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 02,竜の騎士


「フレチャ! 厩舎(きゅうしゃ)に帰っていいぞっ!」
 エスクードは空を見上げて、声を張り上げた。高くはないのに透明感のあるよく透る声をしている。いい声だな。思わず聞き惚れてしまう。
 伸びあがった彼の声に、中空で待機していた騎竜は尻尾を一振りして、了解の合図を返すと、空を矢のように横切っていった。
 竜騎士さまは、竜と会話ができるらしい。凄いな。
 視線を空から降ろすと、(あお)い瞳が私を見つめた。
「ここで、何をしていたんだアリス?」
 微笑みながら首を傾げる姿は、完全に年下に見られているだろうなと推測する。
 もともと私は、実年齢より下に見られがちだった。
 心持ち大きな目と、頬に浮かぶえくぼが、年下に見せているのかも知れない。さっぱりと顎のラインで切り揃えた黒髪を特にセットするわけでもなく――今は長く伸びてしまったけれど、向こうにいた頃はボブカットだった――風に流していたことも洒落っ気が薄いことで、大人の女性という印象から遠ざけてもいたのだろう。
 二十代後半にして、新卒の新入社員に間違われていたのだから、童顔は自覚するだけでなく他人も認めるところ。
 だから、エスクードは私を年下とみなして、色々と気を使ってくれているのだろう。
 本当の年齢を知ったら、甘えるなと手のひらを返すだろうか。それはこの人に限ってない気がするけれど、驚くかな。反応を見てみたい気もする。こちらに来てからは驚かされっぱなしなんだもの。
 私は蒼い瞳を見つめ返して、小さく首を横に振った。こちらに来てからの一年、黒髪は長く伸びて背中に届こうとしていた。
「何もしていない、ただ、時間をつぶしていたの」と、身体を動かして、会話をする。
 言葉が通じないということもあるけれど、ここの人たちは私が声を出せないと思っている。だから口をパクパクと動かしながらも――これは何かを伝えようとしている意思表示の様なものだ――声は出さない。
 どうしてそんなことになったのかは、特に深い事情はなく、単純に風邪をひいて、声が出なかったからだ。ごめんね、そんな理由で。
 高熱に朦朧としていた私は、気がつけばこちらの世界に迷い込んでいた。
 目が覚めたとき、ふかふかのベッドに眠っていて、視界には金髪碧眼の美形男子がこちらを覗いている状況には、さすがの私も驚いた。
 けれど、慌てふためく気力すらなかった。
 身体は熱いのに、悪寒がする。節々が痛い。喉が痛い。鼻が詰まって、息ができない。声が出ない。そんな風邪の症状の前には、混乱も夢を見ているような感じだ。
 そして、聞こえてくる問いかけは意味不明とくる。何語かわからない発声の前には、英語だろうが中国語だろうが、関係ない。
 わからないと、首を横に振るしかなく、それもやがて熱にうなされ、眠りに落ちる。
 そんな状態が十日ばかり続いたらしい。エスクードは私がふせっている間、色々と手を回して私の身元を探ってみたが、当然見つかりはしない。
 だって私、ここの世界の住人じゃないもの。ここで私に対する素性が見つかったら、そっちのほうがヤバイ。何者よ、私!
