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 飛べない鳥たちの恋歌・瞳に映る真実

 1,不穏な報せ


 ――馬鹿な……。

 フェリクスの呟きは、かすれた呻き声のように響いた。
 いつも泰然とし、王である自分にさえ狡猾(こうかつ)に対応する宰相には不似合いの声に、ディートハルトは蒼い瞳を見開いた。
 そして、宰相を動揺させた報告を己が頭で反芻(はんすう)する。
 今、アルベルトは何と言ってきた?
 執務机の前に、居心地が悪そうに突っ立っている赤毛で巨漢の軍人をディートハルトは椅子に座った姿勢から見上げる。
「……繰り返せ」
 聞き間違いではないことを確認するため、ディートハルトはアルベルトに命令した。
 水色の瞳を瞬かせた後、アルベルトは苦々しそうな顔つきで繰り返す。
「ナハティバルの砦が落とされた。反乱軍を指揮しているのは白髪の、顔に負った傷を隠すために仮面をつけた男だという――その男は……ユリウス王子の名を(かた)っているらしい」
 ナハティバルの砦は旧帝国の――今はシュヴァーン王国領地となった――軍事基地として利用されていた要塞をそのまま使用していた。
 帝国領にあって、帝国滅亡後もシュヴァーン支配を拒む血気盛んな輩の反乱を鎮めるために、軍隊を駐屯させていた。
 アーキオーニス大陸歴一七六九年に、滅亡したカナーリオ帝国の皇女フィオレンティーナを妃に迎え、帝国領を吸収した新生シュヴァーン王国の統治を本格的に始めた現在、アーキオーニス大陸歴一七七一年。
 ナハティバルなどの旧帝国領内での小さな反乱を除けば、おおむねは問題なく統治できていると、ディートハルトは己の統治能力を自負しないでもなかった。
 元々、ユリウスと同じく王族としての教育は受けている。その成績は、半年早く生まれたこともあるだろうが、ユリウスより上を行っていた――故に、王子を立てるために、教師たちはディートハルトの存在をやがてないものとして扱うようになったのだが……。
 今はそれらの過去にこだわるディートハルトではない。
 ただ一つ、欲しくてたまらなかった存在を手に入れたのだ。
 その対価に国と何千万という国民の生活という重たいものを背負わされたとして、何だという。
 穏やかな国で、フィオレンティーナの平和な日常が守れるのなら、各国の狸たちと対等に渡り合って見せるつもりだった。
 小舅(こじゅうと)のようなフェリクスの厭味(いやみ)にすら黙して耐えながら、王としての責務を果たしてもいる。
 その辺りの改心を一年以上見つめて、フィオレンティーナも認めてくれたのだろう。今では夫婦として、他人の目にも仲よく映っているはずだ。
 そんなフィオレンティーナの婚約者であったユリウスは、ディートハルトがこの手で殺した。暗闇の中で奴の肉を剣で貫いた感触は、記憶を失くしても手のひらに残っている。
 ユリウスを殺すことが、どれだけフィオレンティーナを悲しませるのか理解できずに、怒りのままに剣を振るってしまった。
 後悔に口の中に苦さが広がる。
 しかし、王となった今は自分が揺れてしまっては国が成り立たなくなるのを承知しているから、ぎゅっと拳を握り締めて、
「――馬鹿馬鹿しい。ユリウスは死んだ。そいつは偽物だ」
 ディートハルトはアルベルトの戯言を冷ややかに切り捨てた。
 砦が落とされたことは痛い問題ではあるが、ユリウスを騙る者には関心などわかない。
 反乱軍がユリウスの名を騙るというのなら、それはこちらの動揺を誘う意図からだろう。
 ディートハルトは王位を継ぐには、継承権が遠すぎた。しかし、国王を殺し、その血に連なる者を殺して、今は玉座に座っている。
 簒奪(さんだつ)して王位に就いたディートハルトは、正当な後継者とは言い難いだろう。
 ならば、本来正当な後継者であったとされるユリウスを前面に押し出せば、義はどちらとも言えなくなる。
 そうすることで、王国軍の統率を乱そうという腹なのだろう。現に、アルベルトは動揺している。
 情報の真偽を確かめることもせずに、こちらへと報告しに来る時点で、慌てていると言っていいだろう。
 ディートハルトはアルベルトを(にら)みながら、先程から黙りこくっている宰相に目をやった。
「――フェリクス、お前からこの馬鹿に教えてやれ」
「なっ! 馬鹿って何だよ。そりゃ、王子が死んだのは知ってるさ。偽物だろうよ。そんなことは言われなくてもわかっているさ。俺が言いたいのはな」
 ムッと顔を(しか)めて、アルベルトは子供のように身を乗り出した。
 執務机に手をついて、ディートハルトの方に顔を寄せ、唾を飛ばさん勢いで口を開く。
「フィオナになんて言うんだよ。やっとお前ら、落ち着いて仲良くなってきたのに」
 婚礼の儀を迎えてからの一年近く――特に帝国民の奴隷禁止の政令を発してからは、アルベルトが言うように、ディートハルトの身の回りは慌ただしく、城を空けることが多かったため、夫婦仲を縮めることすら難しかった。
 そんなディートハルトが留守中、戦場では冷酷な軍人と化すのに、一端、気を許した人間にはやたらとお節介になる赤毛の将校は、すっかりフィオレンティーナと和解していた。
