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 15,遠い日


 ――彼女だけは譲れない。

『彼女だけは譲れない。他のすべてを奪ってもいい、ティナはあなたに渡さない』
 ユリウスの声が揺るぎなく響いた瞬間、導火線に火がつけられたような、怒りに任せた一撃が机の上のランプを床に叩き落とした。
 砕けたガラスに、立ち上る油の臭い。僅かに焦げ臭い煙を上げて、炎は闇にのみ込まれた。
 窓の外から入り込んでくる僅かな星明かりだけが頼りの暗闇の中、互いの立ち位置すらもわからなくなった。
 自分自身がどんな肉を持っているのかわからなくなるほど、室内にはねっとりと粘つくような濃密な闇が満ちた。重い闇がまとわりついて、身体の境界線が漆黒に溶ける。
『――うるさいっ! 自分のモノのように言うなっ! フィオレンティーナは、俺のものだっ! 俺が最初に見つけたっ! 俺のものだっ! お前なんかにくれてやるかっ!』
 暗闇の中でディートハルトの咆哮(ほうこう)する声だけが、響いていた。
 子供染みた主張を繰り返す声は、悲痛だった。悲痛だと、ディートハルトは感じた。
 先に出会ったこと――それに縋るしかない哀れな訴え。
 思わず、過去の自分を憐れみたくなるくらい、その声は悲痛だった。
 夜明け間近に見る夢は、過去の記憶らしいものを時折、反芻する。
 身体は眠っているのだが、意識は目覚め、どこか客観的にディートハルト自身を眺めて、冷静だった。
 そんなとき彼は、失くした記憶が戻るのだったら……と、半覚醒のまま、意識を夢に委ねる。
 遠い日に、カナーリオの皇帝に連れられて、シュヴァーン王国のアヴィーネ宮殿にやってきた隣国の幼き皇女。
 皇后を亡くしたばかりの幼女の心を癒すためにと、外交にかこつけて隣国を訪ねた皇帝は、娘に政略結婚を強いる半面、相当な親馬鹿であったのだろう。
 後にユリウスとの婚約を決めたのは、遠い国より帝国の目が届く隣国を選んだのか。雪さえなければ、カナーリオ帝国とシュヴァーン王国の間はそれほど遠くない。
 そうして皇帝らが訪れたとき、ディートハルトはフィオレンティーナに会っていたと言う。
 運命を弄んだ悪戯(いたずら)な偶然か、現在に至る必然か。
 現在のディートハルトには、当時の記憶は曖昧(あいまい)だ。むしろ、皆無と言っていい。フィオレンティーナとの、始まりの記憶がないことが、彼には口惜しかった。
 その記憶があれば、もう少し、彼女への対応が変わるのではないかと思うのだが、彼に残された記憶はユリウスへの憎悪に由来するものばかり。
 フィオレンティーナとの幼き頃の出会いを知るのも、エスターテ城のユリウスを前に語っていた記憶があったからこそだ。
 しかし今は、幼かった日の恋心よりも、彼女の心からユリウスを消すことへの執念が勝る。
 現在のディートハルトにとってフィオレンティーナへの恋情は、他人事だ。彼女はユリウスへの復讐の道具でしかない。
 それでも暗闇の中で、どこか酔ったように滔々(とうとう)と出会いを語る声に、遠い記憶を見たような錯覚にディートハルトは陥った。
 恐らくそれは、正確な記憶でなく、美化された虚構だろう。
 傍観者となったディートハルトの視界を緑が染めた。
 雪が解けた春だったか、短い夏だったか。相当な理由がなければ、いかに外交とはいえ、王族が他国の領土に足を踏み入れられるわけがない。
 彼が十歳のとき、第二王子の誕生を祝う祝賀会が行われた――その機会に、カナーリオの皇帝はシュヴァーン王国に招かれたのだろう。
 ユリウスより十歳年下の弟。その父親が真実、シュヴァーン国王であったのなら、ユリウスではなくその第二王子こそが正当な王位継承者か。
 謀反の末に、王を殺し、他の継承者たちもまたディートハルトは血祭りに上げた。
 ……上げたのだろう。
 自分で手を下したのか、否か。どちらにせよ、記憶はない。だが、不安要素をフェリクス辺りが(のこ)しておくとは思えないから、始末されたと判断する。
 ユリウスに対する憎悪があまりに強烈すぎるからか、第二王子に対する印象は希薄だった。名前を思い出そうという気力はなく――曖昧な記憶を辿ろうとすれば、頭痛がするので止める――ディートハルトは夢の続きを追いかける。
 茂る緑の梢が、風にそよいでいた。
 さわさわと、葉を重ね合わせて奏でられた清涼な音色の狭間に、小さな泣き声を聞いて、ディートハルトが足を向けた先に、幼い皇女がいた。
 年の差は五つだから、彼女は五歳か。フィオレンティーナの記憶に、幼き日の彼は残っているだろうか。
 残っているとしても、ディートハルトと認識しているだろうか。
 ディートハルトとユリウスは幼少の頃から髪の色が違うだけで、容姿は瓜二つ。
 彼女の翡翠の瞳には、ただ一つの――だけど、絶対的な違いが刻まれただろうか。
『……何を泣いているの』
 そう、泣いている彼女に問いかける声は、今の自分には考えられないような、穏やかな声音だっただろう。
 少なくとも、まだその時のディートハルトにはユリウスへの憎悪は明確な形をなしていなかったはずだ。
 ユリウスへの憎悪が沸騰したとき、彼にとって自分以外の人間がすべて敵のように思えた。
