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 25,謁見


 皇太子さまは舞踏会が始まってから、遅れて参加するつもりのようだった。真打ちは最後に登場するものだとか言っては、エスクードに、
「単に、皇妃さまに掴まりたくないだけでしょう」
 と、突っ込まれていたけれど。
 宵が本格的になり始めたなかで宮殿は篝火によって照らし出されていた。本来白い色をしているだろう壁は淡い金色に輝き、揺らめく炎の影が幻想的な波を作り出していた。
 大理石の出入り口に、私たちが乗った馬車がつける。
 先に車寄せに降りていたエスクードが馬車のドアを開けて声をかけてくる。
「――アリス」
 差し出された手を借りて馬車のステップを降りると、皇太子さまも続けて降りてきて、エスクードの手をぴしゃりと叩いた。
「だから今宵、アリスのパートナーは私だと言っているだろう? 何故、二人して私を無視する」
「……無視するなど」
 そんなことはしていないよな? と、エスクードは問うように私と目を見合わせた。
「そこ、目で会話するな。私を除け者にするな。本気で拗ねるぞ?」
 皇太子さまの顔に悲壮感が広がるのを見て、
「子供染みた脅迫は止めてください」
 エスクードは僅かに片眉をひそめて、皇太子さまを見返した。皇太子さまは、ふんと、鼻を鳴らして私の方に腕を差し出してきた。
「参ろうか、アリス?」
 私は喉の奥でごくりと小さく息を呑んで、皇太子さまのエスコートに従って歩く。数歩下がった位置からエスクードが続いた。
 宝石が縫い込まれたハイヒールで一歩踏み出せば、白絹に銀糸で緻密(ちみつ)な花模様が縫い込まれたドレスは動きに合わせて、月光のように光りをまき散らした。
 舞踏会用に仕立てられたドレスは、皇太子さまやエスクードの相談で提示された大胆なドレスではなかったので、私はホッと胸を撫でおろしていた。きっとレーナさんたちが、常識に基づいたドレスデザインに変えてくれたのだろう。
 スカートは二枚重ねで上のスカートは白のチュールで仕立てられ、左の腰の位置から切り込みが入り、ゆったりとした襞を作りながら左右に大きく開いていた。開いた部分から覗く下のスカートには薄紅の糸で小さな薔薇が刺しゅうされていて、お花畑のように花が咲き乱れている。花畑の中には白いレースがリボン結びで飾られ、中央を真珠で縫い止めている。まるで花の蜜を吸う蝶のよう。動くたびにリボンの影がひらひらと揺れて、本物の蝶が羽をはばたかせているかのように見える細工だ。
 腰の後ろにも大きなリボンがあしらわれているドレスを最初に見たとき、何だか大きな花束を逆さにした印象を受けたものだ。
 首にはダイヤモンドのチョーカー。耳元には薔薇の花をイメージしたピンク色の石で作られたイヤリング。手首には真珠のブレスレットに、指にはエスクードが貸してくれたお守りの指輪。
 私は左手の薬指の指輪を見つめて、不安から縮こまりかけていた背筋を伸ばした。
 ……大丈夫、衣装だけは間違いなく一級品だ。人の目が集まったところで臆することはない。
 私は緊張に震えそうになる自分に、そう言い聞かせる。
 問題は中身だけれど……。まあ、アリスエールとよく似た顔立ちは……多分、割と好意的に受け入れて貰えるんじゃないかしら?
 私は必死に不安材料を打ち消す。息を吸って、吐いて。どうせ私は言葉が理解できていないのだから、皇太子さまの隣で適当に笑っていよう!
 そうよ、後は皇太子さまとエスクードが適当にフォローしてくれるはずだ。巻き込んだのは皇太子さまなんだもの、それくらいしてくれて当然よね?