 ようやく身体を起こせるようになった時には、既にエスクードの中では私は、何かの事件に巻き込まれ記憶喪失に陥り、さらに言葉の意味もよく分からなくなるほどの重度の言語障害を起こし、声も出せない、行き場を失った可哀相な人間としてインプットされていた。
 皇太子さま付きの竜騎士という職業柄、正義感が強いのだろう。
 この一年見てきても、それは間違いない。そして、面倒見がとてもいいことから、私を放置できず、自分の目の届く範囲に置いておくべく、お城へと連れてきた。
 エスクードは皇太子さまの居城に、部屋を貰っていて、日頃はそちらで寝食をとっていたらしい。
 私を空で拾ったエスクードは、とりあえず自分の屋敷に――引退した父親に代わって、家督を継いでそれなりの領地も持っているらしい。領地経営は人に任せているとのことだけど――私を連れ帰った。
 私が寝込んでいた日々は、わざわざお城から屋敷に帰って、様子を見ていたらしい。騎竜に乗ってのことなので、距離自体はさほど問題ではないとのことだったけれど。
 常に城にいる人が毎日、家に帰る。この異変に皇太子さまがエスクードに事情を正せば、話は前に説明したとおり、私は皇太子さまの保護を受けることになったわけだ。
 そして、お城での生活が始まった。
「空を見ていたのか」
 シエロという音が聞こえて、エスクードが空を見上げる。横顔も歪なところがない滑らかなラインを描いて、精悍だ。外国映画の俳優みたい。人目を惹きつけずにはいられないといった雰囲気がある。
 それに陽に透けて輝く金髪も綺麗だな。
 あちらでの日常生活ではきっと出会うはずのない人だろう。
 思考がずれるのを自覚して、私はエスクードと同じように空を見上げて頷いた。
 空を見ているのは好きだ。雲ひとつない空だけど、何もないというのはどこか私に似ている。「蒼天の君」という名は、あながち私にも相応しいかもしれない。
「帰りたいのか」
 エスクードが、ぽつりと呟いた言葉の意味を私は理解したけれど、彼がそれを伝えようとする動きを見せなかったので、恐らくは独り言なのだろう。聞き流す。
 帰りたいのかと聞かれると、そんなに帰りたいわけじゃないけどね。
 でも、エスクードの性格を考えると、私の不安定な存在は気にかかるところだろう。
 さっきまで、騎竜フレチャに乗って空を飛びまわっていたのは、私についての何か手掛かりを探してのこと。
 本当なら、お城の上空パトロールは竜騎士たちで交代に行われるようなのだけれど、エスクードは毎日、それを任務とした。
 ……優しい人だよね。
 できれば、その重荷から解放してやりたいけれど、生憎と帰れないし、こちらの事情を伝える言葉を私は知らない。
 ホントにね、そんなに帰りたいわけじゃないんだよ。
 思いつめたように空を見つめる横顔に、そう言ってあげたかった。
 私のあちらでの社会的地位は、結婚適齢期を過ぎたOL。
 部署では私よりキャリアが上のお局様がいるので、私はまだまだ下っ端だった。少々童顔の気があるので、二十代前半にも見える私は知らない人から見れば、実際に下っ端に見えただろう。
 自己主張するのが昔から苦手だったから、自分から企画を発案するということもなく、人の仕事を手伝うどちらかというと雑用係かな。
 割と体よく扱われちゃう立場で、上司も私を軽んじては自分で処理することもできるだろう簡単な仕事を押し付けてきたりして。
 私がそれを断らなかったから、後輩までもが上司を習い出した。
 誰もが便利な女とみなしていただろう。
 それでもね、人の役に立っているような気がしているうちは良かったのだけれど、後輩が影で私を都合のいい女と笑っているのを聞いた瞬間、他人の中で自分が道具としての価値しかないと知ったときから、会社に対する仕事の熱意は薄れていた。
 感謝して欲しいなんて思わないけれど、私にも人格があることを知っていて欲しかった。
 裏で笑われていると知っていて、誰かのためにと思えるほど、私は偽善的にもなれない人間なのだから、是か非でも会社に戻らなければならないと思うこともない。
 多分、生活に困らなければ会社が潰れたとしても、胸は痛まなかったと思う。
