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 18,願い


 村の子供から貰ったパンを私とエスクード、それからフレチャの二人と一匹で分け合って食べた。
 お城で食べるパンとは違って、少し色が黒く舌先がざらつく。小麦粉がそんなに上質ではないんだろう。けれど、適度な塩味と空腹が何よりも調味料となって、美味しく感じた。
 緊張がほぐれたせいもあるかもしれない。普段の自分じゃ考えられない食欲に突き動かされ、もぐもぐと口を動かす。
 そんな私をエスクードが笑って見つめているのを察知して、何だか本当に私って色気がないなと思わなくもなかった。
 ……っていうか、何を今さら色気なんて気にしているのかしら?
 そういう女らしさを気にするのは、とうの昔に捨てたはずなのに。
 さっきも煤に汚れた顔に慌ててしまった。まあ、あれは滑稽(こっけい)すぎたから……気にして当然だろう。うん――できれば、エスクードの記憶から、あの顔の私を抹消したいけれど……出来ない相談よね。
 もぐもぐもぐ。
 失態を深く考えるのが嫌で、私は食べることに集中することにした。
 もぐもぐもぐ。
 今の私は一心不乱に向日葵の種を頬張っているハムスターのように見えるだろう。本当に、色気とかなくてゴメンね!
「パン(くず)が口元についているぞ、アリス」
 エスクードの指先が不意に私の唇の端をかすめていった。その指が彼の舌に触れるのを見て、私は耳が熱くなるのを実感した。
 き、気にするな――。
 私は動揺を必死に隠す。エスクードは何も気にしていないんだから、私が気にするのはおかしい。
 何か、間接キスっぽいとか……そんなの十代じゃあるまいし。クールな二十九歳は、そんなことに動揺なんてしないの。そう自分を落ち着かせる。
 お腹を膨らせた後、私たちはお城へと帰還した。
 パトロールが終わったときにエスクードが降り立つ展望塔に、先日の私のように人影が立っているのが見えた。
 距離があるから誰だかわからない。誰だろう? その人物を見極めようとする間も置かず、塔の上で滞空したフレチャの背から、エスクードは私の腰を抱くと空に踊りだした。
 躊躇(ちゅうちょ)なく、十五、六メートルの高さを飛び降りる。
 ――何やってんの、この人っ!
 フレチャのアクロバット飛行も驚かされたけれど、エスクードもその比じゃない。
 彼にしてみればいつもと同じことなんだろうけれど、私は空から降ってこちらの世界に迷い込んじゃったし、「蒼天の君」なんて呼ばれているけれど、空を飛ぶことに耐性があるわけじゃないのよ。
 喉の奥からこぼれそうになる悲鳴を必死に呑みこんで、太もも辺りまでめくれあがったスカートを慌てて抑える。
 トンと、ボールが弾むようにエスクードは軽やかに着地した。私もそっと地面に下ろされる。ふわりと舞い上がったスカートの裾が、花びらが閉じるように足元を包み込んで、しぼむ。
 顔を上げると、そこには皇太子さまがいた。私と目が合うと、爽やかな眩しい笑顔で清々しく笑う。
「よいものを見せて貰った。礼を言うぞ、アリス!」
 実に上機嫌な皇太子さまの声に、私は眩暈(めまい)を覚えた。
 見られた? スカートの中身、見られたっ?
 色気は気にしなくなっても、一応女子として恥じらいは持っている。パンツを見られたかもしれないという衝撃は大きい。
 というか、二十九歳にもなってパンツに騒いでいる自分もどうかと思わなくもないけれど……やっぱり、騒ぐわよね?
