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――ジュリア……?
名前を呼ばれて、意識が現在に戻されるのを実感した。
「……ジュリア」
遠くに聞こえた声に導かれるようにして、茫洋とした記憶の彼方から目を覚ます。震える睫毛の向こうに翡翠色の瞳を見つけて、ジュリアは思わず彼の名を呼びそうになった。
――リカルド様……。
しかし開きかけた唇は、焦点が結んで明確になった視界に映る翡翠の瞳の持ち主がフィオレンティーナであることを認識して閉ざされた。声は喉の奥で儚く消えた。
「起こしてしまったかしら? でも、辛い夢を見ているのではないかと思って……」
フィオレンティーナが身を乗り出して、こちらに手を伸ばしてくる。白い指先が火照った頬に触れれば、ジュリアは自分が泣いていることに気づいた。
「わたくし……」
慌てて起き上がろうとすれば、腰の辺りに重量を感じた。起こした上半身でその正体を確かめれば、彼女の膝を枕にして双子の王子たちがすやすやと寝息をたてて眠っている。
フィオレンティーナのまだ幼い息子たちの子守をしていて、自分もまた眠ってしまったことをジュリアは知った。
「申し訳ありません、フィオナ様。わたくし――」
「謝らなくても大丈夫よ、ジュリア。ここは暖かいから、眠くなってしまったのね」
シュヴァーン王国の冬は雪深い。今も窓の外はしんしんと雪が降り続いている。子供たちが不用意に近づかないよう柵を置いた向こうで暖炉に点された赤い炎が揺れ、薪が爆ぜる。
暖炉の前に敷いた毛足の長い絨毯の上に、フィオレンティーナはジュリアと向かい合うように腰を下ろす。
穏やかに微笑むその面が、夢に見たリカルドの面影に重なる。
翡翠色の瞳を覗けば、男女の違いがあるので、リカルドとフィオレンティーナの顔立ちはさほど似ていない。だが、全体的な印象は良く似ていた。寛容さや率直さ、そして芯の強さ。
フィオレンティーナを見ていると、どれだけ時が過ぎようと、彼の声を鮮やかに思い出せる。
『――ジュリアに、神のご加護があらんことを』
リカルドが祈ってくれた言葉がジュリアの胸の内側で響く。
あの後、視察を終えたリカルドはエスターテ城に立ち寄ったが、慌ただしさに彼と言葉を交わすことが叶わなかった。フィオレンティーナと二人、馬車に乗り込む際、見送りに出たジュリアに気づいて、微笑みかけてくれたその姿が、ジュリアが覚えているリカルドの最後の姿だった。
再会の機会を得ないまま、シュヴァーン王国軍のエスターテ城襲撃を開戦の狼煙として、二国間で戦争が起こった。
エスターテ城の陥落でジュリアは捕虜として囚われ、シュヴァーン王国に送られた二年後、帝都陥落と、皇帝と皇太子処刑の報を聞かされた。
――フィオレンティーナ皇女を後宮にお迎えします。貴女にはその準備を。
シュヴァーン王国にやって来たジュリアは、ディートハルトの負傷に伴い、前線の指揮をアルベルトに任せて王国に戻っていた宰相のフェリクスの保護を受けていた。
いずれ、フィオレンティーナをディートハルトの妃として迎える。そのために生かされたのだと、フェリクスは顔を合わせれば口にした。
今振り返れば、フェリクスはそう告げることによって、絶望に崩れそうになっていたジュリアの生を繋いでいたのだろう。
もし、フェリクスの言うことが本当になったとき、フィオレンティーナをこの国で守れるのは自分だけだ。そんな日が来ないことを祈りつつ、それでもジュリアは周りから辛く当たられる日々を、万が一のときのために唇を噛んで耐え忍んだ。
そして恐れていたことが現実になった日のことを思い出せば、今でも身体が震える。
思わず肩を抱くジュリアに、フィオレンティーナは眉を寄せた。
「寒いの、ジュリア? ちょっと待っていてね」
すっと軽やかに立ち上がると、フィオレンティーナは隣室へと続く扉の向こうに消える。
王子たちが生まれると、ディートハルトは王宮の端に、この小さな離宮を建てた。
片手の指で事足りてしまう部屋数の離宮には極力人を立ち寄らせず、使用人はジュリア一人で、手が足りないところはフィオレンティーナが自ら掃除など、買って出た。まだ料理などをする手つきは危ういが、その他のことはなかなか板についてきている。
初めは王妃である彼女が家事に手を出すことをジュリアは反対した。自分に全てを任せてくれと訴えるジュリアに、フィオレンティーナは微笑みながら首を振った。