 いや、記憶を失うまでは謀反に加担したアルベルトやフェリクスに対しては、心を許していたのか知れない――彼らとの付き合いが、いつ頃から始まったのか、知らないが。
 その辺りのことを思い出そうとすれば、やはり頭痛がするから、考えないようにしている。
 そして、今のディートハルトは自分以外を信用しないことに決めていた。
 フィオレンティーナを妃として迎えることに、宮廷内では良い顔をする者は多くなかった。自分の娘を新国王の妃へと企む貴族が、フィオレンティーナの存在を邪魔に思って当然か。
 アルベルトに限ってはディートハルトの身を心配してくれていたようだが……だからと、彼に対する感情が好転することはなかった。
 フェリクスは、二人の間に子を作ることを絶対条件とした。
『お前と皇女の子供はときがくれば、ヴァローナが獲った帝国領土の、正当な権利者として立てることができる』
 国を動かすことに興味を抱いている若き宰相は、いずれは大陸中央への進出を目論んでいるらしい。軍事力が整えば、同盟国であるヴァローナに牙を剥くつもりのようだった。
 どちらにしろ、心を許せる相手はいない現状、ディートハルトはフィオレンティーナを後宮に置くのではなく、自分の傍に置いておくつもりだ。
 まだユリウスから完全に彼女を奪えていない以上、復讐は終わっていない。彼女をユリウスの元へ逝かせるわけにはいかない。
『……風に』
 腕の中の温もりを感じながら、つらつらと半分覚醒した意識が現状を考えている傍らで、まだ眠っているもう半分の意識は過去の夢を紡ぐ。
『風におぼうしがとんで行っちゃった……』
 涙に濡れた声がそう言って、緑の梢を指差す。
 小さな指先が差し向ける先を目で追えば、大人の背丈でも容易に届かない樹木の枝に、羽飾りのついた帽子が引っ掛かっていた。リボンの端が蝶のようにひらひらと揺れている。
『お母さまがえらんでくれたの……に……』
 そこまで言うと言葉が続かず、少女は青く萌えた芝生の上に膝をついて泣き崩れた。亡くなった母の思い出の品だったのだろう。
 ディートハルトは手布(ハンカチ)を少女に差し出すと、件の木に近づき、幹に抱きついた。樹皮に足を引っ掛け、おうとつを手探りし、登る。
 張り出した木の枝に慎重に身体を乗せ、まだ成長しきれていない腕を精一杯伸ばす。
 何度か空振りしたのち、指の先で帽子を掴めば、木の下でこちらを見守っていた少女の顔に満面の笑みが浮かんだ。
『すごい、すごいっ!』
 はしゃぐ彼女の頬が喜びから薔薇色に染まる。それは遠目にも、愛らしい笑顔で、ディートハルトは少女を笑顔に導いた自分に誇りを感じた。
 するすると滑るように、地面に降り立てば、少女は小さな身体をぶつけるようにして抱きついてきた。
『ありがとうっ! お兄さま、すごい、すごいのね』
 その場で飛び跳ねてはしゃぐ少女の蜂蜜色の髪が、陽の光にきらきらと輝き、翡翠の瞳が尊敬と称賛を一杯に湛えて煌めく。
 真っ直ぐに自分を見つめてくれたその瞳が嬉しかった――そう過去のディートハルトは、ユリウスに向って語っていた。
 周りの者が王位継承者であるユリウスを立てていた。
 半年早く生まれたディートハルトが勉学や習い事の先を行っても、それを当然とし、ディートハルトの努力を垣間見ることなく切り捨てる。
 何を成しても功績は認められることなく、握り潰される。
 教育係の態度を見てからか、他の人間たちも誰もがユリウスの反応を考慮しだし、ディートハルトを扱いあぐね、結果無視した。
 父は玉座を隙あらば奪わんとしていた。母はヴァローナからこちら、辺境へ嫁いできたことに不満を持ち、ディートハルトを産んだ後は別邸をねだり、夫と別居した。
 それぞれ己が好きなように生きたディートハルトの両親は、幼い彼を省みることがなかった。
 王族として育てられながらも、誰にも存在を認めて貰えないディートハルトは、自己の存在意義に懐疑的になっていた。そんな彼を、小さなフィオレンティーナだけが誉めてくれた。
 陽炎のように、今にも消え入りそうな彼をフィオレンティーナという眩しい光が照らし、影を作り、小さな手が与えてくれた熱が、ディートハルトに肉の存在を思い出させた。
 彼女がくれた温もりを感じることで、自分が一個の人間として生きているのだと確信できた。
 それがディートハルトにとってどれだけ大事な思い出だったのか、暗闇の向こうで聞いていたユリウスに理解できたのか、わからない。
 もしかしたらユリウスは、闇の向こうでそれしきのことで玉座に手を伸ばし、王を殺したのかと、戦慄していたのかも知れない。
 ユリウスはディートハルトに憎まれる理由を最後まで知りはしなかっただろう。己が存在によって、ディートハルトが孤独に追いやられていたことなど、想像もしなかっただろう。
 心に穿たれた傷の深さなど、誰も知りはしなかった。誰も彼を見てくれなかったのだから、知りようもない。
 だけど、誰からも存在を無視された中で、ただ一人、フィオレンティーナだけがディートハルトを見つけてくれた。
 たったそれだけの出来事に、少年の頃のディートハルトは癒された。
 そして彼は、幼い皇女にその後の人生すべてを捧げるような、一生に一度の恋をした。


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