「――殿下っ!」
 エスクードは私を背後に庇いながら、皇太子さまを睨みつけた。
「帰って来たな。報告を聞こう」
 皇太子さまはエスクードの怒気を軽く受け流して、キリっと表情を改めた。
 竜騎士たちの出動に対して、事情は皇太子さまの耳にも入ったのだろう。だから、ここでエスクードの帰りを待っていたのかな。心配していたのかもしれない。
「…………」
 エスクードは半眼で皇太子さまを見据えた。話を逸らされた気がしているんだろう。実際、私としても……スカートの中身を見る前に目を塞ぐことは出来たのではないかと、抗議したいけれど。
 話を蒸し返すのも、ちょっと恥ずかしい。
 第一に、いきなり飛び降りたエスクードに責任がないとは言えないだろう。エスクードもそこに思考が至ったのか、ため息をついて、空を見上げた。私もつられて空を仰ぎ、巨大なドラゴンの影を見上げる。
「フレチャ、厩舎に帰っていいぞっ!」
 その声に「キュキュキュー」とフレチャが鳴く。金褐色の瞳が私を見据えて、尻尾をゆらゆらと揺らした。
「バイバイ、またね」と言っているみたいで、私は笑顔で小さく手を振る。
「また一緒に空を飛ぼうと、フレチャがアリスを誘ってた」
 エスクードの言葉に私は頷いた。うん、そう聞こえた。おお、何だか本当に会話が出来ている気がする。嬉しいな。
 エスクードがニコニコと笑ってくれるから、私もニッコリと笑って返した。互いの顔を見合わせて、笑い合っていると不機嫌な声が割り込む。
「そこ、二人の世界を作るな。一人で寂しいではないか、いじけるぞ」
 皇太子さまが縋る様な切実な眼差しを向けてくる。私としても、ちょっと罪悪感を覚えてしまうくらいの寂しげな顔だった。エスクードは意地悪する気も失せたらしい。
「しょうがないですね、仲間に入れて上げましょう」と、森の火事を報告した。
 エスクードの説明には、私の活躍が色を添えて語られた。
 村の子供に私が竜騎士に間違われたエピソードまで報告するに従い、私は背筋に冷や汗をかく。エスクードったら、何もそんなところまで話さなくてもいいのに。
 エスクードの報告は多少のジェスチャーが添えられたものの、基本的には皇太子さまへの報告に終始していたために、二人の感覚からすれば私としては会話の半分ぐらいしか理解できていないことになる。
 だから、私としても表情に気を使う。
 思わず顔を覆いたくなるような恥ずかしさや、背筋がこそばゆくなるような賛辞に反応するわけにはいかない。
 ――クールに、クールに。私は何も聞いていません!
 素知らぬふりをするのが、こんなに大変だとは思わなかった。
 会社で後輩が私を笑っていたのを聞いてしまったときは、膝が震えるような何とも言えない感覚に見舞われたけれど、表情を取り繕うことに苦労はしなかった。顔から表情が消えていたんだ。
 作り笑いで応えることに、私は慣れていた。それに疑問を覚えることもなかった。でも今は、身体の内側から感情が溢れて、表情を取り繕うのに苦労する。
「アリス」
 呼ばれた声に顔を上げると目の前に皇太子さまが立った。あっと思う間もなく、私の手を取ると言った。
「我が帝国の民を救ってくれて、礼を言うぞ! ありがとう!」
 ぎゅっと抱きしめられて、頬にキスされた。これは感謝のキスですかっ?
 皇太子さまは私の身体を引き剥がすと、戸惑う私の顔を満面の笑みで覗いてくる。
「アリス、欲しいものはないかっ? 何か褒美を取らせなければ、私の気が済まぬぞ!」
 熱烈な視線と共にお礼を言われて、目を丸くする私にエスクードがジェスチャーで翻訳してくれるけれど……。
 私は皇太子さまに、慌てて首を横に振った。
「そんな、お礼を言って貰うようなことじゃないですっ!」
 そう身体全体を動かし、目で訴えた。
 ただ私はエスクードを助けたかっただけ。本当に村の人たちを助けようとしたのはエスクードの方だ。
 私がエスクードを助けたいと思った声をフレチャが聞きとってくれたから、大活躍したように見えるけれど。
 私は私が出来ることをしたに過ぎない。それはこの世界に来る前も今も変わらない。そのことで誰かにお礼を言われたことなんてない。
 だって私は……。
 功績を称える皇太子さまに、私は戸惑ってエスクードを振り返った。
 ねぇ、いいの? 私、そんなに特別なことをしたつもりはないのに。
 心の声が――困惑が顔に現われていたのだろうか、エスクードは小さく頷いた。
 私の手を握ったままでいる皇太子さまの手を指先でつまんで払いのけながら、
「アリスの無茶に俺の肝が冷えたのは事実だが、アリスが村を救ってくれたのも本当だ。胸を張っていい。そういえば、俺はアリスに礼を言っていなかったな?」
 エスクードは小首を傾げた後、そっと微笑んだ。
「アリス、俺からも礼を言わせてくれ。村を助けてくれてありがとう」
 エスクードの声が私の胸の内側に染み込んできて、思わず泣き出しそうになった。
 役立たずと言われるのが怖くて、ひたすら周りに気を使い走り回って来た。そうして雑用に走って、疲れ果てたとしても誰も労ってはくれなかった。
 それがあちらの世界では当然だった。当たり前だと思われていた。
 私は便利な道具だったから。
 でも、エスクードと皇太子さまは私の働きを認めてくれた。
 何も特別なことをしたつもりはない――それでも、私を労ってくれた。私を心配してくれた。
 それが堪らなく嬉しかった。二人のなかには私は一個の人間として認識されている。最初はアリスエールの代わりかと思ったけれど、違う。違うと思える。
 胸の奥から湧き上がって来る感情に、私は震えそうになる。
 ああ、誰かに叫びたい。訴えたかった。
 私、ここにいたい。この人たちのために、役に立ちたい。
 あちらではなく、この世界で生きたい――と。
 心の底から願ったの。


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