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番外編・この祈りを

― 2 ―


 ――殿下?
 自分の声が戸惑っていたことも、覚えている。

『……殿下?』
 すまないと、謝って来たリカルドに対して、ジュリアは首を傾げた。
 その昔、掃除婦だった自分にリカルドが声をかけてきたこと自体も、本来ならあってはならないことだったのかもしれないが、皇太子が一介の侍女に何を謝るというのだろう。
 エスターテ城には最低限の人間しか配置されていない。故に周りの目に気を使うこともなく、廊下ですれ違ったジュリアに声をかけてきたのかもしれない。
 一国の王子の身の回りの世話をしているのだから、昔と違って声をかけやすい立場になったこともあるか。
 何にしても、帝都を離れてからかなりの時が経つ。
 それなのに、リカルドが自分を覚えていてくれたことに嬉しさを感じるとともに、彼から謝罪の言葉をたまわるに至った理由が見当たらない。
 困惑し首を傾げるジュリアに、リカルドは身を屈めるようにして、瞳を覗いてきた。砂色の髪がこちらの髪に触れそうだ。
『少し痩せたか、ジュリア? 仕事がきついようなら、人を回すよう手配しよう』
『……いえ、大丈夫です』
 ゆるりと首を振って、リカルドを安心させるようにジュリアは微笑む。
 実際のところ仕事自体、ジュリアには労はない。
 ユリウスは従順な囚人だった。捕囚としての運命を抗うことなく静かに受け入れているように見えた。
 最初の一年ほど、ユリウスは書を開いて、ただ諾々と時を過ごしていた。
 そんな毎日の繰り返しはどこか空虚であったけれど、ここのところの彼はリュートを奏で、護衛官である軍人のルキノ相手に剣の稽古(けいこ)をするようになった。言葉数も増えて、どこか作り物めいた印象があったけれど、表情も豊かになってきたとルキノと二人、ホッと胸を撫で下ろした。
 それは、婚約者のフィオレンティーナが、帝都から遠路はるばる駆けつけるようになってからだろう。
 ユリウスがフィオレンティーナから送られてくる手紙に小まめに返書しているのは、彼から手紙を預かるのだから知っている。王子が皇女からの手紙を受け取ると、幸せそうに微笑むのも。
 仕えている相手が憂鬱(ゆううつ)に沈んでいたり、陰気だったりすれば、ジュリアとしても精神的に辛かったと思う。ここには心を癒してくれたリカルドが存在しないのだから。
 しかし、ユリウスは穏やかに捕囚の生活を送っている。ジュリアもまた定時に沿って、食事や湯場を整え、着替えなどを用意する。
 直接、貴人の世話をするのは初めてだったので、最初の頃は緊張していたが、今ではユリウスがどういう時に何を欲しがるのか、おのずと察せられるようになってきた。
 帝都からフィオレンティーナが来た際は、皇女の世話をするのもジュリアの仕事だ。その時は彼女のご機嫌を損ねないかと心配した。まだ幼い皇女は、ユリウスの好意が自分にあるのかわからないらしく、嫉妬(しっと)をジュリアに向けてきたのだ。
 それはとても愛らしいものであるのだが、ジュリアとしてはリカルドの妹である彼女に嫌われると思うと、ギュっと心臓を掴まれたように苦しくなった。
 フィオレンティーナの翡翠色の瞳が、リカルドと同じだったからだろう。
 もっとも、年齢を重ねるに伴い、彼女は子供っぽい嫉妬を見せることはなくなった。少しずつ、思慮を覚え、魅力的に成長していっている。美しく育つ皇女の世話を出来るのはジュリアとしても喜びだ。
 フィオレンティーナの蜂蜜色の髪が艶やかに輝くように、丹念に梳く。彼女が輝いていられるように、それによってユリウスが捕囚生活のなかでも幸福を実感できるように。