『ありがとう、ジュリア。でもね、私はもう無知であることに甘んじたくないの』
真っ直ぐにこちらを見つめて、彼女は言った。
『私には守りたい人があなたを含めて、沢山いるのよ。その人たちを守るために、私は多くのことを知りたいの』
フィオレンティーナにリカルドの面影が重なるのは、そんな時だ。
皇太子であるリカルドは自らの視野を王宮のなかだけに狭めることを拒んだのだろう。そうして、身を偽り兵士のなかに紛れ込んで、彼らの実態を確かめたり、遠く北部まで視察に回ったりしていた。
そうすることで、リカルドはジュリアとの身分の垣根を越えて、こちらを見てくれた。その在り方を受け止めてくれた。
自らの手で学んでいくフィオレンティーナは、シュヴァーン王国の王妃としてだけではなく、この離宮の女主人としても逞しくなったと感じさせた。
ディートハルトやフェリクスなどは、王子たちに甘く悪戯をする双子をなかなか叱れずにいるが、フィオレンティーナはぴしゃりと「悪戯する子は、お母さまが許しません」と叱りつける。
何をすれば危なくて、何が安全なのか、彼女は一つ一つ自らの手で学びとっているから、叱ることに対しても説得力があった。
「あのね、これをジュリアに渡そうと思っていたの」
隣室から戻って来たフィオレンティーナの手には毛糸で編まれたショールがあった。柔らかい色に染められ、網目も丁寧なそれは見た目からも暖かい。
フィオレンティーナはショールを広げると、ジュリアの背中をそれで覆った。
ふわりと羽のように軽やかに柔らかく、ショールはジュリアの肩を包み込む。
「わたくしに……?」
「そう。私、料理はまだ苦手だけれど、手芸は得意なのよ」
王侯貴族の娘が厨房に入ること自体あり得ない話だから、本来なら料理が下手でも構わない。ただ刺しゅうなどは、貴族の間でも習い事の一つとして嗜む。フィオレンティーナ自ら、刺しゅうしたものをユリウスに贈っていた。彼女のその腕前はジュリアも承知している。
だが、得意だからとおざなりの手つきで編まれたものではないことは、丁寧に編み込まれた花模様などを見れば、一目瞭然だ。
「ジュリアには沢山助けて貰ったから、こんなものじゃ足りないと思うけれど。私のせめてもの気持ちをあなたに受け取って欲しいの。いつも、私を助けてくれて、ありがとう。ジュリア」
微笑んで告げたフィオレンティーナに、ジュリアの瞳から涙がこぼれた。
この国に連れられてきた頃の彼女は見るも痛々しく、何が何でもフィオレンティーナを守らなければならないと、ジュリアは決意した。
しかし、今は守っていたつもりが、いつの間にか自分が守られている。
この身を包み込んでくれるこの温もりが、何よりもその証だろう。
肩を包み込む柔らかな温もりに、ジュリアは長い間凍らせていたものが溶けるのを実感した。
――姫様で良かった……っ!
ぽろぽろとあふれる涙を堰き止めようと、顔を両手で覆って、ジュリアは思う。
リカルドの愛した妹姫が、ユリウスの愛した婚約者が、ディートハルトの孤独を癒した姫が、自分が仕える主が――フィオレンティーナで良かった、と。
ディートハルトの所業を最初からジュリアとて、許せたわけではない。
傍に仕えていたことで、リカルドやユリウスの善良さをジュリアは誰よりも知っていた。
その彼らがどうして、命を潰さねばならなかったのか。
ジュリアは神に問い、ディートハルトに天罰が下るよう呪った一瞬もあった。
その後、フェリクスなどから漏れ聞いた話で、ディートハルトの境遇と孤独も理解できた。
誰かに縋らなければ生きられないほどの孤独と絶望を――ジュリアもまた知っていた。
敵国の人間がただ一人、シュヴァーンで生きて行くのは、辛かった。フェリクスが周囲に目を光らせて保護してくれていたとはいえ、彼には政務があり、ジュリアの傍に付いていて守ってくれていたわけではない。
口汚い言葉で罵られたことがあった。雪が降りしきる外に締め出され、命の危険を覚えたこともある。リカルドやフィオレンティーナを侮蔑され、呪いの言葉で汚された。
何度、死のうと考えただろう。実際に冷たいナイフの切っ先を己の喉に当てたこともある。
その度に、リカルドの言葉を思い出した。
フィオレンティーナを頼むと、彼に託された言葉が胸に蘇れば、ジュリアはまだ死ねないと、命を繋いだ。
リカルドの言葉が、彼との思い出が、ジュリアを支えてくれた。
