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 17,以心伝心


 気がついたら、湖岸は私とエスクードの二人きりだった。正確には、二人と一匹。
 エスクードはフレチャに頭を小突かれまくっている。その原因は、私がエスクードの無事に安堵して泣いてしまったことによるものらしい。
 彼に泣かされたのだと、勘違いしたフレチャが私の代わりにエスクードを怒っていた。
 やっぱり、泣かされたのかな……と思う。
 エスクードの存在は、私が過去に亡くしてしまった両親に匹敵するくらい、私のなかで存在が大きくなっている。
 だから、エスクードがあの火に巻かれて死んでしまうと想像しただけで、息が詰まった。身体が震え、凍えるように冷たくなった。目の前が暗くなりかけた。
 一人ぼっちになる恐怖と絶望。
 それが現実にならずに済んだ安堵。
 いつの間にか、エスクードは私のなかに大切な存在として根付いていた。ぐちゃぐちゃに私の感情を掻き乱すほどに、彼の存在は大きい。
 それはこの世界において、頼れる存在がエスクードだけだから? そうだとしたら、私は本当に子供みたい。
 何となく泣いてしまったことが面映ゆくて、私は鏡のように銀色に煌めく湖面に目をやった。岸辺に佇む自分の姿に目を落として、私はギョッと目を()いた。火事の(すす)で肌は黒ずんでいた。そうしたところへ泣いたんだもの、顔にくっきりと黒い線が描かれている。
 何だか滑稽なメイクをしたピエロみたいだ。幾らなんでも、これは酷い。ポケットから慌ててハンカチを引っ張り出して、顔の煤を拭いながら思う。
 さっき、エスクードが唇を近付けてきたのは、この汚れた顔のことを内緒で教えてくれようとしたからなのだろう。まだ、周りには人の目があったから。
 実は一瞬、キスされそうと思った。
 ……はなはだ、勘違いもいいところだ。大体、どうしてそんな勘違いを私はしたのだろう?
 眉間に皺を寄せていると、フレチャと和解したらしいエスクードが近づいて来て、長身の身体をくの字に折り、私の顔を横から覗き込んできた。
 エスクードの顔も気づけば煤で汚れていた。それでも端正な顔立ちは精悍で、ハンサムだ。ちょっとズルイなと思う。だって、ドキドキしちゃうんだもの。
 彼より私の方が三つも年上のはずなのに――落ち着かない。
「フレチャはすっかりアリスの保護者気取りだな」
 少しムッとしたように、エスクードが唇を尖らせた。これは拗ねているのかな? 自分の騎竜が私の命令に従って動いたこと? それとも私の保護者的立場をフレチャに奪われたこと? どちらに対しても何だか子供っぽい。
 私がフレチャを振り返ると、ドラゴンは私の視線に気がついて楽しげに尻尾を振った。
 エスクードの機嫌を損ねるのは得策じゃないけれど、フレチャに懐かれるのは悪い気はしない。だって、可愛いんだもの。
「キュー」と、フレチャが鳴いた。
 私は笑いながら小さく手を振って返した。
 そして、エスクードに目線を戻しながら「フレチャはとてもいい子ね」と、ジェスチャーで会話した。
「ああ、あそこまで人間に懐いてくれるドラゴンは珍しいよ」
 自分の騎竜が褒められたのが満更でもないのか、エスクードは目を細めて笑顔を作った。優しい笑顔だ。フレチャのことをすごく大切な仲間のように感じているんだろう。
 さっきの嫉妬は、前者だろう。本当に仲がいいな、羨ましい。
「そうなの?」
 首を傾げれば、エスクードが重々しく頷いた。
「本来、ドラゴンは自由な生き物なんだ。飼い馴らすことが難しいから、普通は契約するんだ」
「……契約?」
 手提げからメモ帳を取り出して確認しながら、エスクードの話を聞く。
「まあ、魔法で意思の疎通を図る、自分の配下に置くと言った方が早いか」
 本当に、ドラゴンと会話しているんだ。私は驚きに目を瞬かせた。
 魔法が使えると、異種族でも会話ができるなら、私の言語も魔法でどうにかすれば、皆と会話できるかも……。
 そう思ったけれど、根本的に私が異世界から来た人間だってことをエスクードたちに説明するのが難しいことを思い出した。
 私は単純に記憶障害から言語が理解出来ず、喋れないということになっている。こちらの世界の人間じゃないとは、誰も考えていないだろう。
 それに喋れない――声が出せないと思っている相手に、喋らせようと無理強いする人たちじゃない。
 結局、私がついた嘘を白状しないことには、一歩も進展しない。
 口を閉ざすしかない私にエスクードは説明を続けた。
「竜騎士はそう言った意味で、ドラゴンを従えるだけの魔力を持っていなければならないんだ。上級魔術師レベルかな?」
 だから騎士の中でも竜騎士はワンランク上なのか。凄いんだと感心しちゃうんだけど、あっさりとしたその口調に寄れば、エスクードは自分の能力にあまりこだわっていないらしい。