 舞踏会の会場となる大広間までの道のりは、長かったようにも短かったようにも思える。
 高い天井に施された細密画。幾つものクリスタルが蝋燭(ろうそく)の光を反射させるシャンデリア。要所、要所に置かれた花瓶からこぼれる花々。ダマスク織のテーブルクロスが敷かれた卓の上、銀の食器や色鮮やかな陶磁器の器に盛られた瑞々しいフルーツの盛り合わせや料理。スープが入れられているだろう器は、白地に金箔が額の様に縁取り、中には薔薇の花の繊細な絵付けが施されている。
 給仕している人たちの制服や舞踏会に招かれた人たちの盛装が行き交う大広間は、沢山の色が氾濫して一瞬、眩暈(めまい)を覚えた。
 既に舞踏会は始まって、人々は踊りを楽しんでいた。華やかなドレスが流れてくる音楽に合わせて、裾を揺らしていた。壁に添うように置かれた椅子でお喋りを楽しむ紳士淑女もいる。
 だけど、皇太子さまの登場に気づいた人が動きを止めると、波が引くように音が遠のいていく。
 同時にこちらに幾つもの視線が集まるのを感じた。令嬢たちが片手にした扇の陰から私を無遠慮に眺めているのがわかる。
 気づかないふり、気づかないふり。冷静に、落ち着いて……。
 私は頬が引きつるのを実感しつつ、無表情にならないよう気を付ける。
 今回、この舞踏会の主役が皇太子さまであることは誰もが知っているところだろう。何しろ、目的は皇太子さまの花嫁探しだというのだから。そして、この場の女性の半分は自分が皇太子さまの花嫁に選ばれることを夢見て集まっているに違いない。
 自分が収まるべき立ち位置に、自分じゃない女がいたら、それは気になるだろう。視線の刺々しさは仕方ない。
 場の雰囲気を察してか、楽団が奏でる音も止まった。
 その中で、皇太子さまは堂々と歩みを進めて、奥の座に向かう。私としてはただついて行くしかない。
「ようやくお出ましですか。もう、顔を見せないのかと思っていましたよ」
 柔らかな女性の声が真向かいから、届いた。上座に据え付けられた椅子は玉座だろうか。五十代前後と思しき、男性と女性が座っていた。間違いなく、皇帝陛下と皇妃さまだろう。
 私は教えられていたことを思い出して、腰を落とし、顔を伏せた。エスクードも後ろで片膝をついて、頭を垂れる。
 高貴な方々がいる場では、許しを得るまで顔を上げてはならないらしい。
「顔を出さねば、私の恥ずかしい秘密をばらすと脅しておいて、何をおっしゃいますやら」
 皇太子さまは皮肉ともとれる声を響かせながら、言葉を返す。
 周囲は私たちと一定の距離を置いて、こちらを静かに見守っている。雑音は人々の呼気とドレスの僅かな衣擦れの音だけとなった大広間で、皇太子さまの声は特に響かせたわけでもないのに、朗々と聞こえた。
「今宵はお招きくださりありがとうございます。父上、母上、かねてよりお二方に――いえ、皆の者に紹介したいと思っておりました者がいましたので、よい機会でした」
 皇太子さまが私の肩に手を置いて、「顔を上げなさい、アリス」と促した。
 私が静々と顔を上げると、玉座にある貴婦人の姿が目に映る。皇太子さまは一見した感じでは、ご両親のどちらにも似ていない。皇妃さまは栗色の髪の、ちょっと肉付きが良い、おばさまといった印象を受けた。人好きしそうな瞳が好奇心もあらわに、皺の寄った目尻の奥から私を見つめる。
 そこには戸惑いと言ったものが見えなくて、私の方が逆に戸惑いを覚えそうだった。
 だって、皇妃さまは皇太子さまの花嫁探しを目的としているのだから、私の存在を煙たがるものだと思っていたのに……。
「そちらのご令嬢はどなたかしら?」
「仮の名を、アスール・シエロと申します」
「アスール・シエロ。――蒼天という意味だな。仮名とは?」
 若干しわがれた声が問う。皇帝陛下だ。失礼にならない程度に視線を向けると、丸顔の好々爺といった感じのおじさまが、こちらもまた私を興味深そうに見つめていた。
