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 2,想いのかたち


 ――あなたには……。

『あなたには、ユリウス様を愛した私ごと、愛して欲しいわ』
 ディートハルトの膝の上で、フィオレンティーナは穏やかに微笑みながらそう言った。
 その言葉がどれだけディートハルトの中にある嫉妬心をあおるのか、わかってはいるのだろう。それでも彼女は、言わずにはいられないと、真剣な眼差しで告げる。
『ユリウス様に愛されたこと、私がユリウス様を愛したこと。その過去があるから、私はあなたを愛せると思うの』
 何故? と、首を傾げれば、フィオレンティーナは己が胸元の前で両手のひらを合わせ、何か大事なものを包み込むような形を見せた。
『カナーリオとシュヴァーンは敵対していたわ。あなたが私を愛してくれたのは、そうなる前だったけれど、ユリウス様が私を愛してくれたのも、そして私があなたを愛したのも、敵対する関係になってからよ』
『……俺は』
『あなたにとって、国は二の次だと思う。でも、私は帝国皇女として育てられたわ。結婚に愛情を求めることが難しいことも知っていた。まして、政略結婚なのだから、感情なんて必要ないと切り捨てられる可能性を知っていた』
 でも――と。
 フィオレンティーナは翡翠の瞳を懐かしそうに細めた。
『ユリウス様は私を愛してくださった。憎しみや敵対する感情の中にも愛情が生まれること、それが私とユリウス様の間に生まれた愛情が証明してくれるから、私とあなたの間に生まれたこの感情も嘘じゃないと、私自身にとっても信じられる。あなたにも信じてと言えるわ』
 ――私があなたを愛していることを、私の中にユリウス様がいるからと言って、疑わないで。お願いよ。
 まだ心のどこかで、本当に愛されているのだろうかと不安に思うこちらを納得させるように、彼女は囁く。
『それに、ユリウス様のことを忘れたなんて言っても、あなたは信じないでしょう? 私はあなたに嘘をつきたくないから、正直に言うわ。そうすることが、あなたが私に預けてくれる愛情に誠実になることだと思うもの』
 フィオレンティーナがユリウスのことをおくびにも出さなければ、下手に勘ぐってしまうだろう。自分の嫉妬深さをディートハルトも承知していた。
 そして、罪を犯したディートハルトを受け入れてくれたフィオレンティーナの慈悲(じひ)深さを思い出せば、彼女が過去のこととしてユリウスを切り捨てることなど、できようはずもない。
 そんな女なら、彼女に対する想いもいずれ冷めていたのかも知れない。愛したものをどこまでも慈しむ彼女だから、その瞳を独り占めしたいと、夫婦という形におさまってもなお、ディートハルトはフィオレンティーナに恋い焦がれて止まないのだろう。
 いつから、そんなに男心に精通するようになったんだと、ディートハルトは拗ねれば、彼女の白い指がディートハルトの頬を包み、迷いのない瞳で真っ直ぐにこちらを見つめ返してきた。
 甘やかしたいと思っているのに、どうにも自分の方が甘やかされているような気がする。
 嫉妬心に翻弄(ほんろう)されているうちは、まだ子供だということだろうか。
 彼女の蜂蜜(はちみつ)色の髪に指を絡め、ついと軽く引っ張れば、フィオレンティーナは心得たように口付けを落としてくれた。
 重ねられた唇の温度に、確かな愛情を感じるから、彼女の言葉は信じられる。
 フィオレンティーナに対し、ディートハルトは拒否権を与えていた。
「簡単に身体を売るな」と言った言葉の意味を、彼女は理解して、実際にその権利を行使してみせた。
 だからこそ現在、唇や肌を重ねることを受け入れてくれるフィオレンティーナは、滅びた国のためではなく、一人の女として確かにこちらを愛してくれているのだと信じられる。
 だが、彼女の中で自分が一番なんだとディートハルトが自信を持つのは、やはり難しかった。
 彼女に対して行った冷酷な仕打ちを思い出せば、情けないことに自信が揺らぐ。何度、泣かせたことだろう。
 フィオレンティーナからユリウスを、国を、家族を奪った事実は、ディートハルトの罪悪感として残っている。
 だから、フィオレンティーナの幸せを叶えることをディートハルトは償いとした。
 彼女の日々が平和であること、いつでも微笑んでいられるように――。
 それが国を背負うことだと考えたら、内乱にもディートハルトが自ら出向いて行った。他人任せにするのではなく、自分の手でこの国を平和に治めようと決意したのだ。罵声(ばせい)を浴びせられても構わない。憎まれても受け止める、そう決めた。
 今回の反乱の鎮静(ちんせい)のために出陣しなければならないとすれば、フィオレンティーナの耳に入れなければならないだろう。
 現実に立ち戻り、ディートハルトはこちらの答えを待つアルベルトから視線を外して、フェリクスに目を向けた。
