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お題提供・色彩の綾
番外編・この祈りを 

この祈りを

 ― 1 ―


 ――すまない……。
 悲しげに響かせた彼の人の声を遠い記憶の端で、ジュリアは思い出した。

 囚人の(おり)と化しているエスターテ城の日常は水底にあるように静穏であったが、帝都から賓客が訪れる際はざわめき立つ。
 皇太子と皇女の来訪に随従してきた馬たちの(いなな)きと、それを鎮めようとする兵士たちの声などからなる城外の喧騒を割って、その声は響いた。
『……すまない』
 砂色の髪が落ちる額の影で翡翠色の瞳に翳りを宿し、こちらを見下ろして来るリカルドをジュリアは見つめ返した。
 他人と比べると小柄な彼女は子犬のようだと揶揄(やゆ)される。すらりと背筋が伸び、均整のとれた体躯の皇太子の前では、ジュリアは少女のように幼く見えたことだろう。
 だからだろうか、この高貴な人が自分のような下層の人間に優しい言葉を掛けてくれるのは。
 リカルドの妹、フィオレンティーナよりジュリアは年が上だった。実際のところ、皇太子であるリカルドと年齢は変わらない。
 だが、二人が並んだところで、誰も同い年だとは思わないだろう。そもそも、王宮に仕えていたとはいえ下働きの女中であった自分が、大陸屈指の大国、カナーリオ帝国の未来を担うリカルド皇太子とこのように面と向かって言葉を交わしていること自体、何かの間違いではないかと思う。
 両親を亡くし、親戚の伝手を頼って王宮で職を得たとはいえ、出は平民だ。表立った楽な仕事は行儀見習いを兼ねた金持ちや貴族たちが占めている。
 後ろ盾などないに等しく、経験も浅いジュリアに与えられたのは王宮付き兵士たちの宿舎での洗濯係だった。日に何千という人間が出入りする城を警備する兵士たちの数もまた多く、洗濯物の量は想像を絶した。特に彼らは、皇族を守る任に当たるので、警備に付くとき以外は訓練に勤しんでいる。汗をかけばそれだけ洗濯物も増え、洗濯室のなかだけで片づけられるものではない。
 多少雑に扱っても構わない洗濯物は外に運ばれ、ジュリアのような下女が真冬の身も凍るような寒さの中、真水で洗濯物を洗っていた。
 帝都にある王城の端、高貴なお方の目に入ることのない水汲み場で白い息を吐き、荒れた手で、兵士たちの泥のこびりついたシャツやズボンを洗って働いていた自分が、彼の目に留まったのはいささかの偶然か、運命か。
 あの日から遠く離れた今、リカルドと再会が叶ったことに、運命という表現を使ってみたくなる。
 泥だらけの彼がジュリアの前に現れたとき、目の前の青年が皇太子であることなど、予想もしなかった。
 苦笑を浮かべて、水場を貸してくれと言ってきた青年――青年というよりまだ少年といってもまかり通るだろう彼は、寒さなどまるで感じていないかのように汚れたシャツを脱ぎ棄て土がこびりついた砂色の髪を洗うべく、水を頭から被った。
 ジュリアは慌てて、タオルと乾いたシャツを一枚、洗濯室から持ちだしてきた。恐らく、この青年もまた城の警備兵なのだろうと思った。それならばシャツを一枚、彼に融通しても文句は言われないだろう。
 水に濡れた髪をかきあげれば、秀麗な面立ちがあらわになる。整った顔立ちは健康そうに日焼けしているが、荒れた訓練で小さな傷をこさえている兵士たちとは異なっていた。
 こちらが差し出したシャツを「ありがとう」と受け取った穏やかな微笑みも、粗野な兵士たちとは違うように見えた。
 貴族のご令息だろうか。でも、兵士たちを束ねる上官ならともかく、城の警備につく者たちは平民出の者たちが殆どだ。泥だらけの格好はそんな平民出の兵士たちを思わせるが、どうにも目の前の青年とは結びつかなかった。
