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 16,空翔る


 私の声にフレチャが長い首を巡らせて、こちらを振り返って来た。金褐色の瞳を見上げて、私は風上を指差す。
「あっちに皆を誘導するの。なるだけ低く飛んで、皆の視線を集めるのよ」
 竜騎士がこの国で珍重されているということは、ドラゴンもまた珍しい存在なのだろうと思った。都市から離れた森の中の集落で、ドラゴンの姿を知っている人はどれだけいるだろう?
 フレチャの姿を見て一瞬だけでもいい、火事の混乱から気を引ければ、エスクードの声が皆に届くはずだ。
 私は願うように、繰り返した。
「フレチャ、お願いよ。風上に飛んでっ!」
 この国の言葉が正確に発声できている自信はなかった。頭の中では、日本語で叫んでいる自分がいる。
「キュっ?」と、首を傾げるようにフレチャが鳴く。
「――お願い、フレチャ。エスクードを助けたいの」
 祈るように金褐色の瞳を見つめると、フレチャは首を前に向けた。私の髪が風に流れたと思ったら、ドラゴンは前傾姿勢で地上に迫っていた。
「フレチャっ! 何をっ?」
 エスクードの声が聞こえて地上を見下ろしたら、私とフレチャは地上から十メートル辺りの高さにいた。
「どうしてここに来たんだ、フレチャっ!」
 エスクードの問いかけに、フレチャが「キュー」と鳴いた。
 熱せられた風が頬を叩いて、熱い。焦げ臭い煙が喉の奥や目を刺激してくる。微かに咳き込みながら、フレチャの首の影から私はエスクードに対して顔を覗かせた。
 エスクードの怒声に周りの数人がフレチャに気づいて、茫然と立ち止まっていたけれど、まだ多くの人たちはパニックに陥って、上空の巨大な影には気づいてくれない。
「アリスっ! ここは危ないから、退くんだ。俺のことは心配いらない。フレチャ、行けっ!」
 私が彼のことを心配して、ここに来たことをフレチャから聞いたのか、エスクードが私を見上げて言って来た。
 だからって、「はい、そうですか」と引き下がれるはずがない。フレチャが「どうする?」と問うように長い首を巡らせて私を見下ろしてくる。頭を横に振って、エスクードの指示に従わないことを伝えた。
 煙は風に巻かれて上空へと逃げて行っているけれど、熱はじりじりと肌を焼く。こんなところに長くいたら、体温が上昇してとんでもないことになる。私が今いるこの位置でも、熱風に身体の奥から水分が蒸発していくのがわかる。地上に居る人たちの苦痛はこの比じゃないはず。消防車が来て、放水してくれるわけでもないのだから、いち早く逃げる必要がある。
 私だけ安全なところに逃げろと言うの? 何をどうすればいいのか、答えを知っているのにエスクードを、皆を見捨てることなんてできない。
 私はフレチャの首にしがみ付いて、祈った。
 ――お願い、フレチャ。皆を湖に導いてっ!
 その私の思念に応えるように、フレチャが喉の奥から甲高い声を響かせた。
「キュュュュュュューっ!」
 長く響くその声は、それこそ消防車のサイレンのように鼓膜をつんざく。
 混乱していたその場が一瞬、水を打ったように静寂に包まれた。幾つもの視線がフレチャに集まる。
 私は心のなかで「フレチャ、最高っ!」と喝采を上げた。
 ――風上へ皆を誘導するの!
 私は心で強く念じながら、風上へと腕を伸ばす。フレチャはその場で大きく翼をはためかせた。フレチャの生み出した風に熱が追い返される。上空から地上に叩きつけられるように冷たい空気が流れれば、人々はハッとしたように我に返った。
 そしてパニック状態にあった人たちも驚いたようにこちらを見上げてくる。
「キュー」
 フレチャが一声を吐くと、私が指示した方向へゆっくりと空を滑る。私はドラゴンの背中から後ろを振り返って、「こっちに皆を誘導して」と、エスクードに向かって大きく腕を動かして合図を送る。
 私の意図に気付いたのか、エスクードが声を張り上げて村の人たち皆に指示を出した。
「ドラゴンの後に付いて、風上に避難するんだ。ここにいたら、炎に巻かれて死ぬぞっ! 死にたくなかったら、風上に逃げろ! 大丈夫、風上の道は確保されている! 皇帝陛下にお仕えする竜騎士を信じろっ!」
 エスクードの言葉が効いた。村の人たちが地上から見た視点では、風上の道は既に塞がれているように見えていたのだろう。だけど、道が開かれているのを保証してくれた存在に、彼らの躊躇(ちゅうちょ)霧散(むさん)した。フレチャの後に続くように、村人たちが駆けてくる。
「押し合うな、親は子供の手を離さないように。体力に自信のある奴は、老人に手を貸してやってくれ。落ち着いて行動するんだ」
 エスクードが声を張り上げて一つ一つ指示を出す。冷静に響く声音は、村人たちの混乱を沈めて、さっきまでのパニックは嘘だったみたいに、誘導はスムーズだった。
 フレチャが飛んで導くのを後追いしながら一行は道を風上へと行く。途中、横手に火が迫っている部分があったけれど、そこではフレチャが旋回し横から翼を大きくはためかせ空気の渦を叩きつけるようにして、火勢を殺いだ。
 カッコいい、フレチャ!
