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 8,道化の悲哀


 ――何があった。

 雪原を抜け、次の町に入ると、赤毛の将校がフィオレンティーナとディートハルトを待っていた。
 帝国から乗ってきた豪奢な箱馬車とは比べ物にならない、それでも風雪を防げるだけましだと思われる馬車を背後に、将校はディートハルトの行く手を閉ざしていた。
 陥落した帝都からこちらへの道中に同行していた世話役の女性や軍人たちを背後に従えた将校を前に、ディートハルトは手綱を引き絞り、馬の歩みを止めた。道を塞がれているので、止めざるを得なかった。
 道を塞がれていなければ、彼らを無視して走り抜けていたのではないかと、フィオレンティーナは背後に聞いた舌打ちに思う。
「――何があった。先に行っていろと言っただろう」と。
 苛立ちをあらわに、不機嫌そうに吐くディートハルトを前に、赤毛の将校は悪びれた様子もなく、口を開いた。
「雪崩で潰れた馬車の代わりを調達していて手間取っていたら、お前たちが思いがけず早く到着したんだよ」
 そう言う将校の鼻先は赤く、軍服の上にまとった外套は、白く凍っていた。ここで二人を長い時間、待ち伏せしていたのだろうと、容易(ようい)に推測できた。
 馬上のディートハルトを見上げた将校の目が少し下がって、フィオレンティーナに向けられる。
 仮にも国王であるだろうディートハルトに対し、ぞんざいな言葉遣いをする将校に彼女が驚いていると、視線がかち合った。
 片眉が跳ねる将校のその表情に、彼女の方も眉間に皺を寄せた。
 しっかりとした体躯の巨漢。それに合わせたような頑強(がんきょう)そうな顎。太い首。いかにも男らしさを強調するような顔立ちであるが、水色の瞳が男臭い顔立ちの印象を和らげていた。
 淡々と、感情を見せない軍人かと思っていたが……そうではなかったようだ。
 フィオレンティーナは将校の顔を飾った感情に、思った。
 つまり、この将校にとって、フィオレンティーナという存在は無機質な物体であったのだろう。ディートハルトの元へ生かして運ばなければならない荷物だったのだ。
 ――死なせるな、と。
 逃走した彼女に対して叫んだ声や、道中、断食を敢行した彼女の口をこじ開け、食べ物を強引に喉に詰め込まれたことを思い出せば、フィオレンティーナは水色の瞳の直視に耐えかね、目を逸らす。
「……馬車を用意した。皇女をこっちに乗せたらどうだ? ついでに、お前……――陛下も」
 将校の言葉遣いが改まり、フィオレンティーナが何事かと目を戻せば、将校の顔が強張っている。彼の視線を辿れば、彼女の肩越しにディートハルトの瞳が冷たく臣下を見下ろしていた。
 自分にだけ冷酷な視線を向けるのかとフィオレンティーナは思っていたが、ディートハルトの凍える瞳は誰に対しても変わらない様子だ。
「風邪をひかれ、陛下に倒れられると、俺がフェ……――私が宰相殿に(しか)られます」
 気安い口調になった途端、蒼い瞳に睨まれる。鋭い眼光に頬を引きつらせながら口にする将校の説得に応じたというより、面倒くさくなったのだろう。
 ディートハルトはフィオレンティーナに「降りろ」と短く、言った。
「アルベルト、手を貸してやれ」
 との命令を受けて将校――アルベルトが手を差し出してくる。革の手袋に包んだ大きなその手を取って、助けを借りながら、フィオレンティーナは鞍から滑り降りた。
 肩越しにディートハルトを見上げると、馬上から冷たく見下ろして命令する。
「馬車に乗れ」
「陛下も」
「俺はいい。行け」
 フィオレンティーナはディートハルトの声に背中を押されるように、馬車へと向かう。馬車に近づけば、待っていた御者がドアを開けて、彼女を迎えた。
「――何があったんだ?」
 フィオレンティーナに続いて、監視するためか侍女が乗り込み、閉じられるドアの隙間から、アルベルトの声が入ってきた。
 ディートハルトに問いかけるその声に、外へと目を向ければ、蒼い瞳がフィオレンティーナを見つめていた。
