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 14,亡者の呪い


 ――行かないで……。

 花びらのような唇からもれ出た懇願(こんがん)。何かを求めるように彷徨う指先。
 ほんの少し、力を入れただけで折れてしまいそうな白い指先に、自分の指を絡めて、ディートハルトはフィオレンティーナの耳元に囁いた。
「――どこにも行かない……ここにいる」
 彼女の意識は夢の世界。
 金の睫毛にたまった涙をもう一方の手で払ってやった。ほろりとこぼれる真珠のような粒。震えた睫毛の影に隠れていた長旅の疲労の跡が目についた。
 抱えたフィオレンティーナの身体をシーツの上に横たえ、彼は繋いだ手をそのままに上半身を起こした。
 裂かれた衣から覗く白い胸元が目に入り、そっと布地を掻き合わせ、己の視界から隠す。そうしなければ、意志とは係らず身体が欲情しそうだった。
 寝台の足元に寄せた毛布を引き上げ、フィオレンティーナの身体にかぶせてやった。
 頬に掛る蜂蜜色の髪を払う。
 桃のように柔らかな頬に指先で触れると、くすぐったそうに彼女は身じろぐ。そうして、フィオレンティーナの薔薇色の唇には幸せそうな笑みが浮かぶ。
 夢の中で彼女が求めているのが誰であろうか。容易に想像がつく。
 ――ユリウスの夢を見ているのか。
 そう思うと、髪を引っつかみ、彼女を強制的に夢の世界から引き戻したい衝動を覚える。激情に駆られ、手を伸ばしかけた瞬間、警告するように頭蓋が軋んだ。じわりと皮膚の奥から脂汗が滲んでくる。
 手を引き、痛みに顔を顰めれば、ディートハルトの歪んだ視界にフィオレンティーナの安らかな寝顔が入ってくる。
 あまりに無防備な寝顔に魅入った瞬間、沸騰(ふっとう)しかけた憎悪は差し水を与えられたように静まった。痛みを忘れた。
 何故だかわからないが、フィオレンティーナを抱いていると、常にディートハルトを悩まし続けた頭痛が、嘘のように引く。
 彼女の寝顔に浮かぶ笑みを見れば、荒れ狂っている心が静かに凪いで行く。
 フィオレンティーナが夢の世界でユリウスに微笑みかける笑顔が、ユリウスに対する憎悪で荒れたディートハルトの心を(いや)すというのは、何という皮肉か。
 しかし、この効用を実感してからこちら、ディートハルトは彼女の心を黒く染めたいと思うのに、手が出せない。
 つい数刻前にも、鈍痛の波が襲ってきた。
 フェリクスに彼女を預け、先に自室に引き上げようと歩き始めた途端に、脳を大きな手で握り潰されるように痛みだした。
 唇を噛んでやり過ごそうとし、それでも、表現しかねる希望を抱いて振り返れば、フィオレンティーナにフェリクスは胡散臭い愛想笑いを差し向けていた。
 フィオレンティーナの瞳が自分以外の男を見つめる――その事実を前にした途端、思わずうずくまってしまいたくなるほど、頭痛が酷くなる。
 ユリウスへの対抗心が、フィオレンティーナへの執着心を強くしているのかと思っていたが、対象はユリウスだけではなく、アルベルトやフェリクスにまで向かうようになったのは、実際にこの手に彼女を手に入れてしまったからか。
 二度と手放せない薬であることを知ったからか。
 頭蓋を割るような頭痛がするたび、ディートハルトは唇を噛む。
 何か悪い病に掛ったのではないか、それとも頭を打った際に脳内で出血した血が凝固して、脳に異変が起こっているのではないかと、疑いたくなる。
 医者は異常などないというが、ならばこの痛みは何だ?
 ユリウスの呪いか?
 しかし、フィオレンティーナを手に入れてからこちら、頭痛が癒える。
 彼女はディートハルトにとって、特効薬。
 ユリウスの呪いなんて、馬鹿げていると笑い飛ばし、フィオレンティーナの身も心も自分だけのものにしようと、寝台の上で組み敷けば、彼女の強張った表情に脳髄が悲鳴を上げた。
 その激痛に、彼女の艶めかしい肢体に欲情していたディートハルトの身体は、冷や水を浴びせられたように、熱を失った。
 フィオレンティーナに呪いを知られるわけにはいかず、素っ気なさを必死に装って離れれば、痛みは弱くなった。
 離れていこうとする彼女を引きとめ、試しに抱きしめてみれば、頭痛は止んだ。
 この耐えがたい慢性的な苦しみから解放されるのに必要なのは、フィオレンティーナの身体ではなく、心だと知った。
 それこそ、呪いと呼ぶに相応しいかもしれない。
 フィオレンティーナの心にはユリウスが巣食っている。彼女の夢を支配するほどに、その根は深い。
 彼女を傍に置いて、自分を憎ませ、心を自分色に染め上げ、それでユリウスに復讐すればすべてが終わると信じていた。
 自分から多くのものを奪っていったユリウスから、玉座を奪い、命を奪い、フィオレンティーナを奪えば――それですべてが終わるはずだった。
 なのに、いまだにユリウスの影は付きまとう。
 きっと、フィオレンティーナの心を手に入れるまで、この脳を苦しめる呪いは解けやしない。
「――だから、嫌いなんだ……」
 ディートハルトは従兄弟への憎悪を苦々しげに吐き捨て、身体を投げ出すように、乱暴に寝転がった。
 柔らかな寝具が波打ち、フィオレンティーナを揺さぶった。それでも、彼女は深く眠りについていた。
 ディートハルトに、身体を奪われることへの諦観があるにせよ、無防備すぎるといえよう。
 それは心を奪わせないと言い切った、ユリウスへの想いの強さが身体を穢されても、彼女の心を支えるからか。
 どうすれば、その強い想いをくじき、彼女の心を自分に向けさせることができるだろう?
 ディートハルトはフィオレンティーナの寝顔を見つめ、考える。
 彼女の心を自分色に染め上げる方法を、憎ませるという形でしか、ディートハルトには思いつかない。
 記憶を失い、ユリウスへの憎しみだけしか残されず、その塊だけを抱えてこの二年生きてきた彼には、女の心を手に入れる方法なんてわからなかった。
 最初に恋した相手は、こちらの恋心を知らずに、別の相手に嫁ぐように定められた。その相手がユリウスであったときから、ディートハルトの中で従兄弟に対する薄ら暗い感情が、憎悪へと転化し殺意の萌芽(ほうが)が息づいたのだと思う。
 あの頃のディートハルトにとって、玉座も名誉も必要はなかったのではないか。
 ディートハルトは記憶を失う以前の自分を、他人事のように観察し結論を出す。
 彼女の瞳が自分を見つめてくれたのなら、自分だけを愛してくれたのなら、それで良かったのだろう。
 なのに、第一王子という身分だけで、何も知らないユリウスが奪った。不義の子であるユリウスの本当の血は、ディートハルトと同じであったというのに。

