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 エピローグ 螺旋の絆


 ――お父さま……。

 小さな声が二重奏でディートハルトに呼びかける。
 侍女のジュリアが開けたドアの隙間から、ひょこりと顔を覗かせた二人の幼子を前に、ディートハルトはフェリクスに視線を走らせた。
 蜂蜜色の髪の双子は蒼い瞳と翡翠の瞳をしている。親の瞳をそれぞれ受け継いだのだろう。ふっくらと丸い顔立ちは、一人は幼い頃の自分に似ているという話だった。ディートハルトから言わせると、ユリウスに似ていると思う。
 もう一人は恐らくフィオレンティーナの幼い頃に似ているのではないだろうか。もしかしたら、彼女の兄だろうか。
 今年で三つになる双子の王子が、期待に満ちた瞳でフェリクスを見上げている。
 この子供にはやたらと甘くなる宰相の許可がないことには、父であるディートハルトが解放されないことを知っているのだ。
 ――お願いと、懇願(こんがん)の色を濃く、それぞれの瞳に宿す幼い眼差しをフェリクスは横顔で受け止める。
 ディートハルトを見返す琥珀色の瞳は、机の上の書類をざっと舐めるように眺め回す。
 書類にはシュヴァーン王国北部の近況が報告されていた。
 ナハティバルの砦で起こったカナーリオ帝国軍残党による反乱。その鎮圧後、反乱軍は懲役(ちょうえき)刑を受けて、凍土の開拓に従事していた。
 苦役過ぎるだろうかと心配していたが、カナーリオ帝国皇帝が始めた計画だと知れば、ルキノを初めとした反乱軍の者たちは過酷な地での刑も刑にはならないらしかった。
 彼らの働きは目まぐるしく、確実に収穫の量が増えていることを報告書は語っていた。
 フェリクスはそれに対するディートハルトの返書を見やると、渋々ながらも首を頷かせた。
 おやつの時間に、父親と共に過ごすことを二人の王子が楽しみにしているのを知っていれば、どうやら採点も甘くなるらしい。
 書類にはまだ詰めなければならない部分があったが、有能な宰相が後を引き取ってくれるようだ。
「まあ、いいだろう」
 その言葉を合図に、ディートハルトが腰を上げると、二人の王子が飛び込むように入ってきた。
「お父さまっ! はやくはやく。今日はね、クリームのパイなの」
 二人は声を合わせて、父王の足元にまとわりつく。次の瞬間、ディートハルトは人型の重しを両足に付けられて動けなくなった。
 いや、動こうと思えば動けるのだが、下手すれば二人に怪我を負わせかねない。
 頬を引きつらせて、ディートハルトは二人の息子たちを見下ろした。
「……ふ、二人とも。離れないか?」
「王子様方、そのようにしていては、王が歩けませんよ」
 声に微苦笑を含ませながら、進言するフェリクスに双子たちは慌てて離れた。
「もう、今日のお父上のお勤めは終わりです。午後は思いっきり遊んでもらいなさい」
「わーい、お父さまといっしょ、いっしょ。フェリクスおじさま、ありがとー」
「ありがとー」
 ぴょんぴょんと両足を揃え、二人は兎のように飛びまわる。子供らしいあどけなさは、間違いなく母親であるフィオレンティーナに似たのだろう。
 ディートハルトは真顔で思う。自分の幼年期が、こんなに可愛かったとは思えない。
「いいのか?」
「構わん。次代の王を育てるのも、王の務めだろう。ただ遊ぶのではなく、戦略の勉強にチェスを教えてやるといい」
 三つの子供に対して無茶なことを言うフェリクスに、ディートハルトは片眉を吊り上げた。
「……それはまだ無理だろ。ジュリア、フェリクスに茶でも入れてやってくれ。ついでにお前も休むといい。この二人の面倒は俺が見る」
 ディートハルトが言うと、ジュリアは小さく微笑みながら「かしこまりました」と頭を下げた。
 ジュリアとフェリクスに見送られて、ディートハルトが執務室を出れば、二人の王子は父親を導くように前を行く。しかし歩幅が違う。ディートハルトに追いつかれないように、必然的に駆け足になる双子の片割れが重心を崩して躓き、絨毯(じゅうたん)が敷かれた床の上に転がった。
「――大丈夫か、リカルド?」
 ディートハルトは翡翠の瞳を持つ王子の前に屈み込んで手を差し出す。
 フィオレンティーナの兄の名を譲り受けたリカルド王子は転んで膝を打ち付けたのか、丸い瞳が今にも涙に濡れそうだ。
「ほら、男の子だろう。泣くな」
 小さな身体を掬いあげて胸に抱けば、リカルドの顔がパッと華やいだ。離れまいと小さい手でディートハルトの胸にしがみついてくる。
「泣いてないな? 偉いぞ」
「本当? お父さま、リカルドえらい?」
 小首を傾げるリカルドに、ディートハルトは笑みを返す。
 子供が生まれてからは、表情が優しくなったと言われる。ディートハルトとしては、あまり自覚はなかった。