 どこまでも真っ直ぐに、それでいて鋭く。刺すような瞳に毅然(きぜん)と視線を返せば、ディートハルトの唇が残忍に歪む。
 どこか勝ち誇ったような嘲笑に、フィオレンティーナは自分が何か間違いを犯しているような気がした。
 心だけは奪わせないと立てた誓い。けれど、ディートハルトと立ち向かおうと気を張れば、心は憎しみに染められ、ユリウスの存在が薄れる。
 それすらもディートハルトの思うつぼのようで、フィオレンティーナの胸の内は酷く荒れた。
 ――それでも、死ねない。ユリウス様の存在をこの世に繋いでおくために。
 奥歯を噛み締め、俯きそうになる背筋を伸ばす。
 馬車の外から視線を引きはがせば、同席した侍女の表情もアルベルトと同じように、驚いたような戸惑いを目の奥に浮かべていた。
 先日まで死を望み、廃人(はいじん)のようだったフィオレンティーナを見てきたアルベルトや侍女たちにすれば、今の彼女は別人のように変わっているかも知れない。
 シュヴァーンの人間であるアルベルトや侍女の視線は、フィオレンティーナを見下すように冷淡だった。
 敵国(カナーリオ)の女にかける情けはないと言い切るように、道中も粗雑に扱われた。そんな彼らの視線を前に、フィオレンティーナは自暴自棄(じぼうじき)な態度をとってきた。
 死んでも構わないという今までの態度と、何があっても生きようとする意思は、第三者の目にもはっきりとした違いを見せるのだろう。
 彼女を支える生気は、ディートハルトへの憎しみとユリウスへの愛情。
 二つが均等にあるうちはいい。ディートハルトへの憎しみに染まらぬようにしなければと、フィオレンティーナは己に言い聞かせる。
 何事も反発すれば、心が乱れる。目を瞑って、やり過ごせばいい。何なら、ディートハルトを愛したふりをして見せようか。ふりだけなら、幾らだってできる――。
 そう思い当って、フィオレンティーナは愕然と震えた。
 ユリウスが彼女に見せてくれた愛情が、ますます真実から遠くなる。
 ……ユリウス様も……。
 私を愛しているようなふりをしていただけではないのか?
 その可能性を今まで何度も考えた。騙されていても構わないと思った。
 けれど、今は。
 せめて、今は。
 ユリウスが差し向けてくれた優しい笑顔を、甘い言葉を、疑りたくはなかった。疑ってしまえば、足場を失う。
 道化であっても良かった。ユリウスが嗤うのなら、フィオレンティーナは道化を演じることに迷いなんて、持たなかっただろう。
 だけど、嗤ってくれる彼がいないのに、何故、自分は道化を演じるのか。
 ユリウスの存在をこの世に遺すために、演じる道化は誰を嗤わせるのか。
 フィオレンティーナがユリウスへの純愛を貫こうとすればするほど、その滑稽さはディートハルトを楽しませるだけではないのか。
 それは、ユリウスを侮辱することになるのではないのか。
 何が正しくて、何が間違いなのか。わからなくて、目の前が暗くなる。身体が震える。
『フィオレンティーナ、僕のティナ……』
 記憶にあるユリウスの声が遠くかすれる。
 ――ユリウス様っ!
 奥歯を鳴らして、縋るように己の肩を抱くフィオレンティーナの頬を突然、冷たい外気が叩いた。
 平手を入れられたような衝撃に我に返る。
 身を削られるような、尖った凍える風に顔を上げれば、馬車の扉が開かれ、こちらに身体を乗り出しているディートハルトがそこにいた。
 風に漆黒の髪を流し、蒼い瞳は冷ややかにフィオレンティーナを射抜く。
「――っ」
 声を発する間もなく腕を掴まれると、フィオレンティーナの身体は馬車の外へと引きずり出され、次の瞬間、馬上の人になっていた。
 後ろに、当たり前のようにディートハルトが収まれば、彼は馬首を巡らせ、馬車で塞がれた道の僅かな間隙(かんげき)をすり抜ける。
「何してるんだよっ!」
 後ろでアルベルトの怒鳴(どな)り声が聞こえたが、やがて疾走する馬は、一行を置き去りして街中を駆け抜けた。


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