 私があちらに対して冷めているのは、他にも家族がいないことが起因しているだろう。
 両親は私が中三の春に事故で亡くなっている。
 私がいなくなったことに気づいてくれる家族なんていない。だから、絶対に戻らなければならないと焦る気もしないのだ。
 友人もそこまで親しい人はいない。家族を亡くしてからこちら、他人に頼るというのが私の中では極力避けるべきこととなった。
 私を引き取った親戚は、高校生になった私に「独りでも暮らしていけるだろう」と言って、自立を促した。
 親戚の家で暮らした一年、私が窮屈に感じていたことを察して気を配ってくれたのだろうと、良い方に解釈するにも難しい人たちだった。
 あの一年で、私は自分を殺すことを覚えた。「役立たず」ということを痛烈に意識し始めたのもあの頃からだ。
 雑用を人より先にこなすのも、そういった生活に培われた習慣だったのかもしれないと今にしてみれば、思えなくもない。
 仕事も表立って目立たなかったけれど、処理能力は誰よりも早かったと思う。いわゆる器用貧乏。だからこそ、他人の雑用を引き受ける余裕もあった。それを主張する性格ではなかっただけ。
 両親を失ってから、私は色々なことを諦めるということを覚えてしまった。
 人との付き合いも、相手に求めることをしなかった。
 恋愛も、そう。
 私を気に入ってくれた人がいて、その人とは三年ほど付き合ったことがある。けれど、甘えるということを私は長い一人暮らしに忘れてしまっていた。
 相手は私に甘えて欲しかったのだろう。
 私の童顔は、実年齢より頼りなさげに見えた。他人から見ると私は、苛めたくなるタイプか、庇護(ひご)したくなるタイプではなかっただろうかと思う。
 会社の皆は私を下に置くことで、自分を偉そうに見せたかったのかもしれない。あの場では、私は苛めたくなるタイプだった。
 彼との付き合いでは私は庇護したくなるタイプだったのだろう。仕事場での私を見ていた彼は、私が苛められていると勘違いしていた節がある。
 もっとも苛められたという意識は私にはない。便利に使われていただけ。
 彼は私に助けを求めて欲しかったのだろう。頼りにして欲しかったのだと思う。
 でも私は、救いを求めるほどには困っていなかったし、相談するのも馬鹿馬鹿しく感じていた。一人で問題を片づけてしまう女なんて、男の人からしてみたら、ハッキリ言って可愛げがあるとは言えない。
 結果、二人の間に温度差が生まれて、気持ちはどんどん離れていく。
 そして、私は離れて行く彼を引きとめることも、縋ることもしなかった。
 好きだったと思う。でも、心の底から愛していたかと問われると、わからない。
 大人の恋愛というより、学生の恋愛感覚だったのかもしれない。結婚とか、将来までを見越した付き合いではなかったのだと思う、私に限って言えば。
 何にしても、縋ることをよしとしなかった時点で、私は彼に対して距離を置いていたし、執着もしていなかったのだろう。
 別れた一年後、彼が別の女の子と結婚するのだと人づてに聞いても、心には何も響かなかった。
 彼と顔を合わせれば、普通に良かったね、と言って笑えた。
 相手は相当に気まずい顔をしていた。もしかしたら、ああいう場合は避けてあげた方が良かったのかな。
 そのときから、私は……ううん、それ以前から、私は「独り」で生きて、一人で死んで行くんだと、漠然と思っていた。
 一人がいいと、思えた。家族というものに縁がないのだと、諦めていた。
 彼が結婚を前提に一緒に暮らそうかと提案してきた時も、私は現実感を持てずに言葉を(にご)し、返事を保留していた。
 誰かと暮らしたりすることを想像すらできなくなっていた私には、恋をする資格なんてなかったんだろう。
 だから、あちらには誰もいない。
 私を待っている人なんていない。手を離したのは私の方。
 それを寂しいと思う自分もいないことが、何だか冷めすぎていて、笑えた。
 まるで糸が切れた(たこ)みたい。風に吹かれて、こんな異世界にまで飛んできちゃった。
 どうしようもないな、私。
 情けないようなため息が私の唇からこぼれた。


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