トップへ  本棚へ  目次へ


 5,漆黒の憎悪


 ――お前は、俺のものだ。

 そう、フィオレンティーナの所有を主張するディートハルトの言葉には、ユリウスへの憎悪を感じさせた。
 恐らく、ディートハルトがフィオレンティーナを妻に迎えることに決めたのは、彼女がユリウスの婚約者であったからなのだろう。
 彼が継ぐはずだった玉座を奪い、ユリウスを見捨て、婚約者を奪うことで意趣(いしゅ)返しをしようとしているのか。
 しかし、何のために?
 今は亡き国王の息子(ユリウス)と王弟の息子(ディートハルト)
 ユリウスとディートハルトは従兄弟関係にあるから、見た目が似ているのはとりたてて、不自然なことではない。
 だが、置かれた立場が違えば手に入るものも違ってくる。
 ディートハルトの母親はヴァローナ王国の第一王女だったという話だ。 ユリウスとは違うディートハルトの漆黒の髪は、南方のヴァローナによく見られる髪の色だと聞いている。
 そうして、父は王弟。玉座に近い人間たちの間に生れ、だけど玉座から遠い彼は、分を弁えずに玉座を欲したのか。
 それを簡単に手に入れられる立場にあったユリウスを憎んだのか。
 少し長めの漆黒の髪が、ディートハルトが抱える闇を現わしているように思えた。
 同じ姿をしていても、その闇によって、まとう雰囲気が変わるようだ。清廉とした印象を与えたユリウスとは明らかに違う――。
 寝台から降りたディートハルトは、テーブルの上の服を掴み、フィオレンティーナに投げつけてきた。
 暖炉の熱で乾いた服は、空気をはらんで、はらりと寝台の上に広がる。厚手地のスカートや上着の間にシュミーズなどの下着が覗く。
 凍死寸前の身体を温めるためとはいえ、下着まで脱がせる必要はあったのか? と、ディートハルトを(なじ)りたくなった。
 こちらを貶めるために、素っ裸にしたのではないのだろうか。そんな疑惑に目の前が赤くなる。
「服を着ろ」
 ユリウスと同じ声で、ディートハルトは冷たく命じた。その冷徹な声音に、頬に昇っていたフィオレンティーナの朱色の憤りも、瞬時に冷まされる。
 髪の色を除けば、体格すら双子と目を疑うほど瓜二つの――いや、もう本人ではないのかと思えるような容姿だが、中身は別人だ。
 頭では理解できるのに、フィオレンティーナは翡翠の瞳に涙を(にじ)ませた。
 愛した人の失われた声が、姿が、目の前にある。だけど、現実は悪夢に等しい。
「……どうして、ユリウス様を」
 見捨てたの? と、問いかけた口は大きな手のひらで塞がれた。
「二度とその名前を口にするなと言っただろ」
 苛立たしげに片目を眇めて、声は冷淡に切り捨てる。
「奴は死んだ」
 ヒュッと、喉の奥で息を飲む。ディートハルトの手に押さえつけられた姿勢のまま、フィオレンティーナは頭を振った。
 そんな事実は認めたくないと、否定に首を振れば、ディートハルトの唇は残酷な笑みを浮かべ、フィオレンティーナの瞳を覗きこむ。
「――俺がこの手で殺した」
「…………っ!」
 驚愕(きょうがく)に見開く目から、湧き上がる泉の如く涙が(あふ)れた。
 ディートハルトがその口で語る以上、それは疑いようのない事実だろう。眼前の男が発する憎悪は、ユリウスを目の前にして、彼の生存を許すとは思えない。
 手のひらが離れても、フィオレンティーナは何も口にできずに、ただ涙を溢れさせた。
 ――ユリウス様……。
 吐き出すことのできない声の代わりに、涙は次から次へと流れ出る。そんな彼女を見下ろす蒼い瞳はどこまでも冷たく、表情は苛立たしげであった。
 心に思うことすら、許さぬとでも言いたげだ。
「俺が憎いか」
 ディートハルトの問いに、フィオレンティーナは目の前の男を憎む権利を、自分が持ち合わせていることに気づいた。
 ユリウスと同じ容姿をしている――憎き仇。
 この男のせいで、ユリウスだけではなく、フィオレンティーナは父や兄、そして国を失っていた。その事実を唐突に思い出す。
「……憎みたければ憎めばいい。だが、死ぬことは許さない」
「何故……」
「あの世に、お前を送ってはやらない。奴の元に逝くことは許さない。お前は俺のものだ」
「だから、私を生かすの……?」
「――そうだ」
 殺してもなお、まだ憎むというのか。
 ディートハルトが抱える漆黒の闇は、憎悪は、それほどに深いのか。
「そんなに憎いのですか、……あの人が」
 反発心からユリウスの名を口にしようかと思ったが、彼の名が汚されるような気がして、フィオレンティーナは言葉を改めた。
 そんな彼女をどこまでも冷厳な眼差しで見据え、ディートハルトは声を低く吐き出した。
「奴は、俺が欲しいものを奪った」
「奪ったのは、あなたでしょうっ?」
 彼が王位継承権を持つ第一王子であったため、与えられたその運命は、ユリウスが欲したものではなかっただろう。
 そうならば、彼は望んでカナーリオ帝国の捕囚になったというのか。
 エスターテ城の豪奢な檻に囚われることを望んだというのか。
 ディートハルト自身、それを望むというのか。
 城から一歩も出ることを許されず、空を仰ぐこともできない檻の中で過ごすことが、帝国に屈服したシュヴァーン王国の王位継承権を持つ者の運命だった。
 いずれ、帝国皇女フィオレンティーナを妻に迎え、傀儡の王になり下がること。
 ユリウスは自国民のために、与えられた運命をただ受諾したに過ぎない。
 穏やかに微笑んで、己の運命を受け止めた彼が、どうしてここまで憎まれなければならないのか。あまりにも理不尽だ。
 身体を起こし、(まなじり)を吊り上げて、ディートハルトを睨みつけるフィオレンティーナに、彼は尖った視線を返してきた。
「俺は取り戻しただけだ」
 まるで最初から、自分のものであったかのような主張だ。子供染みているその姿勢に、フィオレンティーナはむなしく首を振った。
「私は、あなたのものにはならない」
「お前の意向など、関係ない。お前は俺の女になった」
「いいえ、なりませんっ!」
 強く抗えば、蜂蜜色の髪を掴まれ、引っ張られた。
 両腕に抱かれる体勢から、逃れようと肘を差し込み、腕を突っ張るが、ディートハルトの拘束は強くフィオレンティーナを放さない。
 後頭部を五本の指で押さえつけられ、胸板へと顔を押し付けられるに従い、力では到底かなわない現実が口惜しくて、彼女は泣いた。
「お前は、俺のものだ」
 肉体の奥から響いてくる心音も、手のひらの温度も、声も、瞳も……ユリウスと同じであるのに、ディートハルトから与えられるのは、彼がユリウスではないという残酷な現実。
 ……だから、彼はユリウスを憎んだのか。
 同じものを持ち得ながら、絶対に得られないものを知ったから。


前へ  目次へ  次へ