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 先月、お亡くなりになったサチコさんは、わたくしや日向さんとは浅からぬご縁がありました。散歩の帰り道、小学校から帰宅されるサチコさんと顔を合わせる機会が何度かあったのです。
 その帰り道で、サチコさんはわたくしを「可愛い」と言っては、優しく撫でてくださいました。
 人間の皆様には、思いもよらぬことかもしれませんが。犬だからと、撫でられるのが好きなわけではございません。
 お散歩途中、初対面の方が「まあ、可愛いわねー」と、撫でてこられますが、わたくしとしましては、誰とも知らぬ方に撫でられるのはとても怖いことなのです。
 それは、人間の皆様でも同じだと思います。知らない方にいきなり触れられれば、それは不快でしょう?
 ですが、わたくしが犬でありますれば、撫でられるのを受け入れるしかないのでしょう。牙を剥いてしまっては、躾が悪いと日向さんが責められることになります。そのことを思えば、わたくしはやはり黙って撫でられるのです。
 しかし、サチコさんは小さいながらも、わたくしに礼儀を見せてくださいました。
 サチコさんが初めて、わたくしたちに声をかけてきたのは、昨年の冬休みを迎えようというころでしたでしょうか。
『撫でてもよいですか』
 小学生のサチコさんにしてみれば、ご自分より年長者の日向さんにそう声をかけるのは勇気が要ったことと思います。
 現に、サチコさんのランドセルの肩紐を握る手が緊張に震えていたのを、わたくしも日向さんも見逃しませんでした。
 わたくしがサチコさんの方へと身を乗り出すと、さすが飼い主様です。わたくしの心を読んだかのようなタイミングで日向さんは、サチコさんに笑いかけました。
『いいよー』
 カラリと快活に、白い歯を覗かせて笑う日向さん。
 その笑顔を前に、ホッと肩の力を抜いてサチコさんはわたくしの前にしゃがみ込みました。そうして、ゆっくりと伸ばされた手は、何かを恐れているような感じがしました。
『もしかして、犬が怖い?』
 日向さんもまた、同じように腰を屈めると、サチコさんと目線を合わせて問いかけます。
 フルフルとサチコさんは首を振りました。肩で切り揃えた綺麗な黒髪がサラサラと音を立てます。
『怖くないです。でも……小さいから、壊れそう』
 そっと息を詰めてサチコさんは、わたくしへと伸ばす指を寸前で握り込みました。
『壊れるか。面白い表現をするね。でもね、ネコちゃんは生き物だから、壊れたりはしないよ。ただ、無茶なことをされたら、痛がるけどね』
 サチコさんは、フフフっと笑う日向さんを不思議そうに見上げました。
『俺や君みたいに、生きているんだ。だから、オモチャみたいに壊れたりしないよ。ただ、死んじゃっても修理は出来ない。ねぇ、俺が言っている意味、わかる?』
 小首を傾げて日向さんが尋ねれば、サチコさんは小さく頷きました。
『はい』
『じゃあ、撫で方もわかるでしょ? 自分にされたら痛いだろうことはしない。それに気をつければ、大丈夫だよ』
 撫でてみて、と日向さんに促され、サチコさんはわたくしの毛を指ですきました。爪で傷つけないようにと、労わる心がその指先から伝わってきて、わたくしは嬉しくなったことを覚えています。
『柔らかい……赤ちゃんもこんな感じかな?』
 ポツリと呟いたサチコさんに、日向さんが目を瞬かせます。
『お家に赤ちゃんいるの?』
『夏に生まれるんだって……ママが言っていたの。今はまだ、赤ちゃんの卵なんだって、パパが教えてくれた』
『卵ねぇ』
 面白い表現だねぇ、と日向さんは笑いました。
『じゃあ、お姉ちゃんになるんだね。だから、優しくする練習?』
『……ごめんなさい』
 練習代にしたことを詫びているのでしょうか、サチコさんは首を竦めて、わたくしから手を引きました。
『何で謝るの? 別に、怒っていないよー。それより、赤ちゃんに優しくなれたらいいね』
 日向さんは、春の日差しのような穏やかな笑みをサチコさんに向けました。
 サチコさんはちょっとだけ頬を赤くして、頷かれました。
 それから度々、帰り道でお会いしました。日向さんが入院されていたこともあって、数えれば両手両足の指の数ほどだったと思われます。
 最後にお会いしたのは、お亡くなりになる三日前でしたでしょうか。
 いつものように、日向さんはわたくしを連れて川原の散歩道を歩いていました。
 風に乗ってどこからともなく舞って来る薄紅の桜に、日向さんはため息を吐いていました。新しい季節の始まりに、思うところがあったのでしょう。
 そこへ、サチコさんが声を掛けてきました。
『お兄さん、ネコちゃん、こんにちは』
 わたくしの名前まで口にして、丁寧にご挨拶してくださいました。
 嬉しかったのですけれど、「ネコ」と呼ばれることに、まだ少し不満なわたくしは「ネコとは呼ばないで下さい」と願いを込めて、声を上げます。
『ワン』
 悲しいかな、どれだけ人間の言葉を理解しても、わたくしが犬でありますれば……声は鳴き声として響くばかりです。
『こんにちはー、サチコちゃん。今帰りなの? ネコちゃんと遊んでく?』
 日向さんの問いかけに、サチコさんは小さく首を振られました。
『遊びたいけど……寄り道しちゃ駄目だって、先生が。もう……ネコちゃんと遊べない』
 眉を下げたサチコさんの悲しげな顔に、日向さんは笑います。
『そっかー。先生の言いつけじゃ守らなきゃね。じゃあ、日曜日の今頃、時間があったらここにおいで。それだったら、いいでしょ?』
『いいの?』
『サチコちゃん次第だよ。来なかったら、俺たちは帰るだけ。だから、時間があったら、お母さんにお出かけすると言ってから、おいで。ね?』
『はい。ありがとう、お兄さん』
『じゃ、バイバイ』
 日向さんに見送られて、サチコさんは手を左右に振ると、駆けて行かれました。
 揺れる赤いランドセルの背中、それがわたくしと日向さんが見た最後のサチコさんの姿でした。
 そして三日後、サチコさんは黄昏の公園で変死しているのを発見されました。頭から血を流して倒れていたそうです。
 死因は後頭部強打による脳挫傷。着衣に乱れはなかったとのこと。
 午後四時半ごろ、公園に立ち寄ったという主婦の話では、その場にサチコさんの姿は見当たらなかったそうです。
 遺体発見時――午後、六時ごろ――サチコさんは既に息絶えていたそうです。そして、サチコさんが身に付けているはずだったランドセルが滑り台の下に隠されるようにして置かれてあったとのこと。
 しかし、ご遺体は公園の片隅、つつじを植えた花壇を仕切るレンガに頭を乗せる形で、横たわっていたと言います。
 警察は事故と事件の両面から捜査すると、テレビでニュースキャスターが淡々と事実を語っていました。
 よく透る声なのですが、わたくしの耳にはガラスを爪で引っ掻いたような不快な音でしかありませんでした。
 耳を塞ぎたくなっていたわたくしを抱いて、日向さんはテレビ画面を食い入るように見たことを思い出します。
 この世から、サチコさんの魂が消え失せてから、約一ヶ月が経ちます。


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