ガラスの卵
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ポカポカした日差しの温かさに、縁側に横になっていたわたくしは、ウトウトとしていました。
あやふやな意識は水面に漂う木の葉にも似て。
ユラユラとあちらへ、こちらへ。
眠りへと傾きそうで傾かない天秤のようです。
そんな、あやふやな境界線を綱渡りするようなわたくしの意識に割り込んできたのは、庭に面した縁側のガラス戸のレーンがカラカラと鳴る音でした。
ガラス窓に反射する光が、一瞬、わたくしの視界を白く染めます。
光に焼かれた目をパチパチと瞬かせるわたくしの前を、洗濯物を取り込んだ陽子お母様が横切りました。
栗色の髪を一つに纏めた陽子お母様は、もう直ぐ四十歳という年齢に見合わないきびきびとした足取りで居間へと移動します。
そうして、部屋中に太陽の匂いを振りまきます。
陽の匂いの狭間に混じった新緑と春の花の香が鼻腔をくすぐり、わたくしはうっとりと目を細めました。
甘く爽やかなその香りは、わたくしの眠気にまどろんでいた意識を覚醒させるに十分です。
トコトコと居間へと香りを追いかけますと、お母様は居間のソファで、アルバイトを終えて横になっていた日向さんに向かって声をかけました。
「ねぇ、日向。あんた暇でしょ?」
「――ふがぁ?」
お母様のお言葉に返った声は、まるで大きな動物のあくびのようでした。
わたくしは思わず目を丸くして辺りを見回します。
ガラステーブルを真ん中に置いた居間は十二帖ほどの広さです。ご家族の皆は、狭いと言われますが、身体が小さいわたくしにはとても広く感じます。
南には庭があり、ガーデニングがご趣味の陽子お母様によって、季節の花が咲き乱れています。五月の今は、菖蒲に、矢車草、金魚草、ポピー、アザミ、グラジオラス、バラといった色とりどりの花が競うように咲いています。その中でも、わたくしはバラの香りが特に大好きです。
そんな庭へは、縁側を挟んで居間からいつでも外に出られます。しかし、庭には動物の姿は見当たりません。
わたくしは、視線を居間へと戻しました。
淡いピンク色の壁紙を張った東側の壁には大型のテレビ。ですが、今は沈黙しています。
テレビ棚の横に雑誌ラック。観葉植物。そして、部屋の片隅に置かれた大きなゴリラのぬいぐるみは、わたくしの遊び相手ですが、残念ながらゴリラ君が声を発することはありません。
居間にいるのは、わたくしと陽子お母様と日向さんだけ。
そうして、ソファの上でノロノロと上体を起こす日向さんと目が合いました。
丸っこい卵のような顔の半分を占める――これは流石に、大げさな表現でしょうが――丸っこい大きな目を眠そうに擦るのが、結城日向さん、十八歳。
わたくしのご主人様です。
一昨年、一年の終わりを告げる鐘の音が響くなか、川原の土手に生まれて間もなく捨てられていたわたくしを拾って、今まで育ててくださった恩人でもあります。
そんな日向さんの髪は、わたくしと同じ栗色です。
日向さんは、陽子お母様譲りの、栗色の寝癖が着いた髪をクシャクシャと掻き乱すと、腕を伸ばしてわたくしを抱き上げます。
成されるがままに、持ち上げられたわたくしの身体は、すっぽりと日向さんの両手に包み込まれてしまいました。
そして、あぐらを組んだブルージーンズの足の上に、ちょこんと置かれたわたくしが首を伸ばして見上げれば、日向さんは大きく口を開けてあくびをしました。
「――ふがぁ」
日向さんの声だったようです。考えれば、当然のことなのですが驚きました。
ふわわわわぁっ、とあくびをこぼしながら、日向さんが視線を下げればわたくしと目が合いました。
すると、お日様のような笑顔でニッコリと微笑んで、
「いつも可愛いね、ネコちゃん」
日向さんは、わたくしの頭を撫でながら言いました。
ちなみに「ネコ」というのが、日向さんがわたくしに下さいました名前です。
しかして、わたくしは犬という種族なので、ちょっとだけ抗議するように声を上げます。
「ワンっ」
「元気だな、ネコちゃんは」
抗議は右から左へと流されていったようです。ニコニコと笑いながら、日向さんはわたくしの毛並みを確かめるように撫でます。
「アンタたちって、ホント、仲がいいわね」
「何てったって、ネコちゃんは俺の前世の恋人だからな」
日向さんはわたくしを抱き上げると、頬ずりして言いました。
「今は、こんな風に種族を違えてしまったけれど、運命の糸は切れなかったわけさ」
――何とっ?