 二人とも、ふっくらしているので、痩身の皇太子さまと似ているところが見つからない。ただ、皇帝陛下の深紅の瞳の色は同じだった。
「素性は残念ながら、記憶を失っておりますので答えられません。名も失っております。先天性か、後天性かもわかりかねますが、この国の言語を理解できないようです」
「それは、また難儀なこと。何があったのです?」
 気の毒がっているような色を浮かべた皇妃さまの問いに、皇太子さまは首を横に振った。
「それすらわかりません。しかし、私が彼女の身を預かり、この一年。傍に置いていましたが、品行は方正、礼儀も正しく、城内の者たちにも慕われております。言語の問題は書き文字に対しては、読解は可能です。既に聞き及んでおられるかと思いますが、先日、ヴァジェト領で起こった森林火災で、村人が怪我一つ負うことなく助かったのは、アスール・シエロの活躍があってのこと」
「ほう」
 皇帝陛下の口から感心したような声が漏れて、私は背筋がこそばゆくなった。そうして、言い訳したくなった。村が無事だったのは、エスクードが迅速に動いた――魔法で他の竜騎士たちに消火活動を要請したからだし、フレチャが私の声に応えてくれたからだ。
 やっぱり、何度考えても私が活躍したようには思えない……。
 それが皇太子さまの口から語られて驚きに目を瞬かせそうになるけれど、私は言葉がわからないことになっているのだから、反応しちゃ駄目だ。
「ですが、素性が明らかではない以上、アスール・シエロの功績はどこにも出せないままで終わるでしょう」
「……それはつまり?」
「皇帝陛下の慈悲にて、アスール・シエロをこの国の民とお認めください。それを彼女への褒美として、名誉をお与え頂きたい」
 ……これはどういうことなんだろう?
 私をこの国の人間と認める――要するに、記憶を失った人間としてではなく、アスール・シエロという一個の存在を確立するということよね?
 あれ? 皇太子さまもエスクードも、舞踏会で私の素性に関わる情報を集めるつもりだったんじゃなかった? そんなものは一つも見つからないことは受け合うけれど、それは皇太子さまもエスクードも知らないことだ。
 この話の流れだと、私の素性云々は関係がなくなってくる。
 ……いいのかな?
 私を一人前と認めさせることで、皇太子さまは他の令嬢からの秋波(しゅうは)を私という楯で防ごうとか?
 皇帝陛下直々に認められたら……まあ、皇太子さまのパートナーである私を他の人たちは無下にできないだろうけれど。もしかして、そこまで企んで?
 でもそれは皇妃さまが皇太子さまに花嫁候補を紹介する企みの邪魔になるから、賛成されるわけがないと思う。
 疑心暗鬼に囚われている私の耳に、皇妃さまが皇帝陛下の方に身を乗り出して言った。
「陛下、この子がここまで言うのですから、良いのではありませんか。功績ある者を讃えるのに問題はないでしょう?」
 ……あれ? 何だか、つじつまが合わない気がするんだけど。
「ふむ、確かに民を助けてくれた功労者に褒美を与えぬのでは、問題があろう。時に、そなたが責任を持って後見するのであろうな」
「はい、父上。アスール・シエロには今後も我が城の一員として預かるつもりです。それを皆、望んでおります」
 ちらりと皇太子さまの視線が私を通り越して、エスクードに向けられた気がした。皇帝陛下はそれを受けて、頷いた。
「では、良かろう。アスール・シエロを帝国の一員と、ここに迎え入れよう」
 思ってもいなかった展開に驚いていると、皇太子さまの瞳は「してやったり」と言いたげな色を浮かべて、私とエスクードを振り返り、にやりと笑った。
 ……どういうこと?


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