だから、ディートハルトのことを心底、憎めなかった。彼が全ての発端だとしても、そのせいでリカルドが死に追いやられたとしても、同じ孤独を共有してしまったから。
そして、彼は真剣にフィオレンティーナを求めていた。彼女をシュヴァーンに連れてきてからは、それまでの傍若無人さは影をひそめ、フィオレンティーナの心が砕けてしまわないよう細心の注意を払っているようだった。
結婚の儀を終えても夫婦としての営みを無理強いせず、心が解されるのを辛抱強く待ち続けていた。
ディートハルトがフィオレンティーナを想う心は間違いなく真実であった。
敵だった。しかし、フィオレンティーナを守るという一点では、彼は他でもなく同士であったのなら、その存在を否定することなど、ジュリアには出来なかった。
フィオレンティーナがディートハルトに心を許したのも、彼女もまた真実を見極め、彼の孤独を知ったからだろう。
それを心の弱さだと言うのなら、自分もまた弱い。だが、違うはずだ。憎むよりも許すことのほうが、迷いもあり難しかった。
同じようにフィオレンティーナは己の瞳で、ディートハルトの人となりを見つめ、自分が背負うもの、自分が成すべきことを熟考し、生きることを選んだのだ。
ディートハルトに嫁ぐことを彼女が厭い、ユリウスに殉じることを選ぶのなら、ジュリアはフィオレンティーナとともに命を断っても惜しくないと思っていた。
リカルドが居ない世界に、フィオレンティーナを苦しめてまで、生き残っていたくはなかった。それでも、フィオレンティーナは自分を守ると言ってくれた。帝国の民のために生きることを選んだ。
その決意を愚かだと言ってしまうのなら、国と共に殉じたリカルドの存在はあまりに虚しい。
皇太子であること、皇女であること。その運命をリカルドは命乞いをすることなく決然と処刑を受け入れ、最期まで背負おった。フィオレンティーナはこれからも背負い続ける。
そんな二人であったから、ジュリアは彼らに仕える自分を誇りに思えた。
そして今、リカルドが居ないこの世界に自分が生きていることを素直に喜べるのは、他でもないフィオレンティーナがいるからだ。
ディートハルトや二人の息子たちに囲まれて幸せそうに微笑む彼女がいるから、自分が選んだ道が間違いではなかったと思える。
子煩悩なディートハルトの姿を穏やかな気持ちで見つめることができた。
他の誰かであったら、自分は生きていることをこれほど喜べただろうか?
「……ジュリア?」
小さな声が名を口にする。
涙で滲む瞳を凝らせば、嗚咽が眠りを妨げてしまったのか、ジュリアの膝の上で小さな二人の王子たちが起き上がり、彼女を不安そうに見上げていた。
「かなしいの、ジュリア?」
蒼い瞳の王子ユリウスが小首を傾げる。その隣で、翡翠の瞳を持つ王子リカルドが背伸びをして小さな手で、ジュリアの頭を撫でてきた。
「泣かないで、ジュリア」
額に触れた手のひらの温もりが、リカルドが触れた唇の熱を思い出させた。
『――ジュリアに、神のご加護があらんことを』
リカルドが口にした祈りの言葉。それが神に聞き入れられ、自分の生に繋がっているのなら――ここに生きている自分は、リカルドの再会を求めた願いによるものではないだろうか。
彼が居ない世界に、生き残っているその意味を何度問うたことだろう。フィオレンティーナを守るため、何度心に言い聞かせたことだろう。
けれど、すべては今に繋がるべくして、在るのかもしれない。
フィオレンティーナを通じて、リカルドの遺志は、願いは――いつまでも遠く果てなく、未来へと続いて行く。
いずれ、懐かしき名前を継いだ二人の王子が、リカルドの遺志を継いで、争いのない世界を作っていくのだろう。
彼が育ててくれた想いと共に、これから先も自分はそれを見守っていくのだ。
時を経て、祈りは実を結ぶ。
それを実感したジュリアの脳裏で、リカルドが微笑んでくれた。
――リカルド様。
ジュリアは心配そうにこちらを見つめる瞳に微笑みかける。
「悲しくて、泣いているのではありません。ジュリアは……嬉しくて泣いているのです」
リカルドの面影を、フィオレンティーナと二人の小さな王子たちに重ねながら、ジュリアは告げた。
「嬉しくて、泣いているのです」
――あなたにまた、逢えたから。
「この祈りを 完」
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