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蒼天の君・番外編
お題提供・色彩の綾


 幸せをあなたに

 ― 前編 ―


 茜色が窓ガラスの向こうの空を染める夕刻、時を告げる鐘の音が耳に届く。六つの音は、その日の職務を終える合図で、エスクードはゆっくりと顔を上げた。
「――終わりますか」
 職務机に付いて、書類の確認をしている皇太子に声を掛ける。
 チラリと紅い瞳がこちらに返り、それから机の上に戻る。
 エスクードは自分の席を立って、皇太子の方に近づき、机の上を覗いた。書類箱やペン立て、インク壺などが並んだ皇太子の机上は、エスクードの席からは直接見えない位置にあった。
 今現在、皇太子はせわしなくペンを動かしているように見えて、机の上には何も書類が載っていない。羽ペンは空を踊り、ありもしない紙の上を行き来していた。
 いつから、この人はこんなあほな真似をしていたのか……。
 エスクードは眉間に皺が寄りそうになるのを堪えながら、それでも声を若干、低めに吐き出して皇太子に問いかけた。
「……何をやっているんですか、殿下」
「見てわからぬか」
 秀麗な美貌に頬杖をついて、皇太子はつまらなそうに、ペン先で机をコツコツと小突いた。
「お仕事を成されていないのだけは確かですね」
 エスクードは素早く机上を観察した。
 傍らに置いた書箱には既に、サインを終えた書類がおさまっている。今日、目を通して片付けるべきものはどうやらとっくの昔に終わっていたようだ。
 時折、人をからかって軽薄に映ることもままあるが、皇太子としての立場を忘れるような真似はしない。職務には実直だ。婚約者を亡くして、社交界からは遠ざかっていたが、宮廷での会議には毎日律義に出席していたくらいである。彼の処理能力を考えれば、今日の仕事は数時間前に終わっていて良かったのだ。
 ――潰された……。
 エスクードは苦く、その事実を噛み締める。
 貴重な時間を潰されてしまった。
「ふむ、なかなか鋭いな」
 感心したような声を吐く皇太子にエスクードは溜息をこぼした。彼に仕えてもう何年にもなるので今現在、主がどういう魂胆を腹に抱えているのかわかる。
「見たままを言っただけです。とりあえず、仕事は終わったようなので、帰らせて頂きます」
「待て、エスクード」
 部屋を出て行きかけたエスクードを皇太子が慌てて呼び止める。彼としてはこんなにすんなり帰られたくないのだということは、エスクードにはわかりすぎていた。
 今までなら、エスクードの帰る場所はこの城だった。しかし、ひと月ばかり前から、エスクードは実家のフシール家に毎日、帰宅している。仕事時間が過ぎても付き合ってくれた遊び相手が――そういうと語弊があるだろうが――帰ってしまうのが、皇太子はつまらなくて拗ねているのだろう。
 説教でも、何でも、構って欲しいようだ。寂しがり屋なので、適度に構えと出会ったばかりの頃、皇太子はエスクードに向かって外聞も気にせず言っていたが……。
 ――時々、本当に面倒臭いな、この人は……。
 思わず、本音がこぼれそうになるのをエスクードは喉の奥でギリギリ堪えた。
 婚約者であるアリスエールが生きていた頃なら、エスクードの方がていよく厄介払いされていただろう。しかし今は、彼の時間を潰してくれる人間はエスクードしかいない。
 いや、最近は昔のように創作意欲を取り戻して、アトリエにこもる時間が増えてきたようだった。恐らく、取りかかっていたものがひと段落ついたのか。どんな絵を描いたのか気になるところであるが、そのうち彼の方から見せてくれるだろうときまで、待つつもりだ。
 何にしても、持て余した時間を殿下が自分相手に潰そうとしたのが、たまたま今日のことだったのかもしれない。
 それでも、予告もなくこういう真似をされると、頭に来るのはエスクードとしては家に帰れば家に帰ったで、色々と忙しいせいもある。
 アリスとの結婚式の準備など、そう、色々と片づけなければならないことが多々あった。
 結婚すれば、アリスと過ごせる時間が持てると思ったのも束の間――そこにたどり着くまでに片付けなければならない雑務に、エスクードとアリスは忙殺されそうだった。
 二人で相談した結果、結婚は書類手続きをした後、皆に報告するだけの控え目なものにしようと結論を出した。
 世間体にもエスパーダが起こした事件があったし、アリス自身がこの世界の住人ではない。
 式をするにあたっても、彼女側の列席者がいないのだ。エスクードは両親や身近な親族に彼女を紹介し、後は手紙で報告すればいいと思っていたが、皇太子を始めとして城の人間がそれを許さなかった。
 いつの間にか、アリスは城内の間で注目されていた。