 フィオレンティーナはリカルドと、性格もよく似ていた。
 自分が悪いと思えば、侍女であるジュリアに対しても素直に謝ってくれるのだ。そして、「ありがとう」と誰に対しても礼を口にすることにはばからない。フィオレンティーナは「フィオナ」という愛称をジュリアが口にすることを許してくれた。
 城に仕え始めた頃、うっかりと貴族の視界に入ってしまったことで、平手打ちの叱咤を受けたことがある。汚らしい姿を見せるなと、罵られたときから、ジュリアにとって貴族とは自分たちと住む世界が違うのだと思った。価値観も、常識も何もかも違う。
 彼らの視界に入っていいのは、許された者だけ。侍女という肩書はそれが許される立場であるけれど、ジュリアの出自はどう足掻いて見せたところで、平民の孤児だ。
 なるだけ彼らの視界に入らないように、分をわきまえるべきだろうと、立ちまわってきた。
 ユリウスもフィオレンティーナも、わがままを口にしてこちらを困らせることはない。
 ジュリアに優しい言葉を掛けてくれた。真正面から、向き合ってくれる。
 自分は主人に恵まれていると、ジュリアは思う。この地ではリカルドの姿を見ることは叶わない。しかし、二人に仕えることに辛苦を覚えたことはない。
 それに今、リカルドはジュリアの前にいる。昔と変わらずに自分を覚えていてくれて、気遣うような言葉をかけてくれる。
 それだけでこの数年の寂しさも癒されことを実感すれば、ジュリアは自分の想いを確信し、願う。
 ――報われなくても一向に構わない。神よ、どうかこの方を慕う心をお許しください。
 胸の内で秘かに祈るジュリアに、リカルドは「そうか」と安堵を滲ませて、ようやく愁眉(しゅうび)を開いた。
『どうか、されたのですか?』
『えっ?』
『何か、憂い事でも? 姫様に何かあったのでしょうか?』
 胸騒ぎを覚えて、ジュリアはリカルドを見上げて問う。
『フィー?』
 目を瞬かせて、リカルドは妹姫のもう一つの愛称を口にして問い返してきた。その態度から見るに、憂い事はフィオレンティーナに関することではないらしい。
 リカルドはフィオレンティーナを「フィー」と兄妹間だけの愛称で呼ぶ。ジュリアなどから見れば、仲のいい兄妹を微笑ましく感じるのだが、甘やかし過ぎではないかと大人たちが呆れるほどに、彼は妹を目のなかに入れても痛くないほどの溺愛していた。
 今回、リカルドが帝国北部の視察にかこつけて、エスターテ城の訪問を決めたのは、フィオレンティーナをユリウスの元へ連れてくるためだったのではないか。
 先のフィオレンティーナの訪問の際、父である皇帝は彼女が頻繁にエスターテ城に赴くのを快く思っていないらしいと、話してくれていた。
 年を重ね美しくなっていくフィオレンティーナを見れば、父親として心配もあるだろうか。
 ユリウスとフィオレンティーナは、ジュリアの目から見ても仲睦まじく愛し合っているように見える。国同士の政略結婚であったことなど、忘れてしまうほど。しかし二人の正式な婚姻はまだまだ先であるから、二人の情熱が走り過ぎて結婚より先に既成事実が明るみになることを――結婚より先に、子が生まれてしまうこと――皇帝は危惧しているのだろう。
 それは皇帝の杞憂(きゆう)でしかないとジュリアは思う。
 ユリウスもフィオレンティーナも己の身を弁えていた。
 婚前の関係を好ましく思わない風潮を二人とも承知している。そんな二人の結婚式はカナーリオ帝国とシュヴァーン王国の国民に大々的に祝福されるものなのだから。
 第一に、ユリウスは婚約者とはいえ、現在はエスターテ城の囚人だ。皇帝に身柄を握られている立場で、皇帝の意に染まらぬことをすれば身は危うい。