 何故なら、フェリクスの変化の方が劇的だった。
 三年前、ナハティバルの砦から帰還したフィオレンティーナは疲れから寝込んだ。大丈夫だろうかと気を揉んでいる皆の前で、侍医が王妃の懐妊を告げた。
 思ってもみなかった事態に呆気にとられ言葉を失う皆の前で、しかし、侍医は妊婦を軍に同行させるなど、言語道断だと簒奪王として王宮でも恐れられているディートハルトに食ってかかってきた。
 妊婦には確かに辛い行軍だっただろうと思うが、その時は妊娠など知らない。理不尽な説教に思わず、反論しようとすれば、どうやらフィオレンティーナは自らの妊娠を知っていたらしい。
 ナハティバルの砦が陥落した報がアルベルトからもたらされたとき、フィオレンティーナはその日の午前に侍医の診断を受け、妊娠を知らされていたようだった。
 あの日、フィオレンティーがわざわざディートハルトの執務室までやって来たのは、そのことを報告するためだったようなのだが……反対に不穏な報を聞かされて倒れてしまった。
 そのときのことを思い出せば、寝室に駆け込んできた侍女のジュリアがやけに焦っていた。彼女も妊娠を知っていたのだろう。
 だが、軍に同行するフィオレンティーナを止めることはできなかった。
 もしユリウスが生きているのなら、フィオレンティーナの納得できる形で答えを見つけなければ、子供を育てていく上でも問題だと思ったらしい。
 フィオレンティーナと共に口を噤んで、遠征に同行し――結果、母体と赤子に深刻な影響はなかったといえ、寝込んでしまった。
 一連のことを知ったフェリクスの怒りは凄まじかった。ディートハルトですら聞いた事のないような皮肉と厭味の数々をフィオレンティーナとジュリアに投げつけた。
 ――言われるだけの行いをしている自分を省みろ、と。
 皮肉に対するフェリクスの言い分が、少しだけ納得できた。
 厭味を言われるだけのことをしたのだ。ユリウスの死の真相をフェリクスから聞かされなかったのも、そういう理由なのだろう。
 殺したと思い込んでいる人間に、何を言っても無駄だと判断したのだろう。ディートハルトが、自分が犯したことに後悔を抱えてからも、何も言わずにいたのは、それが必要だったのだ。
 だから、フェリクスがフィオレンティーナの行為に対して、ねちねちと皮肉を言い、もしものことがあった場合の危機感をあおるのは、致し方のないことだろうと、納得しないでもない。
 自分の身体ではないから、どこまでの無茶ができるのかはわからないが、腹に子供を抱えて下手すれば一か月以上にもなろうかという道程を過ごすのは、無謀が過ぎると言えるだろう。
 しかし、フィオレンティーナとジュリアの主従の二人が、手を取り合って震え、泣きだしそうになるまで、辛辣な毒の(むち)を振るうことはないだろうと、ディートハルトとアルベルトは説得にかかった。
『あまり皮肉を聞かせると、生まれてくる赤ん坊がフェリクスみたいな皮肉屋になっちまう。俺、嫌だぜ? フィオナ似の女の子が、口を開いた途端に厭味たらたらと垂れ流しはじめたら』
 まだ腹の中にいるのに、女の子と決めつけていたアルベルトの言葉に、フェリクスも考えるところがあったらしい。
 舌鋒(ぜっぽう)の矛先を収めれば、身体に良いとされる良薬を取り寄せてはフィオレンティーナの元に運んでいた。
 そうして、子供が生まれてみれば、フェリクスは厭味や皮肉という言葉を忘れてしまったかのように、二人の王子に様々なものを贈って来た。まだ文字を知らぬうちから、歴史書を送って来られたときはフィオレンティーナも苦笑していた。
 次代の王として、双子を育てることを楽しみにしているらしい。
 それでいて、子供たちが勉強嫌いの一面を見せれば、さぞかし目くじらを立てるかと思えば、「子供は子供らしく」ととってつけたようなことを言って、二人の王子たちの御機嫌を取っていたのだから――結構、甘い。
 そんなフェリクスと反対に、まったく変わらないのはアルベルトで、生まれてきたのが男だと知ると、見るからにガッカリと言いたげな、恨めしそうな顔を見せた。
『男は幾ら可愛くても、がっかりだ。嫁に貰えねぇじゃないかっ!』
 いつからお前は、年下好みに変わったんだと、ディートハルトを呆れさせた。
 それでいて、もう少し育てば子供たちに剣術を教えてやるんだと息巻いている辺り、子供が嫌いと言うわけじゃないのだろう。
 あまりに女に見向きされないから、幼少時から手なづけようと企んだのか。
 ――馬鹿な男だが、何となく憎めない。
 だがしかし。今後、フィオレンティーナが姫を産んだのなら、アルベルトをどこか遠い地にやった方が安全かもしれないと、考えもする。奴に『お義父さん』などと言われた日には、赤毛頭をかち割りかねない。
 幼馴染みの意外な一面や変わらない一面に、くすりと思い出し笑いをすれば、ディートハルトの腕の中でリカルドが小鳥のように首を傾げる。
