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蒼天の君・番外編
お題提供・色彩の綾


 ― 後編 ―


 余裕がないと言われて、思わず反論してしまったのは、実際にその通りなのかもしれないと、エスクードは廊下を歩きながら、鬱々と考える。
 想いを伝えあって、アリスはこの世界で、自分と生きて行くことを選んでくれた。それは紛れもない事実であるけれど。
 ――いつ、アリスの気持ちが変わらないとも限らないのではないか?
 その不安が両想いになった今でも、エスクードの胸の奥にくすぶっている。
 こちらに迷い込んできた彼女にしてみれば、これまでの約一年は帰りたくても帰れない状態だった。ここに居ることをある種、受け入れざるを得ない状況だったのだ。その延長で、ここに残ることを選択しただけと考えるつもりはない。こちらでの生活をアリスは今では楽しんでいるようだし、あちらの世界では身内も少なく、思い出も少ないと語っていた。
 だけど――それでも……。
 長い間、暮らしていた世界を簡単に捨てられるものなのか、エスクードとしてはわからない。
 それは他でもなく、自分がこの世界を捨てることなど、想像できないせいだろう。
 双子の弟が起こした事件の醜聞(しゅうぶん)や妹であるアリスエールを亡くした悲しみ。エスパーダと等分するはずの期待を一身に背負わされて、その重苦しさに人知れず潰されそうになったこともある。アリスエールを亡くした皇太子を支えられずにいた自分を情けなく思ったことも。
 二十六年間の人生の中では、苦く切ない想いも味わった。思い出したくもない失敗もあった。それでもエスクードには、ここ以外で生きる自分なんて考えられない。
 そう、自分の気持ちは自分が一番理解できている。だが、他人の気持ちはときに計りかねる難しいものだ。それが酷くもどかしい。
 アリスの立場になって考えてみようとしても、彼女が暮らしていた世界をあまりに自分は知らな過ぎるのが想像を妨げる要因だろう。
 しかし、その穴を埋めるはずの時間が現在、雑事に追われて潰れてしまっているだけに焦燥感に悩まされる。
 特にアリスに関しては……彼女の思考に関しては、この一年、どれだけ回り道をしてきたか。これまでの日々を思うと、今現在でも何か一つ態度を間違えば、また勘違いが生まれるのではないかと心配になる。
 お前の態度はわかりやすいと周りからさんざん言われ、エスクード自身もストレートにアリスに対する好意を表してきたと思う。
 なのに、アリスにはまったく通じていなかった……。
 いや、予感みたいなものは感じていたようだが、それもアリスエールがらみと勘違いされていたようだった。
 告白して、驚かれた瞬間の情けなさは今でも思い返して、少しばかり落ち込む。それと同時に、アリスの見返りをあまり求めない態度だ。
 自分がアリスエールを一人の女性として想い続けていると誤解されたままだったなら――アリスは自分の想いだけに満足して、こちらの気持ちを惹こうとしてくれたか、甚だ疑問だ。
 この一年彼女を見つめ続けてきて、アリスの態度にはどこかで諦めみたいなものを感じていた。遠慮深いとも言える態度の裏には、執着が感じられなかった。
 今もそうなのか、わからない。
 少なくとも現在、アリスはこちらに想いを伝えてくれた。諦めるのではなく、向き合って、一緒に生きることを望んでくれた。
 けれど、その選択もあちらの世界への執着のなさではなかったのか?