わたくしたちにはそのような、知られざる関係があったのですかっ!
驚くわたくしに、陽子お母様の嘆息が聞こえました。
「そうやって、ネコちゃんを――彼女がいない言い訳をしているんじゃないわ。情けない」
「あぐっ」
言葉に詰まった日向さんを見れば、どうやら図星のようです。
日向さんの人生計画では、この春、彼女が出来る予定だったのですが……予定はあくまで、予定ということでした。
ちなみに日向さんは身長があと十センチ伸びる予定だとか、宝くじを買ったら、三億円が当たる予定だとか、よくお話されます。
とはいえ、百七十センチで身長が止まって既に五年が経つそうですし、宝くじを買う前にお小遣いを使い果たして、実際にくじを買ったことすらありません。
少し夢みがちのお方のようです。
「彼女もいないアンタは、デートの約束もないわけでしょ? 当然、――暇よね」
陽子お母様が決め付けるように、日向さんに言いました。
「暇じゃない。全然、暇じゃない。これから俺は、大事なネコちゃんとデートなんだ。全然、暇じゃない」
日向さんは首を千切れそうな勢いで横に振ります。
時間は午後三時半を少し過ぎたところ。今から、わたくしのお散歩タイムなのです。
「はいはい。運命の恋人だっていうネコちゃんとのデートのついででいいから、ちょっと頼まれてくれない?」
「ええっ?」
嫌そうに、日向さんは顔を顰めました。
わたくしたちのお散歩道は、ご近所の川原の土手です。
そこを往復、二十分。午後の三時ごろと――夏場は、朝に――夜の十二時ごろ、ゆっくりと時間を掛けて歩くのが、わたくしと日向さんの日課で、余程お天気が悪くない限り、日向さんは欠かさずわたくしをお外へと連れ出してくださいます。
ご近所のお仲間さんたちの中には、庭に放し飼いにされていることを理由に、お散歩にも連れて行ってもらえない者たちもいれば、わたくしは本当に良い飼い主に恵まれたと言っていいでしょう。
ですが、川原方面に、陽子お母様の御用があるとは思えません。
用事があるとすれば、楓町商店街の方でしょうか。
だとすれば、わたくしは日向さんに少しだけ同情します。
ご近所付き合いが濃いこの地域では、出先で声を掛けられるでしょう。そうして、日向さんに向けられるのは「残念だったね」や「また、来年があるさ」と言った、慰めのお言葉。
日向さんは、この年の三月に無事、高校を卒業して晴れて――晴れてと言う言葉は、もしかしたら相応しくないのかもしれません――浪人生になりました。
大学受験を失敗したのです。
ですが、誤解しないで下さい。
日向さんは決して、学業が駄目だったわけではありません。
試験の数日前に、緊張をほぐすつもりでお友達と行ったカラオケ店で、インフルエンザをうつされてしまい、寝込んでしまったのです。
そして、肺炎を併発させては、それまでの無理が祟ったのでしょうか、回復が遅くなり約二ヶ月近く入院されていたのです。
今はすこぶる元気そうですが、退院したばかりの日向さんは顔色も雪のように真っ白で、わたくしとしましてもハラハラしました。
ご本人は「また、来年がんばるよ」と、言われて笑っていますが。
周りから寄せられる同情には、少々、辟易となさっているようです。
新生活を始めるはずだった――四月。
日向さんは散り行く桜の花弁を目で追いかけながら、目を赤くしていました。花粉症だと言い訳されていましたけれど、実力を発揮できないままに決定されてしまった進路に、悔し涙を流していたとしても仕方なかったでしょう。
「用って、何だヨウ」
唇を尖らせて尋ねた後、日向さんは「駄洒落じゃないから」と、言い訳しました。
陽子お母様の視線が、存外に冷たかったからでしょう。
「最近ね、物騒なのよ」
「――はあ?」
陽子お母様は、取り込んだ洗濯物を抱えたまま――早くたたんでしまわないと、皺になってしまうのではないでしょうか? と、わたくしは要らぬ心配をしてしまいます――頬に手を添えて、ため息をこぼします。
「覚えている? 先月、女の子が公園で変死していた事件」
「ああ……サチコちゃんの。忘れるはずないよ」
わたくしを抱いた日向さんの手に、力が加わりました。
少しだけ痛いと感じますが、わたくしは我慢します。
きっと、日向さんの心も同じくらいの痛みを感じているのでしょうから……。
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