 アリスエールの喪失に沈んでいた城内に突如として現われた彼女が、亡きアリスエールの面影を映していたこともあっただろう。
 だけどアリスは、アリスエールの存在を知らなかったことと遠慮深い性格から、周りの人間たちの傷を無遠慮に暴くこともなく、言葉も通じず不自由さを感じているだろうに、それを見せることなく、それでいて居候として甘えることなく、ただひた向きに自分が出来ることを探して城内を働きまわっていた。
 雑巾片手に掃除を手伝ったり、厨房で珍しい料理や菓子を作ったりして、この場に馴染んで行った。
 その自然体で、皇太子の心の傷に触れることを恐れた城内の者たちの緊張を、アリスが解かしてくれた。そのことに恩義を感じているのはエスクード一人だけではない。
 この城に、アリスエールが生きていた頃の明るさを取り戻してくれたアリスに、皆が感謝していた。
 アリス本人は、何かをしたという意識はないだろう。だけど、アリスがこの城に来てくれたことで様々な変化が起こった。
 エスクードとしても、アリスに惹かれ、彼女を妻に迎える現在に至ったことも、奇跡のように思える。
 違う世界から来たのだと教えられたとき、出会えなかった可能性を考えてぞっとした。彼女を元の世界に還さなければならないかもしれないと思うと、焦燥感に駆られた。
 それでも彼女の意思を踏みにじって、ここに留めて置くことなど出来ない。選択肢をアリスに預ければ、彼女はこの世界で生きて行くことを選んでくれた。
 想いを伝えあって、ようやく二人で――と、思えば……。
 結婚式は一生の思い出になるものだからと、皇太子を始め城の者たちが取り仕切り始めた。ここが恩返しの機会だと感じているのだろう。
 友人たちによる手作りのドレスやヴェールは、花嫁の幸せを約束してくれるという謂れがある。
 レーナを始めとする城の女官たちが、アリスのためにとびっきりの花嫁衣装を用意する――というのは、エスクードとしても異存はない。
 ただ、そのドレス作りのためにアリスが連れ去られたり、引退して田舎に引っ込んだ両親が出てきてはアリスを気に入り、親戚縁者たちに紹介するのだと、あちらこちらへと連れ回したり、と。
 書類上の手続きは済ませた新婚夫婦が仲睦まじく過ごすはずの時間は、一日のうち何故か指を折って数える程しかない。朝と夕、実家からこの城へと移動するくらいか。
 皇太子のお茶係と正式に任務を請け負ったアリスだが、結婚式の準備があるからと女官たちに連れ去られても、「それはしょうがないな」と、皇太子が言ってしまえば、エスクードとしても不満は言えない。
 一応、アリスが城に日参しているのは仕事のためだ。雇い主が皇太子である以上、夫であってもこの場合は口出しできないだろう。
 今日はドレスも仕上がって、最終的な調整を済ますのみと言っていた。だから、エスクードの仕事が終われば、早めに引き上げるつもりだった。
 田舎から出てきていた両親も、長く家を開けておくのを心配して、帰っていた。
 今日は久しぶりに二人きりの時間が……まあ、家に帰れば帰ったで、招待状の準備など、やるべきことは多々あるが――それは二人でこなせばいい。
 そんな雑多仕事を片付ける時間ですら、エスクードにとってはアリスと過ごす貴重な時間になってしまっている。
 だから、今日ばかりは殿下に付き合っていられない。
「申し訳ありませんが、殿下」
「うむ……何だか、剣呑だな」
 視線を返したエスクードに、僅かばかり皇太子は座っている椅子の中で身を引いた。エスクード自身としてはいつもと変わらない態度でいるつもりだが、切羽詰まったものが内側から溢れ出ているのだろうか。
 ――どうして、二人きりでいられないのか。
 新婚生活を邪魔されないよう、この城ではなく、フシール家の実家に二人の生活拠点を移動させたというのに……。
 まだこの城で、アリスに片想いしていた頃の方が彼女と過ごせる時間が長かった気がする。好意を見せてもそれは親切の厚意として勘違いされて、まったく想いが通じていなかったけれど……その頃の方が自然と傍に居られた。
 今は両想いになったのに、どうしてアリスは自分の傍にいないのか。
 ――おかしいだろう? もう少し、二人だけの時間があってもいいだろう?
 エスクードは心の中で、誰ともなく訴える。ドアの取っ手を握った拳が我知らず、震える。
「…………わかった、帰っていいぞ」
 押し黙ったエスクードに、皇太子は引きつった笑みを浮かべて告げた。
「しかし、エスクード。お前……余裕なさすぎではないか?」
「余計なお世話ですっ!」
 自覚しないでもなかったので、思わず声を荒げて反論していた。


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