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 9,染まる黒


 ――何を……。

 フィオレンティーナの戸惑う声を無視して、ディートハルトは馬を走らせる。
 彼女の蜂蜜色の長い髪が風にたなびいて、時折ディートハルトの頬を強かに打ったが、構わなかった。むしろ、(むち)打たれた馬のように高揚して、速度を上げる。
 アルベルトは今頃、悔し紛れの地団駄(じだんだ)を踏んでいることだろう。
 ディートハルトとその妃となるフィオレンティーナが彼より先に王宮に辿り着いたなら、護送役の任務を与えられたアルベルトの面目は丸潰れだ。皮肉屋として評判の宰相フェリクスが、ネチネチとうるさくさえずるに違いない。
 フィオレンティーナを出迎えに行くと言ったディートハルトに良い顔をしなかった男だ。アルベルトにたっぷり厭味(いやみ)をぶつけるだろう。
 故に悲愴に響いたアルベルトの叫びであるが、そもそも、護送をまともに務められなかった彼の失態に――雪崩は不測の事態だったとはいえ、フィオレンティーナを危うく凍死させかけたのは、容認しがたい――同情する余地などないだろうと、ディートハルトは幼馴染みを切り捨てた。
 幼馴染みと言うが、エスターテ城で頭を打ち、軽い記憶喪失に陥ってから彼に関する記憶が、ディートハルトの中には欠片にも存在しないのだ。
 そのことを告げると、「泣くぞ」とアルベルトは、本当に泣きそうな顔をして憤慨(ふんがい)してみせた。
 戦場では「赤獅子」と恐れられているらしいが――エスターテ城で負った傷を治癒するために前線から陣営に下がったディートハルトに代わって、アルベルトが指揮したシュヴァーン国王軍は帝国軍を後退させていったことから、指揮官としては優秀なのだろう――気を許した相手には、やたらと表情豊かで饒舌(じょうぜつ)になる巨漢の軍人だった。
 そんな性格を把握したのも、この二年の歳月。
 ディートハルトが謀反(むほん)を計画したとき、アルベルトは一番に盟約を結んだという。同じ罪に手を染めることに躊躇しないほどに、幼馴染みの絆は強かったと思われる。
 しかし、今のディートハルトにとって、アルベルトは臣下の一人にすぎない。やたらと口を出して来て、うるさいところは――アルベルトはお節介な性格で、フェリクスとは小言の矛先が違うが――宰相のフェリクスと似たり寄ったりだ。
 ディートハルトが玉座に就き、宮廷人事再編の際、当然というような顔をして宰相の地位に就いたフェリクスもまたアルベルトの従兄弟で、幼馴染みであったという。
 謀反を企み、王国乗っ取りを計画する時点で、三人は悪友関係にあったのだろうが、やはりディートハルトにはその辺りの記憶は曖昧だ。
 過去を思い出そうとすると頭痛がするので、できることなら、二人とは政務と関係のない場所では、顔を合わせたくないと思っている。
 そうして、ディートハルトはフィオレンティーナを抱いているこの瞬間、頭痛が止み、やけに鮮明な己の思考に確信を強めた。
 ――ずっと、欲しかったのは……。
 胸元に感じる熱に、唇が笑う。
 そうして先程、アルベルトと交わした会話をディートハルトは反芻した。

