トップへ  本棚へ  目次へ


 03,お城の生活


「大丈夫だ、アリスの素性は俺が見つけてやるよ」
 俯いた私を慰めるように、エスクードが「任せろ」と胸を叩いた。
 彼を見上げて、「ありがとう」と私は笑う。
 見つけてくれなくてもいいんだけど、何とかしてやろうという、エスクードの気持ちが嬉しかった。
 私、こちらに来てから、この人に迷惑しか掛けていない気がするのに、どこまでも人が好い。こういうタイプの人は好きだ。安心する。元彼もこういうタイプの人だった気がする。ただ、私は彼に甘えられなかった。
 誰かに迷惑を掛けるという行為は、両親を亡くしたあの日から、私にとって禁忌だった。
 他人の領域は絶対に侵してはならないこと、何に対しても自分一人で処理することが当たり前になっていた。
 相談をするという行為が、そもそも私のなかでは「いけないこと」と組み込まれていた。
 けれど、こちらではそうはいっていられない。
 生活の基盤すら何もないのだ。言葉も通じない。
 不可抗力とは言え、迷惑を掛けていることに罪悪感を覚える私を、エスクードは愚痴(ぐち)一つ言わずに抱え込んでくれた。
 本当に感謝しても足りないくらいだろう。
「ありがとう」という言葉が伝えられないのがもどかしいけれど、返ってきた笑顔に私の感謝が伝わっているのがわかった。
 ああ、そうか、と私は思う。
 元彼が私を助けてくれようとしたその気持ちを、私は受け止め損ねていたことに気付いた。
 縋らなくても良かったんだ。甘えなくても良かったんだ。
 ただ、彼がこちらに歩み寄ろうとしてくれた気持ちを知れば、自然と言葉は出ていたのだろう。そこに在ったものを気付かないふりをして、むげにしたのは私だ。
 これじゃあ、私を道具扱いしていた会社の後輩たちのことを悪く言えない。同じことを私は元彼にしていた気がする。
 こちらのことを思ってくれた優しさを、嬉しいと受け止めるだけで、多分色々なことが変わったのだろうな。
 今さら、そんなことに気づいても遅いのだけれど、唐突に理解してしまったのは、目の前の嬉しそうな笑顔を見たからだろう。
 見ているこっちまでもが嬉しくなるような笑顔を見上げていると、
「それでアリス、もしお前の素性がハッキリして……」
 エスクードが不意に真顔に戻って私を見つめる。
 素性と言う言葉は何度も聞いたから、理解していた。けれど、ジェスチャーが見えないので、理解できないふりをする。
 小首を傾げた私に一歩距離を縮めてきたエスクードの手が伸ばされ、いつの間にか素手になっていた彼の指先が私の髪に触れた。さらりとストレートの髪が耳元で鳴る。
「……何も問題がなかったら、俺と」
 目の前にエスクードの胸があり、距離が近づきすぎているなと思ったとき、時刻を告げる鐘が十回鳴った。十時だ。この世界も、一日を二十四時間で割っている。
 鐘の音に我に返ったように、エスクードの手が離れる。彼が触れていた髪が一房、私の胸に落ちた。
「殿下がご帰還されるな」
 ため息をついて、私から視線を逸らす。それから背を向け、城へと向かう。ちょっと、その背中が寂しそうに見えるのは気のせい?
 展望塔を降りる階段へと一歩踏み出しかけて、エスクードは肩越しに私を振り返った。
「アリス、行こう」
 差し出されたエスクードの手に、自然と手のひらを重ねていた。子供じゃないんだけど、この国の男の人たちにとって貴婦人には礼儀正しく接することが、紳士の条件っていう感じだから、あえて抵抗しません。
 エスクードの手は、皮膚が硬くて、大きい。何か、頑張っていますって、主張する手だ。
 その指先が私の手を柔らかく包むのが、くすぐったい気がする。
 元彼とはこんな風に手を繋いだことがあっただろうかと、ぼんやり考えた。
 悲しいかな、覚えていない。記憶が遠い。
 本当に遠いところに来てしまったなと、ちょっとだけ実感してしまった。

