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 12,懐かしき再会


 ――姫様っ!

 ディートハルトに再び引っ張られ、連行された部屋で、フィオレンティーナは思いがけない顔を見つけた。
「――ああ、フィオナ様、フィオレンティーナ様っ!」
 兄やユリウス以外の者たちが使っていた「フィオナ」という愛称を口にして、立ちすくんでいるフィオレンティーナの腰にしがみついてきたのは、
「……ジュリア?」
 確かめるように問えば、抱きついた姿勢からジュリアが顔を上げる。
 小さな顔は年齢よりもずっと幼く見せる丸顔で、さらに栗色の瞳が子犬のようにくるりと丸い。背丈もさほど大きくない彼女の、せせこましく働く姿をフィオレンティーナは感心しながら、どこかで羨ましく思っていた。
 七つ年上のジュリアは、フィオレンティーナがエスターテ城に滞在する際、身の回りの世話をしてくれた侍女だ――エスターテ城への訪問は公式なものではなかったから、供は護衛として腕の立つ男たちばかりで、身の回りの世話をしてくれる者はいなかった。そこでジュリアが世話をしてくれた。
 侍女の同行を許さぬことで、皇帝はフィオレンティーナの行動を制限しようとしたのだろうが、無駄だった。
 さすがに、護衛を付けずに辺境へ向かうのはフィオレンティーナとて皇女という身分から無謀だと承知していた。結果的に、護衛の者たちの都合がつく場合にのみ、皇帝はフィオレンティーナのエスターテ城訪問を許してくれた次第だった。
 フィオレンティーナがエスターテ城に滞在していないとき、ジュリアはユリウスに仕えていた。
 寝床から起き上がれば衣服を用意し、食事の用意を整え、甲斐甲斐しく世話してくれるジュリアを眺め、同じようにユリウスの世話をしているのだろうかと思えば、幼い心で彼女に対し嫉妬(しっと)心を持ったこともある。
 年に数回の滞在で、ジュリアとは心を分かち合うほど、付き合った覚えがないフィオレンティーナであったが、涙に濡れた栗色の瞳を前にすると、胸に込み上げてくるものがあった。
「よくぞご無事で――神よ、感謝いたします」
 フィオレンティーナの手を取ると、ジュリアは膝をついて、手の甲を額に押し付け泣き崩れた。栗色の瞳からこぼれた大粒の涙が絨毯(じゅうたん)の上に弾ける。
「ジュリアこそ……無事で、何よりです。……今まで……」
 驚きと感激に言葉を詰まらせながら、フィオレンティーナは声を絞り出す。
 シュヴァーン王国の侵攻で、エスターテ城は真っ先に陥落した。その際に、城にいた者たちのその後など、彼女の脳裏には片時も存在しなかった。
 ユリウスの消息を心配し、それだけで頭がいっぱいだった。その後、シュヴァーンとヴァローナの同盟軍が帝都に迫りつつあったため、自分の身が危なかった。
 考える余裕がなかったとはいえ、我ながら何と薄情な主君だろう。
 このように涙を流して、心配して貰う価値が自分にあるのだろうか。
 ジュリアの小さく震える肩を見下ろして、フィオレンティーナは胸の奥を疼かせた。
 唯一生き残った皇族として、務めを果たそうとするのなら、国を再興させることが民に対する恩返しだろうか。
 しかし、帝国を再興させることなど、彼女の手には余りある。
 第一に再興させるとするなら、シュヴァーン王国だけではなくヴァローナ王国からも領土を取り返さなければならない。
 帝国の兵がどのくらい生き残っているのか、彼らに戦う意思があるのか、そんなこともわからない以上、フィオレンティーナは動けない。国の再興など無理だ。
 何もできない己の不甲斐なさに、唇を噛む。
 それから目の前にいるジュリアの存在を確かめるように、声をかけた。
「ジュリアは、いつからここに?」
「姫様の世話係にと、二年前にこちらに連れてこられました」
「……二年」
 シュヴァーンがエスターテ城を攻めたときから、ディートハルトは自分をここへ連れてくるつもりだったのか……。
 フィオレンティーナは驚愕に急かされるよう、少し距離を置いて、こちらを見つめるディートハルトを振り返った。
 彼の瞳は、つまらない芝居を前にした観客のように、無感動だった。目の前の光景を面白がるわけでもなく、かといってあきて席を外すわけでもない。
 蒼い瞳はガラスのようにフィオレンティーナを映していた。