 反意を見せれば、二つの国の関係が危うくなるばかりか、フィオレンティーナとの婚約も破棄(はき)されるかもしれない。今のユリウスに、婚約破棄を望む意思がないことは傍で仕えるジュリアが誰よりも理解しているつもりだ。
 だからこそ、ままごとみたいな恋人たちの日々をジュリアやルキノ、そしてリカルドも見守っているのだ。
 二人が共に在れる日を無事に迎えられるように――と。
 その関係で、帝都にいる皇帝の心配が何か度を越しているのではないかと、ジュリアは心配してしまった。
 賢帝と謳われる皇帝だが、リカルドと同じくフィオレンティーナに甘い一面を見せている。
 皇女がエスターテ城に向かうことを快く思わない反面、フィオレンティーナがこちらへの道中に危険がないようにと護衛をつけているのだ。娘には逆らえない、父親の一面を覗かせていた。
 いえ、もしかしたら、皇帝陛下の危惧は、婚約者同士が親密になり過ぎることではなく、姫様の御身を心配してのことなのかもしれない――ジュリアは複雑な親心に思いを巡らせる。
『……例えば、ジュリア』
 リカルドの手がジュリアの肩越し、壁に手をついた。あまりに近い距離に気がついて、一歩下がろうとすれば背中が廊下の壁にぶつかる。
 横に距離を取ろうとしたジュリアの行く手を遮る意図があったのか、無意識か。リカルドのもう片方の手が壁に添えられて、ジュリアは皇太子の二本の腕が作った檻のなかに囚われてしまった。
『私が心配していたのが、他でもない君のことだと言ったら、驚くかい?』
『……えっ?』
 今度はジュリアが目を瞬かせて、問い返す。
『わたくし、何かそそうをいたしましたか? もしや、フィオナ様にお口に合わないものを差し上げていることで、皇帝陛下のご不興を買ってしまったのでしょうか。ですが、ニンジンは――』
『あ、いや、ニンジン?』
 目を丸くするリカルドに、ジュリアはフィオレンティーナのニンジン嫌いを克服すべくあえて食事にそれを出していることを言い訳するように口にしていた。後々に考えれば、賢帝と謳われる皇帝がそのような些細なことに目くじらを立てるはずがないのだが、このときのジュリアはフィオレンティーナの世話役から降ろされるのを恐れた。
 リカルドに似ているというだけではない。ジュリアは愛らしい皇女が好きになっていた。このエスターテ城で時を過ごす間はフィオレンティーナに仕えていたい。
『ああ、一応、ユリウス王子には手紙で知らせていたのだけれど。ジュリアは聞いてないか。いや、それは当然かな』
 リカルドはフィオレンティーナのニンジン嫌いの発端となった、幼少時の毒入り事件を語ってくれた。
『話を通しても、それでもフィーはニンジン嫌いを克服しようとしているんだろう。そのことで、ジュリアにお咎めがあるはずがない。安心していいよ』
 リカルドがそっと微笑めば、ジュリアの緊張もほぐれた。ホッと安堵の吐息をこぼす彼女の様子があまりにあからさま過ぎたのか、リカルドが声を立てて笑う。
 揺れる肩に檻が解かれたのを見て、ジュリアは皇太子との間に距離をとった。
 あまりに近いと、胸の奥で騒いでいる鼓動(こどう)がリカルドの耳に届きそうだった。高貴な身の上の彼が、平民出の女に慕われていると知って、いい気はしないだろう。
 いや、彼はきっとそんなことでこちらを見下げてくることはない。だが、叶わぬ想いであるのだから、己の胸の内だけに留めておきたい。胸元に手を当てて、動悸を鎮めようとするジュリアを見つめて、リカルドは小首を傾げる。
『どうしてそう、君は他人のために尽くせるのかな?』
『えっ?』
『例えば、自分のことを優先しようと思わないのかい? 本当はこの地に来ることは気が進まなかっただろう?』