「ああ、何でもない。クリームのパイ、楽しみだな?」
「うん」
 大きく頷いて笑うリカルドに目を細めて、歩き出せば双子の片割れが付いてこないことに気づいた。
「どうした?」
 肩越しに振り返ると、鏡を見るような蒼い瞳がじっとこちらを見上げて、もじもじと身をくねらす。
 何かを言いたげなその仕草に、ディートハルトは床に片膝をついて、手を差し出した。
「――ほら、ユリウスも抱いてやる」
 名前を呼んでやれば、リカルドと同じようにパッと顔を喜色に輝かせる。ぶつかるように飛びついてくる王子を抱き上げて、ディートハルトは歩き出した。
 両腕の重みと温もりがやたらと、フィオレンティーナの身体に双子の命が宿っていることを知らされてからの記憶を刺激する。
『――愛してあげてね?』
 腹部をパンパンに膨らませたフィオレンティーナが、愛おしそうに自分の腹を撫でながら言ってきたとき、まだどこか己が父親になれるのか、ディートハルトには不安だった。
 その不安が何なのか判じかねていたとき、彼女の言葉がその答えを出してくれた。
 親に愛された経験のない自分が、己の子供を愛せるのか、自信がなかったのだ。
『愛せると思うか?』
『大丈夫、私に優しくしてくれるみたいに、愛してあげればいいの。ほら、簡単でしょう?』
 言葉で言うほど簡単なのかと思っていたが、生まれてみると不安は杞憂だった。
 こちらに伸ばしてくる手をどうして、振り払えるというのだろう。
 幼い日、繋いで欲しかった手の温もり。記憶はないけれど、それを切望していた自分を想像できれば、縋ってくる小さな手がこの上なく愛しく感じられた。
 ユリウスという名前を出したのも、ディートハルトからだった。
 果たして視界にこちらの姿が映っているのか、否か。蒼い瞳を薄く開かれた瞼の奥に見つけたとき、「ユリウスという名前は、おかしいか?」と、誰ともなしに問いかけていた。
 フィオレンティーナは嬉しそうに笑って、
『じゃあ、この子たちの名前はユリウスとリカルドね』
 と、翡翠の瞳を持つ、もう一人の王子の名をつけたのだった。
『この子たちには幸せになって欲しいわ。ユリウス様やお兄様が、私の幸せを望んでくださったように、今度は私たちがこの子たちの幸せを望むの。きっと、人の想いはこうして巡って続いていくのね』
 感慨深げに呟くフィオレンティーナに、ディートハルトは頷いた。
『……そうだな』
 少しずつ形を変えながら、想いは続いて行く。
 例え、形は変わっても想いが真実なら――結ばれる絆も本物だろう。
 ディートハルトは分かり合えなかった異母弟を想って、子供たちを愛そうと心に誓った。
 どちらに国を譲るかなどは、決めない。その時が来れば二人で選べばいい。大人になる頃には、自分に何ができるのか、知ることになるだろう。互いに足りない部分を補って、二人の王が誕生したとしても、それはそれでいい。
 その時までは二人には同じだけの愛情を与えよう。
 自分が踏み込んでしまった間違った道を二人に辿らせずに済めば、抱えた傷も孤独も、背負うべきものだったのだろうと、ディートハルトには思えた。
 渡り廊下から見える窓の外、緑が鮮やかに萌えるシュヴァーンの短い夏を眺める。
 強くなる日差しの温度と空の青さに目を細め、今度、水遊びに双子を連れて行こうかなどと考えながら、ディートハルトは、家族が増えてから王城敷地内に建てた小さな離宮へ向かう。部屋数など数えるほどしかないその建物を「鳥籠(とりかご)みたいだな」とアルベルトは笑っていた。
 国を背負う以上、決して自由ではないけれど。
 この鳥籠のなかに見つけた楽園をディートハルトは生涯守っていこうと思っていた。
 窮屈に見えるかもしれない鳥籠のなかに、それでも幸せがあったのだ。
 豪奢(ごうしゃ)な檻の中にも、瞬きの幸せがあったように。
 その真実をディートハルトは知っている。
 鳥たちだけが許されたその空間には、アルベルトもフェリクスも遠慮していた。
 離宮の玄関先を横切って、庭へと向かう。
 そちらの方から軽やかに弾む歌声が響いてくる。フィオレンティーナが茶の席の準備をしているのだろう。この離宮では、彼女は女主人として全ての家事を自ら取り仕切っていた。時折、掃除に失敗しては、ジュリアに泣きついているようだが……。
 くすりと笑って、ディートハルトは芝生の上に置いたテーブルに真っ白のクロスを被せている彼女に、
「――レナ」
 愛しい名を声にのせて囁けば、フィオレンティーナが満面の笑顔でディートハルトを迎えてくれた。

 ――お帰りなさい。


               「飛べない鳥たちの恋歌・瞳に映る真実 完」

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