 何を考えているのかわからない底知れなさは、フェリクス以上のように思える。
 いや、ディートハルトのユリウスへの憎悪は明瞭(めいりょう)だ。ただ、恨みのぶつけ方が直情的であり、思考が歪曲(わいきょく)的なのだ。
 理解しかねる論理で、彼はユリウスへの復讐を果たそうとしている。
 ユリウスを殺しておきながら、彼の婚約者であったフィオレンティーナを生かそうとする。それはユリウスの元に彼女を逝かせないことで、彼から婚約者を奪うということ。
 死後にまで干渉しようという、ユリウスへの憎悪の深淵は、底が見えない。
 ――何故、そんなにまでユリウス様を憎むの……?
 ディートハルトにきつく抱きしめられたとき、答えを見つけた気がしたが、まだ自分が理解できない根深いものがあるように思えた。
 見つめるフィオレンティーナの視線に、ディートハルトが返す視線はやはり冷たい。
 ユリウスのような慈愛に満ちた温もりは欠片にも存在しない。
 額に落ちた漆黒の髪の間、蒼い瞳はフィオレンティーナの影を映して、口を開いた。
「湯を用意しろ。着替えさせて、俺の元へ連れて来い」
 投げられた言葉に、ジュリアは小さい肩をびくりと震わせた。
 そうして、フィオレンティーナの顔を見上げてくる栗色の瞳には、恐怖と絶望がないまぜになっていた。
 二年前からフィオレンティーナを手に入れようとしていたディートハルトの執着は、生かされたことでジュリア自身、よくわかっているのだろう。
 そうして、ここにフィオレンティーナが連れてこられたことで、彼女にはもう逃れる術がないことも理解している。
「……あっ」
 湯浴みをし、ディートハルトの元へ送り出すことで、フィオレンティーナが失ってしまうものがあることも、ユリウスへのフィオレンティーナの思慕(しぼ)も、彼女は当然熟知している。
「姫様……」
 だからこそ、最後に背中を押す役目を負った自分に、ジュリアはどうしていいのかわからないのだろう。
 薄情な主君であったのに、フィオレンティーナの無事を涙して喜んだ彼女には、耐えかねる罪科(ざいか)に違いない。
 自分だけならまだしも、ジュリアすらも追い詰めるディートハルトの冷酷さに、フィオレンティーナは激情に震える唇を噛んだ。
「――聞こえなかったのか?」
 低く押し殺した声が、ジュリアに投げられる。
 繋いだ手のひらから、ジュリアの押し殺そうとしても殺せない震えが伝わってきて、フィオレンティーナは逆に心が凪いで行くのを実感した。
 己の心と向き合い、震えるジュリアの手を己の手のひらの中に包み込んだ。
 二人とも緊張や恐怖を抱えているせいか、指先が酷く冷たい。それでも、手のひらを重ね合わせることで、生まれる温もりが勇気を与えてくれるような気がした。
「ジュリア、湯の用意を……」
 自分から言い出すことで、ジュリアの心にかかる負担が薄らげばよいと、フィオレンティーナは静かに口を開く。
「ですが……姫様」
 子犬のような瞳に涙が溢れる。その涙を片手で拭い、言いきる。
「よいのです、私に選択の余地はありません」
 ジュリアも同じく、ディートハルトに逆らうことはできない。
 シュヴァーン王位に就いた最高権力者に盾つけば、一介の侍女など簡単に首を切られてしまう。
 城から放り出されたとして、カナーリオ帝国の人間であるジュリアがシュヴァーン王国で生きていくことは、ままならないだろう。
 放り出されるだけならともかく、命を奪われる可能性をディートハルトの冷酷な瞳を前にすると、考えずにはいられない。
 ここで出会った懐かしい顔を、フィオレンティーナは守りたいと思った。
 カナーリオ帝国の最後の皇女として、今自分がすべきことは、己の不幸に泣くことではない。一人でも多くの自国民の幸を願うことだろう。
 ユリウスに純潔(じゅんけつ)を捧げられないことは、既に諦めはついている。その先の屈辱も覚悟の上だ。
 ――心だけはユリウス様に捧げる。絶対に、ディートハルトに奪わせやしない。
 それが、彼女が選んだ生で、愛し方ならば。
 フィオレンティーナは決意を固めて、ディートハルトを見返した。

 ――この身体、欲しいというのならくれてやる。


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