 一瞬、自分の気持ちが見透かされたようで、ジュリアは喉の奥で息を呑んだ。
 確かに帝都を離れたくはなかった。リカルドから――目の前にいる彼の姿を少しでも垣間見る機会を失くしたくはなかった。
 けれど今は……。
『わたくしは姫様や王子にお仕え出来て、幸せです』
 ジュリアは翡翠の瞳を真っ直ぐに見つめ返して、告げた。
 リカルドが愛する妹姫の幸せを、自分も共に願う。身分差のある己の恋に、恐らくジュリアに許されることはその程度のことだ。
 だから、この手でフィオレンティーナとユリウス、二人の恋人たちの日々を守れることがこの上なく、幸せだと感じられる。
『……ジュリア。己の境遇に愚痴(ぐち)を漏らさず、他人の幸せを願える君の強さは、凄いと思うよ。出来れば、私は傍で君を見ていたかったけれど』
 そう言った後、リカルドは「すまない」とまた謝罪の言葉を口にした。
『殿下?』
 首を傾げたジュリアに向かって、リカルドが何かを口にしかけたとき、彼を呼ぶ声が聞こえた。
『――皇太子殿下、出立の準備ができました』
 近づいてくる声に、ジュリアはもう一歩、距離をとって頭を下げてリカルドの護衛官と目を合わせないようにした。
 リカルドの方から声をかけてきたとはいえ、一介の侍女が皇太子と同じ目線で気安く会話するなど、傍から見ればやはり許されることではないだろう。
 もしかしたら、帝都で自分たちのこのような会話を目にした者があったのだろうか。それ故にリカルドから遠ざけられたのだろうか。リカルドはそれを知って、謝っているのだろうか。
 どんな理由があったとしても、ジュリアはエスターテ城に赴くことになった自分を不幸だと思わなかった。
 リカルドに忘れられたと思っていたが、今も変わらず自分を覚えていてくれたこと。それを知ることができただけで、これから先も生きていける。
『わかった、直ぐに行く。先に行っていてくれ』
 リカルドは護衛官に口を挟む猶予を与えることなく追いたてると、ジュリアを肩越しに振り返った。
『また、()えることを願っているよ、ジュリア。君も私と同じ気持ちだと嬉しいね』
 穏やかに微笑む彼につられ、ジュリアも笑みを浮かべる。
『はい、無事にご帰還なされることをお祈りしています』
 ジュリアはリカルドの言葉に頷いた。彼はこれから北部を視察に周り、それから再びエスターテ城に寄って、フィオレンティーナを連れて帝都に帰る予定だ。その際にもう一度、リカルドの姿を目にすることができるはずだった。
 期待に胸を膨らませるジュリアに、リカルドは苦笑した。
『いや……うん、まあ。今はそういうことにしておこうかな、でないとこのまま連れ帰りたくなる』
『えっ?』
 小首を傾げるジュリアに、リカルドは「何でもない」と笑った。
『――では、ジュリア。フィーのこと、よろしく頼むよ。君に任せておけば、安心だ』
『はい、お任せください』
 頷いて顔を上げたジュリアに、リカルドが身を屈めてくる。さらりと砂色の髪が音を立て、翡翠の瞳が間近に迫る。吐息が肌に触れた。
 両腕を柔らかく掴まれ、動けなくて硬直する彼女の額に彼の唇の熱が軽く撫でるように掠めたのを感じた瞬間、ジュリアの頭の中は真っ白に染まった。

『――ジュリアに、神のご加護があらんことを』

 リカルドの祈りの言葉が遠く響いてジュリアが我に返れば、皇太子の背中は廊下の端に消えていた。

 今でもあの日、彼が与えた動揺と額に触れた微かな熱を思い出せる。
 そうして考える。
 もしもあの時、神に祈りを捧げていれば、リカルドのその後の未来を変えられただろうか――と。


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