 違う。違うはずだ――そう確信したい。
 彼女を理解して、安心したい。アリスにもこちらの想いを理解して欲しい。
 ずっと、この世界で――自分の傍に居て欲しいという願いを。
 懊悩に頭の中を支配されていたエスクードの耳に、軽やかな笑い声が届いた。
 ハッと顔を上げると廊下の突き当たりのサロンに女官たちが集まっている。その中央にいるのはアリスだ。
 彼女らは手に針と糸を持って、手芸に勤しんでいた。針仕事をしているのか、それとも個人の趣味か。器用に動く女性たちの指をアリスは興味深そうに眺めている。
「――アリス」
 覗き見や立ち聞きなどと要らぬ誤解をされないよう、エスクードはアリスに呼びかけ、そちらに歩み寄った。
 アリスが顔を上げ、女官たちが姿勢を正す。一応、勤務時間が終わっているが、彼女たちにとってエスクードはそう気安く接することができる存在ではない。
「帰ろうと思うんだが、大丈夫かな?」
 エスクードは女官たちのリーダー的存在のレーナに問う。アリスの花嫁衣装などの手配は彼女が取り仕切っていた。
「ええ、大丈夫です。蒼天の君、今日はお疲れ様でした。また明日、お会いできますように、ごきげんよう」
 レーナが微笑んで他の女官たちもそれに倣う。アリスもそっと微笑んで応えた。
「お疲れ様でした。また明日」
 女官たちに向かって深々とお辞儀をして、アリスはエスクードの元にやって来た。エスクードもレーナたちに一日を労って、別れを告げる。
 二人並んで展望塔へと向かいながら、エスクードはアリスに手を伸ばした。彼女の手に触れたこちらの指に、指が自然と絡まり手のひらが重なる。
 そのことに対してどこかホッとしている自分に、エスクードは苦笑した。
 どうしたの? と問うように、アリスが首を傾げる。
 言語変換の魔術によって、今ではこちらの世界の言葉を喋れるのだが、一年間喋れないふりをしていたせいか、言葉より仕草の方が先に出ることもままあった。
「いや、なんでもないよ。それより衣装合わせの方はもう終わったのかな?」
「うん、殆ど完成していた。あれが手作りなんて、凄いのね」
 興奮した様子で、アリスの瞳が煌めく。
「手作り? アリスの世界では、手作りじゃないのか?」
「あ、間違えちゃった。手作りというより手縫いだってことにビックリしたの。縫い目が綺麗で、刺しゅうも巧緻で。全部、手縫いだなんて、信じられなくて」
「そうか。アリスの世界では針仕事は珍しいのか」
 言葉を交わすことで、一つアリスのことを知る。やはり、こういう時間が必要なのだとエスクードは改めて感じた。
「手作りする人もいるけれど、大抵はミシンで――機械で作っているんじゃないかしら。私、ボタン付けや簡単な縫物ぐらいなら自分でするけれど、それ以外はあまりしたことがなかったから――あ、そうだ」
 丁度、展望塔に出たところでアリスが足を止めたので、エスクードもまた歩みをとめた。
 解けた手を残念に思う前で、彼女は手提げから何かを取りだす。
「あのね、これをエスクードに」
 そう言って、エスクードの目の前にアリスが差し出してきたのは白いハンカチだった。
 綺麗に畳まれた片隅に、何やら刺しゅうがされている。シロツメクサの葉のような――。
「これはね、四葉のクローバーといって、私の居たところでは幸運のシンボルだから……」
 アリスの頬が僅かながら赤みを増す。それは夕闇の影響ではないだろう。
「…………ええっと、そのね」
 ちょっと落ち着きなく、アリスは身を揺らす。こういうときの彼女は照れているのだということは、最近になってわかってきた。
「それをエスクードに持っていて欲しいの」
 エスクードは手の内の刺しゅうを見る。
 巧緻な刺しゅうが施されたものを日常的に目にしている身からすれば、絵柄がシンプルな割に手仕事の拙さが伺える。
 だからこそ他の誰でもなく、アリス自身が一針一針を縫い込んだとわかった。
「幸運の、お守り?」
 うん――と、アリスは小さく頷いて、顔を伏せる。
