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 飛べない鳥たちの恋歌(れんか)

 1,もがれた翼


 ――空を飛びたいな……。

 切に願うように響いたユリウスの声を思い出す。
 澄んだ湖水の蒼を鏡に映したかのような――否、湖水が空を映したのか――どこまでも高く、突き抜けていきそうな透明な蒼空は、石壁によって小さく切り取られていた。
 神の芸術を侮辱するような鉄格子が、窓に()められ、天空はさらに小さく切り分けられていた。
 天を仰ぐことさえ許されなかった捕囚の呟きは、自由を求めての言葉だったのか。
 それとも、()ちることを望んだ破滅(はめつ)への渇望(かつぼう)か。
 多くの物を与えられ、シュヴァーン国の王となるべき未来を誕生から約束されていたのに、彼の意を介さずにすべては取り上げられ、別の未来を上書きされた。
 隣国カナーリオ帝国の皇女フィオレンティーナの婚約者という立場は、祝福すべき事柄のように思えるが、実際は政略結婚。
 そうして、留学という形で帝国を訪れたユリウスは、隣国との国境近くに――帝国にとっては辺境の地に――建てられたエスターテ城の最上階に囚われた。
 寝室には天蓋(てんがい)付きの豪奢(ごうしゃ)な寝台。書斎には重厚な書き物机に、部屋の一角を占める大きな書棚に収められたのは、革張りの装丁に金文字で背表紙を飾った分厚い本。世界各国から集められた珍しい書籍の数々。床に敷かれた絨毯(じゅうたん)も、革張りの椅子も、東方から渡ってきた螺鈿(らでん)細工の書箱も、玻璃(はり)のランプも、壁を飾る世界創造の神話を描いた緻密(ちみつ)なタペストリーも、王の部屋かと思われるような品揃えであったが、寝室から私室、風呂場といたる所に設置された窓枠に取り付けられた格子と内側からは決して開けられない階段へと通じる大扉が、彼が住まう最上階と階下と断絶し、彼に用意されたその部屋が間違いなく豪華な(おり)であることを語っていた。
 ――ユリウス王子は我が国にとって大事なお客様ですから、と語る言葉を無邪気に信じていた己の浅はかさに、彼女は(わら)った。
 低く響いた嘲笑に、同席の者の非難するような目が向くのをフィオレンティーナは敢えて無視した。
 大事なお客様とは、よく言ったものだ。
 彼のために整えられた檻と同じく虚飾(きょしょく)で彩られた真実、ユリウスはシュヴァーン王国のカナーリオ帝国への反抗を封じるための人質だった。
 王家の血族を尊び、世襲制(せしゅうせい)で続いていた王国の直系の跡取りを奪うことで、帝国はシュヴァーン王国を傘下に治めた。
 いずれユリウスを国に(かえ)すという約束は、七年後に成人する皇女フィオレンティーナとの婚姻を持って成立する。そうして、(とつ)ぐ皇女には帝国の息が掛った者たちが付き従い、彼らは王国を内側から支配するのだ。
 幼い皇女フィオレンティーナが成人するまでの七年の間に、帝国は王国の骨を抜き、ユリウス王子を懐柔(かいじゅう)する。
 血を流さず、帝国は一国を支配しようと画策し、そうして書き上げた筋書きを知らずに婚約を受け止めていたのは、恐らくは自分一人であったのだろうと、フィオレンティーナは自らに皮肉な笑みを送った。
 幼かった彼女は城で引き合わされた己の未来の夫を、無垢(むく)に慕った。
 年の差は五つであったから、ユリウスもまだ少年と言ってよい年であっただろう。
 だけれど時を重ねて、少年は青年へと成長していった。
 すらりと伸びあがった背筋に、張り付いたしなやかな筋肉。雪のように白い肌に溶けるような白銀の髪。切れ長の目元を飾る長い銀の睫毛(まつげ)、空を映したような蒼の瞳は淡く、それでいて瞳孔(どうこう)の黒に深く。
 真っ直ぐな鼻筋を中心に、並んだ蒼の双眸(そうぼう)。少年期からすでに完成されていた美貌で、穏やかに微笑む唇は、甘い声で彼女の名前を呼んでくれた。
 ――フィオレンティーナ、僕のティナ、と。
 彼女の蜂蜜(はちみつ)色の髪を指先に絡めながら、囁く。
 耳から身体の奥へと浸透していく彼のその声に、生み出された熱は彼女の真珠のように(つや)やかで(なめ)らかな白い頬をほのかに赤く染めた。
 彼が彼女に語ってくれた優しい響きをもった甘美な言葉も、閉ざされた扉の向こう、聞き耳を立てる監視者を意識してのものであったとしたならば……。
 甘い言葉にすっかり心ほだされたフィオレンティーナは、彼にとって滑稽(こっけい)道化(どうけ)であっただろう。
 ユリウスの真意を問い質すことなど、今のフィオレンティーナにはできやしないが、道化を嗤うことで慰めにし、現在の彼女の境遇に彼の溜飲(りゅういん)が下がれば、それはせめてもの幸いか。
 例え、彼の言葉に心はなかったとしても、彼が彼女に割いてくれた時は、何物にもかえ難い宝物だ。
 騙されたとは思うまい。ただ綺麗な思い出として、いつまでも心に留めておこう。
 この心はあなた様に捧げるのだと――フィオレンティーナは翡翠(ひすい)の瞳を伏せ、瞼の裏、ユリウスの面影に囁きかける。
 ユリウス様にとって私は憎むべき存在であったとしても、私はあなたを無垢に慕った。その心に偽りは欠片にも存在しなかった。
 フィオレンティーナは記憶の中にあるユリウスの手の温もりを取り戻すように、胸元で両の手を合わせた。
 アーキオーニス大陸を北へと向かう馬車は暖を備えていたが、外から忍び寄る冷気が彼女の指先を冷たく凍えさせていた。フィオレンティーナは寒さに震え、かじかんだ指先を強引に折り、ぎゅっと握りしめる。
 寒さばかりが彼女の指先を震わせているわけではなかった。
 これから先の己の未来を思えば、絶望が視界を黒く染め、恐ろしさに戦慄(わなな)く。
 いっそ死んでしまった方が良かったのではないか、そう思わずにはいられない。
 父や兄リカルドたちのように国と共に死んでいれば、彼への恋に(じゅん)じられただろう。心だけではなく、魂までも捧げることができたはず。
 なのに、彼女は生かされた。
 新たなるシュヴァーン国王ディートハルトの妃となるために……。
 ――何故? と、思う。
 二年前、シュヴァーン国内で起こった内乱。政変の末に新たに玉座に就いた新王は、人質であったユリウスを見捨てた。
 囚われている王子の命を危ぶむ様子もなく帝国に進軍したシュヴァーン王国は、同盟国であるヴァローナ王国と結託し、カナーリオ帝国を滅ぼした後、帝国領土の半分を手中に収めた。
 カナーリオ帝国の皇帝や皇太子を処刑し、その血筋に連なる者も殺した。残る彼女を殺せば、帝国を継ぐ直系は断たれ、後の遺恨(いこん)はなくなるはずだった。
 死を待つフィオレンティーナの前に現れたシュヴァーンの将校は、彼女を新王のもとへ連れて行くと言い出した。
 どういうことかと問い質せば、新王ディートハルトがフィオレンティーナを妻に迎えるのだと言う。
 ユリウス王子の代わりに、ディートハルト王が貴女(あなた)の夫になると、将は無感動に告げた。
 それは、アーキオーニス大陸歴一七六九年。
 冷たい風が吹雪く二月のこと。


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