 そして、貴族であるというのも直ぐに信じられなかった。彼らは肩書きのない下女には目もくれない。姿など、見えないものとして扱う。シャツを差し出したジュリアに礼を口にするなんて、考えられなかった。短い人生経験でも、それを学ぶ機会がジュリアにはあったから。
 だから彼が、自分が着ていたシャツをジュリアの仕事を真似て、洗おうとしたときには目を剥いた。
『わたくしが洗いますっ!』
 今さら一枚、洗濯物が増えたところで手間は変わらない。それを寄越せと差し出したジュリアの赤い手を見下ろして、彼は首を振った。
『これは私の失態だからね。私に洗わせておくれ。ついでに、そちらの物も私が洗おう』
 青年は洗濯かごの汚れものを指差して言って来た。髪から水滴を滴らせ、見ているこちらが風邪をひきそうな気がしてくる相手に、仕事を押し付けて楽をしようなどと、どうして思えるだろう。
『そんな、これはわたくしの仕事でございます』
 どうにも得体の知れない青年が汚れものを引き取ろうとするので、ジュリアは小さい身体を張って洗濯かごの前に立ちはだかった。
『あなた様がどなた様であっても、わたくしの仕事を奪うことは許しません』
 そう言い放ったジュリアに、青年は目を見開き、それから楽しそうに微笑んで問いかけてきた。
『――皇太子リカルドの名を語る相手にも?』
 皇太子さまの名を出すなど、なんと不遜なと、絶句する。何千という人間が出入りする城で、ましてやジュリアには貴人が住まう本殿には出入りすることなど許されていない。城に務める者でも、限られた者だけにしか。警備の兵でさえ、直接拝顔叶う機会も少ないだろう、そんな雲上人なのだ――皇族という存在は。
 公正で思慮深いと噂される皇太子リカルドの評判は聞いていても、実際にその人の姿を目にする機会はなかった。
 それを承知して青年は飄々(ひょうひょう)と嘘をついているのだろうか、悪びれた様子もなく笑って続けた。
『では、私は君の助手ということで手を打たないか。このような手を見て、君に洗い物を続けさせては紳士ぶることも叶わない』
 青年の手がジュリアの手を包み込む。アカギレが出来て赤くなった指先はかじかんで、氷のように冷たい。先ほどまで水に浸していた青年の指も条件は同じはずなのに、彼女を包み込んだ手のひらは不思議と温かった。先程垣間見た鍛えられた肉体が、寒さを克服しているのだろうか。
『ですが……』
 青年の厚意は嬉しいが、それはこちらも同じだと思った。彼の寒々しい姿を見ていられない。
 そうジュリアが訴えれば、彼は苦笑しながら返してきた。
『二人で手分けすれば、それだけ仕事が早く済むな。それで妥協してくれないか。少なくとも私は君を一人、ここに置いて立ち去る気はないし、承諾してくれるまでこの手を放す気もないな』
 両手のひらで包み込まれた指先を引き抜くことが叶わずに、ジュリアは渋々と青年の提案を受け入れた。
 自称皇太子を名乗る青年と、冬の冷たい外気のなか、鼻先を赤く染めながら二人は洗濯をこなした。水を汲んで、冷たい水に指を浸し、汚れを洗い流して絞る。いつもより早く片付いてしまった仕事を何故か、「もう終わってしまった」と惜しんでしまったのは、作業の間に交わした会話が楽しかったからなのかもしれない。
 青年は『ちょっと興味があったから』と身分を偽って、兵士たちの訓練に入団志願者として混じっていたらしい。
『あまり目立つのもどうかと思って、手を抜いてしまったら、気合いが足りないと絞られたよ。うん、あれだけ厳しい訓練をしているのなら、安心だね』
 と、泥まみれにされるほど、厳しく当たられたというのに、彼の表情は明るかった。
 なんと前向きな人だろうと、ジュリアは彼の話を聞きもらすまいと食い入るように耳を傾けていた。
 どこか憎めない雰囲気を感じたときから、屈託なく微笑みかけてくれたときから、惹かれていたのかもしれない。
 後日、その青年が真実、リカルドという名の皇太子であったことを知ったときには、ジュリアはあまりの恐れ多さに三日ほど食事が喉を通らなかった。