「エスクードも魔法が使えるの? それで、フレチャを従えているの」
 私が手の動きで問いかければ、エスクードは首を横に振った。
「いや、フレチャとは契約していない。不思議と魔法を使わなくても、こちらの言いたいことが伝わるし、フレチャが何を言いたいのかわかる。それはフレチャが俺を信頼して、心を開いてくれているからなんだ。そんな風に人間に懐くドラゴンは珍しいんだよ」
 契約を交わさずに信頼関係を結んでいるんだ。それは魔法を使うよりも凄いことよね、きっと。
「凄いのね」
 感心したような顔で見つめたら、
「アリスもそうだろう」
 と、笑って返された。
「えっ?」
 ぱちぱちと睫毛を瞬かせて、キョトンとなる。
「フレチャと会話したんだろ? でなければ、あの活躍はないよ」
「でも、私は喋れない」
 私はメモ帳にそう文字を記した。
 確かにあの火事の混乱の場で、私はフレチャに話しかけた。けれどそれは殆ど日本語だった。フレチャが日本語を理解したというの? それはちょっと考えられない。
「いや、実際に喋る云々は関係ない。そうだな、このジェスチャーにしても伝わるときと伝わらないときがあるだろう?」
 首を傾げるような動きを見せながら、エスクードは伝えようとする動きに合わせて言葉を紡ぐ。言おうとしていることがわかったので「うん」と、私は頷いた。
「ドラゴンと意思の疎通を図るのも、似たようなものだ。ジェスチャーみたいなものだよ。言葉ではなく、互いの思考を認識し合う。この共通する認識が一致していないと、伝わらない」
 首を傾げる仕草は「疑問や理解不能」という認識が、私とエスクードの間で成立しているから、ジェスチャーで会話が成り立つ。
 なるほど。
 エスクードを助けたいという、私とフレチャの意識が一致したから、会話が成立した――実際には成立していないのかもしれないけれど、行動が成された。
 何かを思って、行動が成立した時点で「ドラゴンと会話」したことになるのなら、確かに会話したのだろう。
「相性の問題だ。殆ど、それが成立しないから、魔法で契約をするんだ。そうしてやっと、意思を交わす」
 ということは、私とフレチャは相性がいいということかな。それはとっても、嬉しい。
 きっと、エスクードが好きだという共通意識が、私とフレチャの間を言語ではなく気持ちで繋いでくれたのだろう。
 口元が緩むのを自覚する私をじっと蒼い瞳が見つめているのに気づいた。
 真っ直ぐな瞳はやけに熱っぽく感じる。身体の奥に侵入してくるような視線に、私の胸の内側がざわめく。
 な、何だろう? 変な顔をしていたのかしら?
 表情を引き締める私を前に、エスクードは小さくため息を吐いた。
「…………?」
 どうしたんだろうと、首を傾げれば、
「俺とアリスも相性が良ければ、言葉が通じるかと思ったんだが……。やっぱり伝わらないみたいだな?」
 エスクードは苦笑して言った。
 ぼそりと、
「殿下にはわかりやすいと言われているんだが」
 そう呟きながら。
 私がエスクードともっと話せたらと思っているように、彼もそう考えてくれたのだろうか。じわじわと胸の内側が熱くなる。
 その熱が頬に上り始めたとき、「騎士様ー」と高い声が私たちの間に割り込んできた。
 声の方向をみると、十歳くらいの子供がこちらへと駆けて来る。そうして、私たちの前に立つと抱えていたバスケットをこちらへと差し出してきた。
 バスケットのなかには、大きくて平べったいパンが三つ入っていた。焼きあげてからまだそんなに時間が立っていないんだろう。香ばしいバターの香りが鼻腔をくすぐって、私の食欲を刺激した。
 そういえば、朝ご飯を食べていない。
 空腹を覚える私に向かって、子供はついとバスケットを突き出す。私は反射的に受け取りながら、エスクードに「これはどうしたらいいんだろう?」と問う。
 エスクードも困惑気味の顔つきで、子供に問う。
「これは?」
「母さんが持って行けって。騎士様へのお礼です。村を助けてくれて、ありがとうっ!」
 白い歯をこぼしながら子供は私に向かって笑いかけてきた。
「そうか、ありがとう」
 エスクードが礼を言う。私も笑い返せば、子供は大きく首を頷かせた。それから村への道へと戻りながら、こちらに大きく腕を振って叫んだ。
「本当にありがとう、騎士様っ! お兄ちゃんも!」
 …………ん? ……あ、あれ?
 小さくなっていく子供の背中を見送っていたエスクードが、堪え切れないように笑い出した。
「どうやらアリスの方が竜騎士に見えたみたいだな?」
 片目を瞑って、楽しげに声を弾ませた。


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