 避難が無事に完了したのは、フレチャの尽力によるところが大きいと言って、過言ではないだろう。森を抜けて湖の湖岸に皆が逃げ延びたら、エスクードは何人かの村人を捕まえて、人員を把握させた。
「ここで待機しているんだ、直ぐに竜騎士団が駆けつけて消火活動をしてくれる。怪我した者はいないかっ? 誰か行方がわからなくなっている者はいないか、確認しろ」
 エスクードの言葉を数分と待たずに、上空を幾つもの巨大な影が横切っていく。
 矢のように飛んで行くのは、ドラゴンたちだ。多分、エスクードが魔法で連絡を取ったのだろう。
 皇太子さまが帝都とは遠く離れたお城でも滞りなくお仕事ができるのは、魔法による携帯電話顔負けの通信技術が発達しているからに他ならない。
 ドラゴンは足の鉤爪(かぎ)に大きな袋のようなものをぶら下げていた。あの袋のなかに消火用の水が入っているのだと思う。
 きっと緊急時に備えて、色々な訓練が行われていたのだろう。騎竜たちが森の上を飛び交い迅速な消火活動の結果、一騎のドラゴンが村の方から湖へとやって来て、湖岸にいたエスクードの前に一人の騎士が報告へと走って来た。
 もうその頃には空を覆っていた黒煙は薄れ、フレチャは地上に降りて、翼を休めていた。私はその背中に腰掛けて事態を見守っていたところだ。怪我人が出ているようなら治療を手伝おうかと思っていたけれど、幸いに行方不明者も怪我人も一人としていなかった。
 報告に来た青年がエスクードと会話を交わして、再びドラゴンに跨り、村の方へと飛んでいく。その姿を不安そうに見送る村人たちの注目を集めるように、エスクードは手のひらを大きく打ち鳴らした。
「消火は無事に終わった。村には被害はない」
 彼の言葉に村の人たちの間から歓声が沸き上がる。火の勢いを見ていたら、村に被害が出なかったことは奇跡のような僥倖(ぎょうこう)に違いない。
「村に帰って大丈夫だ。ただし、火事の原因を調べるので、数人の竜騎士が事情を聞いて回ると思う。その際は協力してやってくれ」
 威圧的にならないよう柔和な笑顔でエスクードは村人たちを見回す。やがて、彼は皆に背を向けて私の方へと歩み寄って来た。
 村の人たちは自分の家が本当に無事なのか確かめたいのだろう。一人、一人と湖岸から離れ、村への道を戻って行く。
「――お疲れ様、アリス。大活躍だったな?」
 少し嫌味っぽく声を響かせながらも、エスクードの目は優しかった。私の身体を上から下へと眺め回し、怪我をしていないことを確認して、そっと手を伸ばしてきた。ポンと額に手を載せて、私と視線を合わせるように身を屈める。
「アリスのおかげで助かったよ。でも、あまり無茶はしないでくれ。……心臓に悪い」
 泣き笑いのような表情のエスクードを見つめ返して、私はフッと緊張の糸が緩むのを実感した。目から意図していない涙が溢れる。
 あれ? 煙で目を痛めたときも涙なんて出なかったのに、どうして今頃……。
 私自身の戸惑いとはお構いなしに、ぽろぽろと大粒の雫が頬を転げて落ちて行く。
「あ、アリスっ?」
 焦ったようなエスクードの声が涙で曇った視界の向こうで聞こえる。私は涙を慌てて拭いながら、言い訳を考えた。
 何でもない――そう言うより先に、私はエスクードの身体に抱きついていた。ギュッと彼の身体を抱きしめて、エスクードがここに実在していることをその体温と鼓動で確かめる。
 ちゃんといる、エスクードはちゃんとここにいる。
 無事で、良かった。怪我一つなくて、良かった。
 喉の奥が嗚咽に震えた。
「……心配かけて、済まなかった」
 エスクードの手のひらが慰めるように、私の頭を撫でる。優しい声が包み込んでくれる。
「そうだな。俺ばっかりがアリスを心配していたわけじゃないんだな。――俺は大丈夫だよ、アリス」
 エスクードの手が私の頬を包み込んで、顔を上向かせた。指先が涙を拭ってくれて、視界がクリアになる。
 そっと微笑んで、綺麗な蒼い瞳が私を見つめて――唇が何かを(ささや)くように近づいてきた……と、思った瞬間、エスクードの姿が消えて、フレチャのごつごつした鼻面が私の視界を一杯に覆っていた。
 ――えっ?
 ビックリする私を前に、地面に転んだエスクードの金髪頭をフレチャの鼻先がゴツゴツと叩いている。
「うわっ、フレチャっ! お前、何か誤解しているだろっ? 怒るなっ! 俺がアリスを泣かせたわけじゃ……」
 エスクードが地面に尻餅をついた姿勢でフレチャの攻勢から頭を庇い、私を上目使いに見上げてきた。
「泣かせたわけじゃないよな?」と、問うような視線を前に私はフレチャを見上げて、困った。
 ……今、私が泣いたのは……やっぱり、エスクードのせいかな?


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