚めたら、自分の部屋で起きるのよ。そう、学校帰りの時点から、夢だったんだ。きっと、新刊の発売日を楽しみにしていたからね、そうそう。
 私が少し前の自分すら否定して、夢に縋れば、
「遠い目をして、現実逃避しても無駄よ」
 ピシャリとした物言いで、私の甘い幻想を打ち砕く。このお姉さん、優しくないです。




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