「レーナさんたちに教えて貰って見よう見まねで縫ったけれど。やっぱり手芸は得意じゃなくて、綺麗じゃないけど。ご利益があるかどうかもわからないけれど。でも、私があなたに上げられるものは他に何もないから」
「何もない?」
「……贈り物できるようなものは何も持っていないし、だから、私の気持ちを」
「アリス――」
 彼女の腰に腕を回して、エスクードはアリスを抱き寄せた。
「何もないなんてことはない」
「えっ?」
 腕の中で、アリスは驚いたように目を瞬かせる。
「何もないなんて、嘘だ。俺はアリスの全部が欲しい。驚いた顔も、笑った顔も、髪も瞳も声も――全部」
 自分が知らない彼女の過去も、これからの未来も―― 一つ残らず、余さず知りたい。
 そんな風に思ってしまう自分は、やっぱり双子であるエスパーダの片割れなのだろうと、エスクードは心のうちで苦笑した。
 二人きりでいたいと思うのも、結局は独占欲なのかもしれない。
 いつか彼女の気持ちが変わって、あちらの世界に帰ってしまうかもしれないという、不安があるのは事実だ。
 だから言葉を交わして、理解を深めて、絆を作りたい。この世界にアリスの居場所を作って、繋ぎとめたい。
 でもそれは、理性で考えたことなのだろう。
 率直な言葉で語れば、自分の傍に居て欲しい。他の誰かより先に、自分に笑いかけて欲しい。
 自分がこんなに欲張りだったなんて、エスクードは初めて知った気がする。自己主張はエスパーダの領分だっただろうに。
「俺はアリスが欲しい。幸運をくれるというのなら、アリスの全てを俺にくれないか。もう、アリスがいない自分の人生なんて、考えられない。俺を幸せにしてくれるというのなら、それはアリスだけだよ」
 そこまで辿りついて、エスクードは皇太子の気持ちがわかったような気がした。
 アリスエール以外の誰かを愛することなんて考えられないという――殿下のその気持ちが、我が身として実感できた。
「エスクード……あの、その」
 真っ直ぐな視線を差し向けると、アリスは顔を真っ赤にして、唇をパクパクと動かす。
 やがて、力尽きたように崩れて、コツンとこちらの胸に額をぶつけてきた。
「……あ、アリス?」
 身体から力が抜けたように、しなだれかかって来たアリスに、エスクードは驚いた。普段のアリスからすれば、かなり大胆と言えた。
「――直球……ど真ん中……」
 ぼそりと、アリスが呟く。
「えっ?」
「そういうセリフ……な、慣れてなくて……恥ずかしくて」
 胸に顔を伏せたまま、アリスは聞きとれるか否かといったか細い声で告げた。黒髪から覗く耳が熟れた林檎のように赤い。
「そう、なのか?」
 これでは逆効果なのかと、ちょっと蒼ざめかけたが、アリスがちょっとだけ顔を上向かせて言った。
「……でも……ありがとう。嬉しい……」
 はにかむように微笑んだアリスの頬にエスクードは手を伸ばした。えくぼが浮かぶ頬を手のひらで包み込んで、顔を仰向かせる。
 視線を合わせて見つめ合えば、言葉にしなくとも互いが望んでいるものがわかった。
「――アリス」
 囁くように名を口にして、彼女の唇に己が唇を重ねようとエスクードが身を屈めた瞬間、二人の頭上でドラゴンの一声が響いた。
「キュー」
 タイミングを外され、思わず前のめりになるエスクードに、アリスが小さく笑った。
 空を見上げれば、厩舎から飛んできたフレチャが「帰ろう」と、無邪気に尻尾を振っている。
 時々、気を利かせてくれるらしいフレチャではあるが、やはりドラゴンであるから人間の男女の機微などわかって場を読んでくれというのは、無理があるだろう。
「――お預けだな……」
 苦笑するエスクードに、頬を赤く染めながらアリスが頷けば、同じように残念に感じてくれているのだろう。
 彼女の耳元に唇を寄せて、エスクードは告げた。
「続きは、二人きりになってから」
 そうして手を差し出せば、手のひらが重なる。絡み合う指先の温度に、エスクードは確信した。
 ――絆は確かに、ここにある。


                             「幸せをあなたに 完」

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