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 4,凍える瞳


 ――フィオレンティーナ……。

 名前を呼ばれたような気がした。
 寒さに凍える身体が、無意識に温もりを求める。
 夢うつつに伸ばした彼女の手に、力強い指が絡まった。
 首の後ろに回った腕に頭を抱き寄せられ、フィオレンティーナの額は、熱を宿した胸に押し付けられる。
 頬を寄せた胸板の向こうで、一定の間隔で鼓動を刻む心音は、力強く響いていた。
 その音色を知っていると、フィオレンティーナは朦朧とした意識の端で思う。
『――フィオレンティーナ……、僕のティナ』
 ユリウスの腕の中にいたときに、聴いた音色だ。
 力強く、逞しく響いていた彼の心音と体温に包まれるのが、フィオレンティーナは幼い頃から好きだった。
 まだ恋を恋と認識していなかったときも、無邪気に抱きついては、包み込んでくれる腕に微笑んだ。
 年を重ね、無邪気さを装うことに恥じらうことを覚えても、彼の腕から逃れることだけは出来なかった。胸が高鳴り息苦しくなっても、彼の腕の中にいることが幸せだった。
 ゆっくりと己の身に浸透していく熱が、少しずつ彼女の意識を明確にしていく。
 上下がまるで凍りついていたかのように、張り付いていた瞼が動く。薄く見開いた視界、金糸の睫毛越しに見えるは赤く火照った肌。厚い胸板に張り付いたしなやかな筋肉に、フィオレンティーナの思考は白く染まった。
 ユリウスとは恋人の如く抱擁(ほうよう)したが、正式な婚姻を交わしていなかったために、肌を重ねたことはなかった。
 当然ながら、皇女として育てられたフィオレンティーナは自分以外の人間の裸など、目にしたことがない。
 しかし今、彼女の目の前には何も身に付けていない男の上半身がある。
 鍛え抜かれた腹筋の左脇腹に皮膚の色を違えた創傷が目に入り、驚きに身じろぎすれば、フィオレンティーナの頭を固定していた腕が緩んだ。
 身を引けば、彼女は自分も一糸まとわぬ姿であることを知った。否、男はズボンを穿()いているから、素っ裸なのは彼女ひとり。
 落とした視線に、あらわになった己の胸を見て、慌てて隠す。十九歳のフィオレンティーナの身体は立派に女であった。
 そうして、動かした腕に絡まる毛布に気づいて引き寄せれば、眠っていたらしい男がこちらへと顔を向けてきた。
 さらりと流れる漆黒の髪の間から覗いたのは、懐かしい蒼い瞳。整った美貌は……。
「……ユリウス様……?」
 フィオレンティーナは呻くように呟いた。
 最後に顔を見たのは二年前。だが、片時も忘れたことがない面影を見間違うことはない。
 フィオレンティーナの翡翠の瞳に映るのは、髪の色こそ違うが、顔立ちはユリウスの(かお)だった。
 淡い蒼の光彩と黒の瞳孔が、澄んだ湖の水底のように深い色合いを見せる瞳も――ユリウスその人の。
「……ユリウス様なのですか?」
 そんなはずはないと思いながら、ここがあの世であれば、神が巡り合わせてくれたのかも知れないと、確かめるように蒼い瞳を覗けば、男の手がフィオレンティーナの顎を掴んだ。
 武骨な指が彼女の細い(あご)に食い込み締め付け、声を封じた。
「その名前を俺の前で二度と口にするな」
 男の唇からこぼれ出た声も、ユリウスと同じだった。
 しかし、ユリウスが持っていた甘さは欠片にもない。
 苛立ちにささくれた様な硬質な(とげ)が、男の声の中には混じっていた。声だけではない、穏やかだった眼差しは酷く冷たく、フィオレンティーナを無感動に見据える。