 フィオレンティーナの愛称を口にのせるアルベルトに、ディートハルトは腹に力を込めた。気安く、王妃の愛称を口にするなと言ってやりたいが、フィオレンティーナがそれを許しているのだから、咎めることもできない。
 己の嫉妬心と独占欲に歯噛みしたいが、理性で割り切れるなら、「現在」はなかっただろう。
 罪を背負っても、どれだけの人間を傷つけるとしても、フィオレンティーナが欲しかった。守りたかった。幸せにしたかった。だが、その覚悟を示す間もなく、記憶を失いユリウスの憎悪から、フィオレンティーナに冷たい態度をとり彼女を酷く傷つけた。
 そんな敵国の皇女に対する冷たい態度は、ディートハルトに限らず、アルベルトにもあった。彼はフィオレンティーナを目の敵にしていた。
 この国に彼女が来た当初、ディートハルトが彼女と結婚することを頑なに反対し、またフィオレンティーナに気を許すなと、忠告してきた男が、今ディートハルトの前で騒いでいるアルベルトだった。
 しかし時を重ね、純真かつ真っ直ぐなフィオレンティーナの気質を知れば、作為を疑うことの方が間違いだと気付いたのだろう。
 直情型のアルベルトの根は単純だ。頼りにされると嬉しくて、今ではディートハルトよりフィオレンティーナの意向を優先することもしばしばだ。
 この間も、ディートハルトに断りもなく彼女を遠乗りに連れ出していた。
 ディートハルトが執務机の上に山のように積まれた書類を処理している最中にだ。
 春を迎えれば、シュヴァーン国内の冷ややかだった雪原は色鮮やかな花園へと変貌する。
 短い季節を謳歌(おうか)するように咲き乱れる花は、それは見ものだろう。なかなか自由が利かない王宮内での窮屈(きゅうくつ)な生活を強いられているフィオレンティーナにとって、気晴らしになるとは思う。
 だからこそ、連れ出したわけだろうが……。
 ――それは俺の役目だっ!
 夫である自分こそが、彼女を連れ出すべきではないのか?
 そのために机にしがみついて、山積みになった書類を減らすべく奮闘していたのだ。
 フィオレンティーナと過ごす時間を少しでも捻出するために。
 事後報告で聞いて、ディートハルトはアルベルトに罵りの言葉を浴びせなかった自分を褒めてやりたいくらい、自制した。
 アルベルトにはディートハルトが城を空ける間、フィオレンティーナの護衛についていてもらっている。
 シュヴァーン王国内の帝国への憎悪は、帝国滅亡後も衰える気配を見せない。戦争に勝って帝国を支配することで、昔の留飲を下げようとしていただろう。
 だが、ディートハルトは帝国民の奴隷化を禁止し、自国民と同じ権利を保障する政策を打ち出せば、反発が起こった。
 国内のあちらこちらで起こった内乱をディートハルトは一年も満たない間に片を付けた。
 早々に決着がついたのは他でもない、ディートハルトの後ろにヴァローナ王国の後ろ盾があったからこそだが。
 帝国との戦争で疲弊していた状態から立ち直っていないまま、兵を上げても大した戦果は望めなかったのだ。そして、ディートハルトは余力があるヴァローナの兵を借りたことで、圧倒的な戦力を見せて反乱軍をねじ伏せた。
 ヴァローナ国王で伯父であるレオニードに、ディートハルトは借りを作ることで、こちらに敵対する意思がないことを示した。帝国皇女であるフィオレンティーナを妃に迎えたことで、腹黒い者たちはこちらの痛くもない腹を探ってくるのだから、立ち回り方には気を使う。
 今後はどうなるのかわからないが、ディートハルトとしては、フィオレンティーナのために、なるだけ穏やかな国を作っていきたいと思っていた。そのためなら、多少の辛酸も舐める覚悟も、屈辱に唇を噛む覚悟も決めていた。
 それはアルベルトに対しても同じだ。
 今まで冷たく見下してきた幼馴染みに頭を下げるなんて、ディートハルトの自尊心が邪魔をした。
 しかし、フィオレンティーナを戦場に連れていくことなどできなければ、誰か信頼の置ける者に預けるしかなく……結局、アルベルトに頼んだ次第だ。
 そうすれば、「任せておけ」と過去のことなど綺麗さっぱり忘れたような顔をして、胸を叩いたのだから、本当にこいつで大丈夫だろうかと、眉をひそめそうになったことは(おもて)に出さずに置いた。
 フィオレンティーナの身の安全を預ける以上、彼女とアルベルトの親密度が上がるのはよい。距離が縮まれば、それだけ護衛がしやすくなる。
 だが、やはり。どうにも二人の距離が近すぎる気がする。恐らく、間に恋愛感情などないから、気安く接することができるのだろうが――親密すぎるのではないかと、表面上は平静を装うディートハルトの胸中では、ぐつぐつと煮えるものがあった。
 フィオレンティーナに対しては、何よりも自分が一番でありたい。
 彼女を喜ばせることも、彼女を心配することも、夫である自分の役目だ。誰にも譲りたくないのに、アルベルトが先を越す。
『――フィオナになんて言うんだよ?』
 アルベルトの危惧はわかる。想像しなくても、わかる。
 元婚約者の名を聞かされたら、きっと彼女は動揺するだろう。ディートハルトは秘かに唇を噛んだ。
 何故なら、今でもフィオレンティーナの心の中にはユリウスが存在しているのだから……。


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