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 ― 8 ―


『でもね、ネコちゃん』
 ベッドに横になった日向さんは、天井を睨み付けながら言いました。
『これは全部、俺の楽観的で夢をみた、甘い推理でしかないんだ』
 わたくしに、日向さんの推論を語ってくださった後のことです。
『もしかしたら、誰も立証できないだけで、公園に他の誰かがいたかもしれない』
 そっと息を吐いて、日向さんは目を伏せました。
『だけど、俺は……誰かの悪意がサチコちゃんを殺したなんて、考えたくないんだよ。嫌な世の中になって、悪意は色んなところに潜んでいるけれど……』
 日向さんの手がわたくしの存在を確かめるように、伸ばされました。毛先に触れるその指をわたくしはそっと舐めます。
『それでも、俺は……俺の大切な人たちが悪意に傷つけられることを認めたくはないんだ……ズルイかな、この決断は』
 運が悪かったと、諦めることは感情的には難しいことです。
 インフルエンザで一年の努力をふいにされた日向さん。
 足を滑らせて、命を落としたサチコさん。
 支払ったものに対して、手に入れたものは心の傷と不幸と悲しみと。
 運、不運で左右されてしまう運命なんて、享受しがたいものです。
 ですが、誰かの悪意の犠牲になったと考えることも、また切ないことです。
 選び取るのが難しい二つの選択肢を前に、日向さんは苦渋します。
 人の存在は、命は、諦めたり憎んだりしたところで、簡単に割り切れるものではないのですから。
 悩みます。苦しみます。
 しかし、わたくしたちは生きている。
 これからも生き続けるでしょう、この命が途絶える日まで。
 だからこそ、わたくしは思います。
 最後の日を迎えるまでの日々を、人を疑りながら生きるよりも、笑顔を浮かべて隣にいる人に優しくしたい。
 凍える雪の夜に、わたくしを拾ってくださった日向さんの優しさが、決して一過性のものではないことを知っているからこそ。
 ――絶望より希望を。
 脆くも割れてしまいそうな卵から孵る新たな命のために――与えましょう。