 帝国辺境のエスターテ城への移動を上官から告げられたとき、もう二度と、リカルドには会えないだろうと思っていた。
 帝都に居れば、偶然にその姿を垣間見ることもできた。
 リカルドと最初の出会いから数日後、ジュリアは洗濯場担当から、城仕えの掃除婦に移動させられていた。
 洗濯担当の人間が数名雇われ、ジュリア一人が負っていた仕事も数名で分担された。一日がかりだった仕事も数刻で片付いてしまった。手持無沙汰になった彼女に新しい仕事が割り振られることになったのだ。
 それが王宮本殿の掃除婦。室内での掃除は水を吸って重くなった洗濯かごを持ち運び、冷たい水に何時間も指を浸していた苦労からすれば、かなり楽な仕事だった。
 それでも他の掃除婦たちから言わせると、大変なのだそうだ。ジュリアは反論せずに黙々と自分の新たな仕事に従事した。
 そうしていると、時折、リカルドの姿を王宮で見かけられた。多分、彼が洗濯場の人間を増やしてくれ、また自分に新しい仕事を割り振ってくれたのだろうと、ジュリアは確信した。
 皇太子に喰ってかかったことで罰則を覚悟していたジュリアだったが、リカルドの方からは何もお咎めはなかった。
 それどころか時折、人目をはばかるようにして、部屋の掃除をしている彼女の前に現われては、優しい笑みと共に労いの言葉をかけてくれた。
『ジュリアは小さいのに、よく働くな。君を見ていると、私も頑張らねばと気合が入るよ』
 その言葉がどれだけ自分の心を慰めてくれたか、きっとリカルドは知らないだろう。
 身内もなく、同じ掃除婦たちとも話が合わない。ただひたすら、仕事に身を費やすしか、孤独を紛らわすことができなかったのだ。
 己の境遇を嘆くのも、愚痴を吐くことも唇を噛んで、堰きとめた。嘆いたところで、亡くなった両親は還って来るわけではない。
 弱音を吐けば、動けなくなる。だからじっと耐え忍ぶ生き方を選んだ。
 他人から見れば不器用と(わら)わるようなその生き方を、リカルドの一言は肯定してくれていた。
 彼がくれる言葉が、ジュリアのなかで一つの想いを芽吹かせた。きっと、叶うはずのない想いだから、遠くから見つめていられたらそれで良かった。
 しかし、皇女フィオレンティーナの婚約者ユリウス王子の世話役として、エスターテ城に向かうことはリカルドの姿を遠くから見つめることもできなくなる。
 だが、上官からの申し出を断れるはずがない。
 王子に仕えるということで、ジュリアは侍女の肩書きを貰った。この肩書きは貴族出身の者でもなければ、ジュリアのような出自の者が口に出来るものではない。
 傍から見れば、出世と言っていいだろう。しかも、給金も倍以上に引き上げられた。
 そうは言っても、幽閉される王子と共に辺境の地に向かうのだ。家族がある者には、この話は持っていけなかったに違いない。間違いなく、貧乏くじでしかない。
 それでも、ジュリアの身上でこの仕事を失えば、未来はない。
 承諾し、王子を守る護衛官たちと共にエスターテ城へ向かった。
 リカルドとはもう会えない――そう思っていた辺境の地に皇太子は現われ、ジュリアを前にすると「すまない」と謝ってきた。
 悲しげに声を響かせて……。


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