 宰相がずっと黙ったままなのは、何か考えることがあってのことだろうと思ったのだ。この腹黒いフェリクスもまた、ディートハルトが驚くくらいフィオレンティーナと仲良くなっていた。
 周りに目を向け始め、心を解放するようになったフィオレンティーナは少しずつ、周囲の人間を味方につけて行った。
 アルベルトが真っ先に懐柔(かいじゅう)されたことがきっかけだったのだろう。単純であるが軍人として直感に優れている彼が親しくしているのだから、危険はないと判断されたのだろう。
 護衛役の若い衛兵やフィオレンティーナの世話をする女官たちも、彼女への態度を改め始めた。
 そして、悔恨を見せ始めた彼らをフィオレンティーナは責めることなく、受け入れた。
 過去の因縁を許し、ディートハルトを愛してくれたように、フィオレンティーナは皆を許した。
 シュヴァーンの貴族社会はいまだにフィオレンティーナの存在を煙たがっているが、王宮内で彼女は既にディートハルトの妻であり、王妃として認められつつあった。
 フェリクスもフィオレンティーナを認めつつある一人だ。
 何かと厭味(いやみ)を口の端にのせ、人を(あご)の先で操る宰相も、フィオレンティーナにだけは不気味なくらい温厚な態度をとっている。
 フィオレンティーナの清浄さが、腹黒宰相の毒を洗い流したのかと思うくらいだ。
 実際、玉座を血で(けが)し、冷酷無慈悲と陰で恐れられ、国政に無関心とみられていたディートハルトを、国と王妃に献身的な愛国者に変えたのだから、フェリクスの変化も納得と周りの者も見ている。
 アルベルト辺りは、「さすが、フィオナだな」と感心しているくらいだ。
 何が、さすがなのかわからないが、恨みを抱かず、周りを受け入れる度量の広さはアルベルトにすら嫉妬心を抱いてしまうディートハルトには真似できないものだ。
 人間性を見れば、フィオレンティーナを慕うことに何の躊躇(ためら)いもなくなるのだから、彼女は凄いとディートハルトも心の底から感嘆する。
 そう話せば、フィオレンティーナは「私を美化しすぎだわ」と苦笑するのだが、そんな彼女だからこそ、幼い日にディートハルトの心の闇を一瞬にして晴らしてしまったのだろう。
 ただ、フィオレンティーナに心囚われてしまったディートハルトは、彼女一人を手に入れるために沢山のものを犠牲にしてしまったのだけれど。
 悔恨に走りかけた自分を、ディートハルトは現実に引き戻すように口を開いた。
 いつまでも後悔しているよりは、少しでもフィオレンティーナの未来が明るくなるよう努力をすると決めたのだ。
「――フェリクス」
 低く尖らせた声で名前を呼べば、フェリクスが弾かれたようにディートハルトを振り返った。
「ナハティバルの砦のこと」
「あっ? ああ……」
 どこか心ここに在らずといったフェリクスの不安定な声音に、ディートハルトは漆黒の前髪の陰で眉をひそめた。
 ――何だ? 砦奪還の策でも考えていたわけではないのか?
 フェリクスをじっと見上げれば、彼はまた難しそうな顔で思想に沈むところだった。
 琥珀色の瞳を細め、遠い眼差しで何かを探っているようだ。
 俯いたその横顔に、ディートハルトは訝しげる。
 何を考えている?
 そう言えば、アルベルトが砦陥落を報告したとき、フェリクスは「馬鹿な」と言ったか?
 砦が落とされたことが信じられなかったということか?
 砦に駐屯させていた軍の規模からすれば、そこまで驚くことはないだろう。精鋭部隊を揃えていたというわけでもない。第一に、ナハティバルの砦は、元はカナーリオ帝国のものである。砦の構造が相手側に知れていて、内部に入り込まれた可能性は捨てきれない。
 その辺りのことは、頭のいいフェリクスだから、推測範囲に入っているはずだ。
 では、何にフェリクスは驚いた?
 ユリウスの偽物か? しかし、ユリウスが死んでいることは、フェリクスだって知っているはずだ。
 ユリウスがフィオレンティーナの婚約者という立場にいながら、半ば人質として捕らえられていたエスターテ城の襲撃にはディートハルトと共にフェリクスも前線に同行していた。
 ユリウスを殺した後、ディートハルトが崩壊した瓦礫(がれき)の下から助け出され、軍医の元で目が覚めたとき、フェリクスは傍にいた。
 その際に、亡骸を回収したことを報告してきたのだから、彼はユリウスの死をディートハルト以上に知っているはずだ。
 ディートハルトがユリウスを最後に見たのは、こちらの剣に刺し貫かれ、崩壊する瓦礫の下に埋もれたところだ。
 倒れたユリウスから流れ出た血と、ユリウスからの反撃を受けたディートハルトの脇腹の傷口から溢れた血が床で赤い海を作っていた。
 瓦礫の下に、自分と同じ形の指先を見たところで――ディートハルトの記憶は途切れている。
 …………まさか。
 一瞬、ディートハルトの脳裏に一つの疑惑がよぎった。


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