『――俺が最初に見つけたんだっ!』

 暗がりで咆えていた声が蘇る。
 夜陰(やいん)に乗じての城攻めだった。
 窓の外には漆黒の闇に僅かな星明かり。部屋の片隅に置かれた玻璃(はり)のランプに灯された炎がちりちりと油を燃やして、闇を焼いていた。
 立ちはだかる者たちを血で染め上げながら、駆け上った最上階でディートハルトはユリウスと対峙していた。
 僅かな光源に照らされた、自分と同じ蒼い目をディートハルトは僅かな記憶の残滓(ざんし)に思い出す。
『それでも、彼女が愛してくれたのは僕だ。あなたが僕を憎んで、僕からすべてを奪おうと、彼女だけは譲れない』
 怒り狂う憎悪を前にしても、揺るがなかったユリウスの声。
 ……だから、ディートハルトはユリウスを殺さなければならなかったのだろう。
 彼女を――幼き日の恋を、取り戻すために。
 ただそれだけのために、彼はそれまでの日常を覆し、玉座に手を伸ばした。そうしなければ、彼女を手に入れられなかった。
 幼き日、隣国から訪れた小さな皇女にディートハルトが恋した時から、こうなることが決まっていたとしたら……。
 ディートハルトは回想を断ち切り、寝台の天井を睨みつけ、嗤う。
 運命はよほどに――血の匂いが好きらしい。


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