                       * * *


 風に乗った空気に、緑の香りが濃くなりました。
 咲き乱れていた春の花が散り始め、しとしとと降る雨に若葉を成長させた緑木が、雲を割いて顔を出したお日様を相手に己の存在を主張しているのでしょう。
 川原の土手に植えられた紫陽花が少しずつ、色を重ねていきます。
 それらの風景を感じ、眺めながら、水溜りを大きく迂回してわたくしが歩けば、日向さんは一跨ぎで軽々と飛び越えました。
 ……少しズルイです。
 わたくしが犬である限り、日向さんとわたくしのコンパスの差はどうしようもありません。そう分かっているのですが、認めたくない感情もあります。
 割り切れないものもあります。
 それでも、ただ一つしか選べないのなら――。
「こんにちはー」
 日向さんはわたくしの身体を掬い上げると、胸に抱いて走り出しました。
 そうして、駆け寄った先には、大きなお腹を抱えたサチコさんのお母様とお父様がいました。
「お散歩ですか?」
「それもあるけれど」
「今日は、探偵さんにご報告」
 サチコさんのお母様は、日向さんのことを探偵さんと呼ぶのが、お気に入りのようです。
 日向さんは栗色の髪を掻きながら、「探偵じゃないですよ」と少し照れたように反論しました。ご主人様は、まんざらでもないようです。
「あれからね、子供たちの親御さんと交えて、あの日のことを話したの」
「…………」
 わたくしを抱いた日向さんの腕が、ギュッと絞まりました。緊張が伝わってくるようです。
「……それで」
 ゴクリと微かに喉を鳴らして、日向さんは話を促します。
 あの公園で、日向さんがサチコさんのご両親相手に展開させた推理は、ある一方方面からものです。
 絶望ではなく希望を、日向さんは選びました。
 悪意なんてなかったのだと、繰り広げた推理劇。
 誰も黄昏の公園での真相を知らない故に決定付けた答えは、新たな情報で幾らでも書き換えられるものでした。
「君が言う通りだった」
 サチコさんのお父様が、声を落として言いました。
 そうして、お二人は交互にわたくしたちに会談の内容を話してくださいました。
「ゴメンなさいって、謝るの。サチコちゃんは帰ろうって言ったのに、僕たちが遊ぼうって、誘って」
「それでも帰ろうって言ったサチコに、じゃあ、もう遊んでやらないって、言ったそうだ」
「……仲間外れにすると?」
 日向さんは強張った声で問い返します。コクンと頷かれるお父様の隣で、お母様が口を開きました。
「他意はなかったんでしょうね。真面目に先生の言いつけを守ろうとしたサチコに、反感を覚えたんでしょう。じゃあ、言いつけを守らない僕たちを、悪い子だというの? ――そんな感じかしら」
「サチコは根が真面目だから……」
「……誰に似たのかしらね」
 眉を下げるお父様の隣で、クスクスと声を響かせるお母様の笑顔は、寂しげな色を湛えていました。
 ここにサチコさんがいたのなら、明るい笑顔を浮かべることができたのでしょうが。
 サチコさんはもういません。
 胸の奥、思い出という形でしか、わたくしたちはサチコさんとお会いできなくなってしまいました。
「そんな感じでね、泣いて謝る子供たちを前に、私たちも何を言っていいのかわからなかったわ」
「僕たちは……日向君のおかげで、一応の踏ん切りがついたけどね」
「俺は……」
 口を開きかけた日向さんを遮って、お父様は笑いました。
「警察の方からも、事故の可能性が高いと言ってきたよ」
「……えっ?」
「最後に公園を出た人とサチコの遺体を発見した人――この間に、一時間半の空白時間があったわけだけど。警察が事情聴取をした結果、公園前の通りの人通りから考えて、実際に公園内が空白だったのはもっと短い時間だったらしい。あの公園は、入り口が一つしかないからね」
「……でも」
「勿論、入り口以外から入ることは可能だけど。日向君も言っていただろう? 不審者が目立つくらいには、人がいたと。公園内は無人だったけれど、外は違ったんだよ。ちょうど、その時刻は帰宅時間と重なるからね。警察はその辺りの証言をつき合わせて、公園に侵入した者はいないと判断した」
 公園通りは住宅街でもあります。昼間は簡素な住宅街ですから、人通りはさほどないでしょう。しかし、三時からは小学生の帰宅を初め、人通りはあったはずです。
 夕刻になれば、中学生や高校生、社会人の方々が帰宅するころでしょう。
 そうして、黄昏の公園に立ち寄った方がサチコさんのご遺体を発見することになりました。
「――つまり、事故だったの。探偵さんが言ったとおりね」
 日向さんは口を開いたまま、何も言えませんでした。
 ご自分で、事故説を語っていながら、他の誰よりも他殺説を疑っていたのです。
 事故説が、日向さんの願望であることを、強く自覚していたからこそ。
 ご自分の推理が信じられなかったのでしょう。
「……ハッキリ言ってね、警察の言葉だけじゃ信じなかったと思うよ」
「えっ?」
「日向君の言葉があったから、サチコは事故だったと納得した」
「ありがとうね、探偵さん」
「……俺は、礼を言われるようなことは何もしていませんよ」
 身を引いて、首を振る日向さんに、ご両親は笑います。
「でも、君はサチコの言葉を伝えてくれたでしょう?」
「……サチコちゃんの言葉?」
 目を瞬かせる日向さんに、お母様はお腹を撫でつつ言いました。
「赤ちゃんの卵」
「――あっ」
「居もしない犯人を憎むより、僕たちはこの子を守っていこうと決めたんだ。サチコも大事にしていてくれた子をね」
「随分、無茶なことをしちゃったし。精神的にも、かなりしんどい思いをさせたと思うわ。だから、これからはこの子を慈しんであげようと決めたの。そうして、元気な子を生んだら、この子に言うのよ。お姉ちゃんはお前が生まれてくるのをとても楽しみにしていたのよって」
 そっとお母様は顔を上げますと、わたくしたちを見つめ微笑みます。
 その笑顔はどこか、サチコさんに似ていました。
 もうサチコさんにお会いすることは叶いませんが、この世界にはまだ沢山のサチコさんの欠片があることに気づかされます。
 サチコさんの命はガラスのように割れてしまいました。しかし、サチコさんと言う存在の欠片は、砕けてもなお、光を受けてはプリズムのように七色に輝いて、わたくしたちに優しさを思い出させてくださいます。
 きっと、お母様のお腹の中に宿った卵もまた、サチコさんの優しさを受け継いでいることでしょう。
「ねぇ、探偵さんとネコちゃん。この子が生まれたら、サチコと同じようにお友達になってくれる?」
 わたくしと日向さんは顔を見合わせると、揃って声を上げました。
「はい、勿論っ!」
「ワンっ!」
 言葉が通じなくとも、想いが伝わることを信じて。
 わたくしは尻尾を振りました。


                                「ガラスの卵 完」

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