      * * *

 私が身を寄せているこのお城は、皇太子さまのものだ。
 このアールギエン帝国の王様……じゃない、皇帝陛下が住まわれるお城は帝都に別にある。
 本来なら、皇太子さまもそちらに住んでいるはずだろうに、帝都から少し離れたこのお城に住んでいる――らしい。この辺り一帯は皇太子さまが成人した折に皇帝陛下から受領した領地みたいだ。いずれ、皇太子さまが皇帝になったら、今度はその息子に譲る皇家直轄領区なんだろう。
 でもそういう場合でも、皇太子さまは帝都に住んでいそうなんだけれど――エスクードみたいに領地運営は人に任せるとかして――私が詳しい事情を理解するには、この国の言語を聞き取る能力が足りない。
 もっとも皇太子さまは領地から、毎日、帝都のお城で行われる会議には出席するし、お仕事を山ほど持って帰ってくる。
 まるで会社勤めのサラリーマンのように、時間をきっちり守って出社し、帰宅する。
 ちなみにお城への出社は――ちょっと、違う? ――皇族だけが使える魔法の通路を使用してのことなので、帝都のお城とここを行き来するのは、実際には数分も掛からないらしい。
 何百キロも離れていても、離れみたいな感覚なのかもしれない。魔法で連絡もすぐに取れちゃうみたい。
 ホント、携帯電話片手に仕事しているみたいな感じ。
 エスクードは一応、護衛騎士だけれど、秘書の様な役割もしている。皇太子さまがお帰りになったら、お仕事タイム。
 そして私は、そんな二人のお世話係をさせて貰っている。まあ、お茶を入れたり、必要のない書類を片づけたりといった、あちらでしていた雑用だ。
 二人は何もしなくていいと言ってくれだけれど、私のなかに叩き込まれた「働かざる者、食うべからず」といった精神が、ただでご飯を食べさせて貰うことに抵抗を覚える。
 甘えるということができない人間なんだろう、私は。
 温めたガラス製のポットに茶葉を入れ、熱湯を注ぐ。砂時計をひっくり返して、時間を計る。葉が蒸れ、ポットの中でひろがるのを待つ。
 紅茶は茶葉の種類によって抽出時間が微妙に違う。その辺、向こうに暮らしていた頃と違うので、最初の頃は渋みを出してしまったりして、失敗したけれど、今は完璧にお湯の適温、抽出時間など頭のなかに入っている。
 もっとも、こちらに来て文化が違うなと思ったのは、紅茶を飲む習慣があっても、こちらの人たちは紅茶の味にこだわっていないことだった。ただお湯では味気ないから、茶葉を入れたという感じで、抽出時間など気にしていない。お砂糖や蜂蜜などといった甘味を入れる習慣もなかった。勿論、ミルクティーもない。
 私がこちら茶葉の種類を研究し、味に納得できる抽出時間でお茶を入れて、それを出したときのエスクードと皇太子さまの顔は見ものだった。
 以来、お茶を入れるお仕事は完全に私の役目となった。最近はハーブティーも、二人の体調に合わせて作ったりしている。
 抽出の間に私は昨日、厨房で作らせてもらったクッキーをお皿に盛った。
 十五歳から一人暮らしを始めて、十数年。料理は得意だ。お菓子作りもまあまあ。お休みの日とかはよく作った。
 ぶちまけてしまえば、休日に一緒に過ごす友人がいないので、暇つぶしに始めたことだった。
 高校に入学したときから一人暮らしを始めて、その生活に慣れるのに必死になっている間に、私は親しい友人を作るタイミングを失くしてしまっていた。
 両親が遺してくれた貯金や保険金、事故に対する慰謝料など、大学資金も一人暮らしをしていくにも十分にあったけれど、世の中、何が起こるのかわからないというのを私は両親の死によって、身につまされていた。
 高校在学中も大学に入ってからも、私はアルバイトをした。学校帰りに友達と遊びに行ったなんてこともなく、かといって、アルバイト先で誰かと仲良くなるということもなかった。
 何かしら仕事をしていないと落ち着かなかった。役立たずと言われるのが怖かった。だから、仕事をわき目も振らない形でこなしていたから、周りの人たちにとっつきにくいと感じられたのだろう。
 就職した会社でも、私はアルバイト先と同じことをしていたわけだ。
 周りの年齢層が上がり、私もまた大人になっていた分、仕事を押し付けるのに抵抗がなく、使い勝手は良かったのだろう。
 そして、ここでも、その性分から抜け出せずに、仕事を貰っている。
 ――どれだけ真面目なのよ、私。
 違う世界に来たのなら、今までとは違う自分を演じても誰にも真相なんてわからない。なのに、今までと同じ自分しか出せない。不器用が過ぎる。
 苦笑しつつ、温めておいた別のポットに、出来上がった紅茶を移して、ティーコージーを被せる。銀のトレイにティーカップなどを並べて、隣の部屋へと向かう。
 皇太子さまの執務室の脇には給湯室が用意されている時点で、何だか本当に会社みたい。
 給湯室への入り口は開けられていて、エスクードが私を待っていた。
 ドアを片手で押え、私が出入りしやすいようにしながら、蒼い瞳で「大丈夫だったか?」と、心配そうに問う。
 こちらの調理器具は、やっぱり魔法をエネルギーにしているらしい。
 最初は動かし方がわからなくて、火柱を立てたりしちゃったものだから――給湯室の天井が黒く焦げているのは、私のせいです――また同じ失敗を心配していたのだろう。
 失敗していないことはわかっているから、もしかしたら私が火炎恐怖症になっていやしないかと、考えているのかしら。
 確かに、あの火柱事件は私を驚かせたし、その後もびくびくしながら、調理器具に触れていた。
 原因は火が怖くなったわけではなく、誰かに迷惑を掛ける事態になりはしないかと、恐れていたと言った方がよいような気がする。
 今ではもうコンロもオーブンも火力調整するのも、一人で大丈夫なんだけど。
 エスクードはどこまでも心配性。
 まあ、記憶もなく、喋れない。そんな人間に安心要素を求めるのは、無理な相談だと思う。
「うん」と、私が頷くと、エスクードはホッとしたように口元を緩める。
 この人の笑顔は、甘いお菓子みたい。目の前にあると嬉しくて、手を伸ばしてしまいそう。
 甘いお菓子が大好きな少女たちはきっと、ときめくだろう。
 もっとも、もう直ぐ三十路の私は揺れないけれど。ときめかないけれど。温かいものに包まれたような安心感を覚えるのは、無視できない。
 そうしてエスクードの笑顔に見惚れていると、
「エスクード、私を差し置いて、アリスを独り占めするなよ」
 不貞腐れたような声が聞こえ、私とエスクードが二人してそちらに視線を向けると、不機嫌な顔をした皇太子、ディナスティーア・グラナード・アールギエンさまがいた。


前へ  目次へ  次へ