「あいつの名前をお前が口にすることは許さない」
 憎悪――と、直感させる怒りが一瞬、蒼い瞳の奥に垣間見えた。
「もう、お前は俺のものだ」
 そう言い捨て、彼はフィオレンティーナから手を放すと、上体を起こした。
 二人がいるのは粗末な寝台の上だった。壁に寄せられた片側に身を寄せたフィオレンティーナに無言の一瞥をくれると、男は寝台から降りた。
 傍らに置いていた椅子に引っ掛けていた服に手を伸ばし、素肌の上にそれらを(まと)う。
「……あっ、あなたは……」
 フィオレンティーナは呆然と男の姿を追った後、喉に声をつかえさせながら、問う。
「……誰っ?」
 ユリウスではないと知ると、途端に彼と同じ姿をしている目の前の男が薄気味悪く、恐ろしくなった。
 震える身体に毛布を巻きつけて、彼女は首をめぐらせて逃げ道を探す。
 壁に据えられた暖炉が煌々と燃え盛る赤い(ほむら)を抱えている。その横に別室へと通じるらしい扉を見つけて、腰を浮かせば、服を着た男が彼女の前に立ち塞がった。カツンと黒革の長靴(ちょうか)が床を蹴る。
 一目で上質の布地とわかる彼の臙脂(えんじ)色の衣は、シュヴァーンの将が着ていた軍服に似ていたが――微妙に違う。
「お前は、存外に阿呆か」
 軽蔑したような声が頭上から冷たく降ってくる。
 今まで与えられたことのない侮蔑の言葉に、我が耳を疑い、息を呑んで目を見張るフィオレンティーナに、腰に剣を佩かせながら男は鼻を鳴らす。
「まあ、小賢し過ぎる女は面倒だから、丁度いい」
「……何なのっ?」
「本当にわからないのか」
 男が伸ばしてくる手から逃れようと、身をよじれば裸体を隠していた毛布が()ぎ取られた。
 部屋は十分に暖められているとはいえ、()かれた素肌は鳥肌を立てる。それは寒さよりも、何の躊躇(ちゅうちょ)もなく彼女を貶める男の冷酷さに怯えてのものだった。
 蒼い瞳が無遠慮にこちらを眺める。その視線に、フィオレンティーナは悲鳴を上げた。
「――いやっ!」
 四肢を縮め身体を隠し、震えるフィオレンティーナに、男は手にした毛布を投げつけてきた。
「その恰好で、逃げようなんて思うことが馬鹿げた事だと知れ」
 フィオレンティーナは目の前に落ちた毛布を慌てて胸元に引き上げ、男の目から無防備な身体を隠す。
 恐怖に奥歯を噛み鳴らす彼女に、男の腕が再び伸びてきた。
 逃げることの無謀を悟った身体は動けずに、絡めとられ寝台に押し倒される。粗末な寝台の木枠が乱暴に抗議するように軋む。
 横たわった彼女の上に、馬乗りになって、男は告げた。
 顎を掴まれ、視線を逸らせずフィオレンティーナは蒼い瞳を直視した。
「死ぬことは許さない。お前は俺のものだ。もっとも今は、凍った女を抱く酔狂(すいきょう)は持ち合わせていないがな」
 その言葉に彼女は、雪に埋もれ死にかけていた自分を目の前の男が助けたのだと知った。肌を重ねて眠っていたのは、凍った彼女を温めるためだったのだろう。
 襲う気はないと断言する言葉にホッと安堵するも、どこまでも冷酷な声音に、フィオレンティーナの背筋は冷たくなる。
 そして、彼女は男の正体を悟った。
「……あなたが……ディートハルト……」
 震える声が名を口にすれば、男の唇が残酷(ざんこく)な笑みを刻んだ。
「――ああ、そうだ。奴の代わりに、お前の夫となる男だ」
 ディートハルトの歪んだ唇に、ユリウスに対する底知れぬ憎悪をフィオレンティーナは見た気がした。


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