『何があったんだ? ――まるで、別人だぞ』
『別人?』
 何の事だと目を眇めて問えば、
『皇女だよ』
 アルベルトの視線は、馬車の中に腰を落ち着けたフィオレンティーナに差し向けられた。ディートハルトもそちらに目を向けると、アルベルトが語る。
『こっちへ来る間は、まるで抜け殻だった』
 こちらからの視線に気づいたのか、彼女の瞳が窓越しに返された。
 視線が絡まった刹那、怯むように揺れた翡翠は、やがて真っ直ぐにディートハルトを刺した。
 彼女の瞳はただディートハルトだけを映し、揺るがなくこちらを睨み返してくる。
 敵対する視線は、愛する者の面影を求めるものではなかった。
 その一瞬、彼女の心はユリウスではなく、自分一色に染まったと確信した。ディートハルトが暗い喜びに嗤えば、彼女の視線がそれた。
『今はちゃんと生きている感じがする……。でも、あれはヤバイだろ』
 慎重に言葉を紡ぐアルベルトをディートハルトは冷ややかに睥睨した。
『何がいけない?』
『あれは、恨みだ。お前を恨んで、支えている。まあ、敗戦国の皇女が敵国の人間に向ける感情なんて、一つしかないわけだが』
 フィオレンティーナの中に憎しみや恨みが生まれるのなら、ディートハルトにとってこれ以上、好都合なことはない。
 髪の色が違えど、姿形は双子のようだと、幼少の頃からユリウスとは比較された――いや、正確に言うなら比較することを拒否された、だろうか。
 あまりに似すぎた故に、近すぎた故に。
 施された教育のすべて、ディートハルトの方が上回っていた。なのに、教師たちはディートハルトの出来の良さを無視し、王位継承者であるユリウスを褒め称えた。
 出来が悪ければ諦めもついただろうが、周囲が気を使ったのは王子であるユリウスのご機嫌。当時はまだ、ヴァローナとの同盟に頼っていなかった王国の中心は、国王と王位後継者であるユリウスだった。
 そんな後継者の機嫌取りに必死な大人たちを嗤う余裕があれば、ディートハルトもここまでユリウスを憎むことはなかっただろうと思う。
 だが、幼少の彼は純情だったらしい――現在のディートハルトにとっては、ユリウスに関すること以外の記憶を失った今、過去に抱いていた己の感情すら、他人事のように感じる――無視されることに傷つき、切り捨てられたことに落ち込み、やがて歪み始めた感情は、年を重ねるごとに黒くよどんでいった。
 子供の頃から、王宮で顔を見合わせる度に、ユリウスはディートハルトの姿をなぞる。
 背丈も肩幅も、指の長さ、爪の形、声すらも、生き映したようにそっくりだった。
 従兄弟という血縁関係にあったとしても、あまりに似すぎていた。
 少年期になって、大人の事情を知るに従い、もしや国王と母が出来ていたかと疑いはじめた。しかしディートハルトから見た国王には弟の妃に手を出す度胸があったとは思えなかった――後々、帝国に無様に頭を下げた国王の姿勢からもわかるとおり、玉座にただ治まっているだけの男だった。
 逆に、ディートハルトの父が王妃に手をつけたのではと探れば、玉座を欲しながら、病に伏せった途端、気弱になった男は――その辺りは、兄弟似ている――ディートハルトに告解した。そうして、明かされた異母兄弟という事実。
 ディートハルトとユリウスは同い年だが、ディートハルトの方が、半年ほど生れが早い。
 それなのに、ユリウスは王位を継ぐ王子で、ディートハルトはいずれ彼の下に就く立場の人間だった。
 何かを成してもユリウスだけの功績に目を向け、ディートハルトの存在は黙殺される。そうして募る憎悪は、ユリウスがフィオレンティーナの婚約者に選ばれたときに、沸騰した。
 不義の子であるユリウスに、玉座に座る資格はない。なのに、王位継承者としてフィオレンティーナの婚約者に選ばれた。
 帝国の傀儡になる男が、何もかもを手に入れていく。それが許せなくて、ディートハルトは先代国王から玉座を奪った。
 ユリウスがカナーリオ帝国に囚われていた六年の間に、違う姿になっているだろうと思ってみれば、エスターテ城で対面した彼はまるで鏡に映したようだった。
 鏡の向こうで自分とは違う動きを見せる影を、どうして愛せようか。憎しみのままにディートハルトはエスターテ城で、ユリウスを殺した。
 憎悪はユリウスを殺し、記憶を失っても残っていた。まだ何も終わっていないと告げるように、頭痛がディートハルトを悩まし続けた。
 そうして、ユリウスに復讐するつもりで奪ったフィオレンティーナの心には、もっとも憎むべきユリウスが存在していた。
 だが、フィオレンティーナにこちらへの憎しみを植え付ければ、彼女の心は黒く染まる。
 ディートハルトの色に染まる。
 ユリウスの存在は塗り潰される。
 ――それこそ、最高の復讐ではないか?
 一つの答えを導き出しながら、ディートハルトはアルベルトに問う。
『最初からわかっていることを何故、問題にする? 今さら、俺の結婚に反対するとは言うなよ。お前もあの女の価値はわかっているだろう?』
 アルベルトがフィオレンティーナに向けた『いい女』発言を思い出せば、息をひそめていた鈍痛が蘇る。
 こちらへの道中、すっかり消えていたというのに……。
 フィオレンティーナを手放せば、警鐘を鳴らすように頭痛が響いて、脳髄を揺さぶられ、ディートハルトの頭蓋が軋みだす。
『わかっているが、あんまり不用意に近づけさせるなよ。寝首を掻かれかねないぞ』
『それができる女なら、面白いじゃないか』
 ディートハルトは歪んだ笑みを唇に刻み、アルベルトの忠告をその一言で切り捨てた。
『先を急げ。俺に倒れられたら、お前は困るのだろう?』
 馬上から冷たく命令を下せば、アルベルトは舌打ちして、踵を返す。宿屋で見せたように乱暴に立ち去る背中を見送って、馬車に視線を戻すと、フィオレンティーナが肩を抱いてうずくまるのが見えた。
 視界から彼女の姿が消えた――瞬間、ディートハルトは馬上から飛び降りていた。
 頭で考えるより先に、身体が動いて馬車の中から、彼女を引っ張り出し、フィオレンティーナを己の腕の中に抱いていた。

 黙々と馬を走らせながら、ディートハルトはフィオレンティーナの温もりに頭痛が癒される現実を確認する。
 ――ようやく……手に入れた。この女が復讐を終わらせる鍵だ。
 アルベルトはフィオレンティーナの内に宿る憎しみを危険だと言ったが、ディートハルトは憎まれても構わない。
 彼女の心を黒く染め上げ、そうしてユリウスからすべてを奪い、自分を悩ませる因縁と別れを告げる。


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