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 15,届く声


 ――どうか、ユリウス王子の最期のお言葉をお受け取りください。

 赤茶けた封書はかさかさに乾いていた。
 封蝋(ふうろう)はほとんど、剥がれかかっている。紙に散った染みはルキノの血だろうか。
 長い月日を感じさせる手紙を胸に抱いて、フィオレンティーナはルキノに訊ねる。
「あなたはこれをユリウス様に託されたから、エスターテ城から姿を消したのね」
 フェリクスが言っていた捕虜の人数が合わないという行方不明者は、ルキノのことだった。確認を取ると、首肯した。
「引きずってでも、ユリウス王子を城外へお連れすべきだったのだと思います。後ろ髪を引かれながら部屋を出たところで……わたくしは」
 ルキノが首筋の引きつれた傷に触れて、ディートハルトに目を向ける。
 深い藍色の瞳に浮かぶ炎のように燃える感情は、敵意だけとは言い切れない。
 恐らくルキノは、ディートハルトと対峙しながら、彼をみすみすユリウスの前に通してしまった自分自身に、怒りを覚えているのだろう。
 ユリウスを守れなかったことを「罪」と言う、ルキノの言葉に彼の自責の念が表れている。
「ディートハルトに斬られたのね」
「……はい。気を失っていたのはそう長くはなかった。しかし、意識を取り戻して、部屋に戻りましたら……ユリウス王子は崩れた外壁の下におられ……僅かに覗いていた腕で脈を取りましたところ、既に……」
 項垂れるルキノは静かに涙をこぼした。床に敷いた薄汚れた絨毯(じゅうたん)に雫が染みる。
 そして、ルキノは同じように瓦礫(がれき)の下になっていたディートハルトの生存を確かめなかった。ユリウスの死があまりにも明白であったから、頭を強打し血を流していたというディートハルトも死亡していると思い込んだのかも知れない。それとも、時間がなかっただけなのか。
「それからあなたは、私にユリウス様のお声を届けるために、抜け道を使って、城を出た。そして、今まで」
 再び、顔を上げて、ルキノは語った。
「戦況がかんばしくなく、帝都になかなか戻れませんでした。ようやく帝都が解放されたときにはフィオレンティーナ様、貴女様はシュヴァーンへと連行されていた。そして新たな王の妃に迎えられたという話でした。婚礼の儀を行い正式に迎えられたと聞かされても、わたくしは……」
「無理矢理、神に誓わされたと?」
 式を迎えるまでのフィオレンティーナを知っていたら、誰もが彼女が結婚を心から望んでいたとは思わないだろう。
 今でこそ、この結婚を祝福してくれているジュリアも、フィオレンティーナが国のために犠牲になるのだと心を痛め、泣いていた。
 でも今、フィオレンティーナはディートハルトのことを「夫」と躊躇(ちゅうちょ)なく言える。
 愛していると胸を張って言える。
 ユリウスを愛していたことに嘘がないように、ディートハルトに対するこの想いも嘘ではないから、ルキノの疑念を払うようにフィオレンティーナは微笑んだ。
 そんな彼女の表情を目にして、ルキノは言い訳をするように口にした。
「シュヴァーンが帝国領を支配する口実ではないかと思われました。もしそうであるならば、とても許せたものではありません。フィオレンティーナ様、貴女様をお救いしなければ、貴女様にユリウス王子のお言葉をお届けしなければ――わたくしは皇帝陛下に、皇太子殿下に、そしてユリウス王子にも顔向けできず、死んで()びることも、できない」
「死んでは駄目よ、ルキノ。ユリウス様は誰にも傷ついて欲しくないから、城に残ることを選ばれたのよ。その御意志を傍で強く感じたから、あなたはユリウス様を残して、部屋を出たのでしょう?」
「…………わたくしはそのことを後悔しています」
「後悔しても、例え、引き返したとしても、あなたにユリウス様は動かせなかったわ」
 剣を抜き、憎悪を隠しもせず殺気だっていただろうディートハルトを前にしても、ユリウスは揺るがなかったという。既に彼の中では覚悟が決まっていたのだろう。
 そこに秘められた強い決意は、誰にも動かせなかったに違いない。
 きっと、運命すらも彼の意志を動かせなかった。
 フィオレンティーナ自身、心が伴わないままに国のため、ディートハルトに身体を捧げようとしたことがある。あのときは、迷いなんてなかった。大切な人たちを守れるのなら、自分はどうなってもいいと思えた。
 だから、国を背負ったユリウスの最期の決意が、フィオレンティーナには痛いほど理解できた。
 彼の最期の意志によって……ユリウスは豪奢(ごうしゃ)(おり)を棺桶にして命果てたのだ。
 フィオレンティーナにはユリウスの最後の決断を、間違いだったと否定することはできなかった。
「だから、生きて――それに、ルキノ。あなたにはまだ役目があるわ。ここに集った者たちの命を守らなければ。私はね、帝国の生き残りとしてお父様の御遺志を継ぐわ。もう誰にも争って欲しくない。力は奪うためではなく、守るために使って欲しい」
「……フィオレンティーナ様」
「皆に伝えて。武器を捨てて、シュヴァーンへ投降して。反乱の責は後に問うことになるけれど、命を奪ったりしない。そう、私の夫は誓ってくれました」
 フィオレンティーナが目を向ければ、ディートハルトはゆっくりと頷いてくれた。
「ルキノ、これは帝国皇女である私からの最後の命令です。皆に伝えて――私と共に生きて、と。帝国は消えたけれど、お父様の平和を尊ばれた御遺志を胸に最後まで生きて欲しい。それが私の願いです」
「……皇女殿下のお言葉、確かに受け取りました」
 投降を促すために、部屋を出ていくルキノを見送って、フィオレンティーナはディートハルトに目を向けた。
 彼はすべてを悟っているかのように、頷いた。
 胸に抱いていた手紙の封を剥がす。蝋の欠片が砂時計の砂のようにこぼれる。
 乾燥した紙は枯れ葉のように力を込めれば、砕けてしまうような気がした。震える指先で紙を広げる。
 色()せかけている文字は、記憶にあるユリウスの文字だった。
 はらりと、瞳から涙がこぼれる。潤んだ視界に、ぼやけてしまう文字をフィオレンティーナは必死になって追った。


『――親愛なる、ティナへ

 この手紙を君がどのような形で受け取るのか、今の僕には想像つきません。
 恐らく、君がこの手紙を目にするということは、僕は君の声の届かないところにいることでしょう。
 今、僕が置かれている状況を書き記そうかと思ったけれど、時間はあまりないようなので、省こうと思います。
 きっと、僕が伝えずとも、誰かが君の耳に話してくれるだろうから。
 できれば、君がこの手紙を読むことなく、再会できればいいのだけれど。
 ティナ、君に伝えたいことはただ一つです。
 君は僕の希望だった。
 国のために求められた僕は王子という名の人形でした。国を継ぐのなら僕よりずっと優れた人がいたけれど、国が求めたのは僕だった。そこに僕の意志は関係なかった。
 君との結婚も、すべては国が定めたことでした。
 だけど、王子という身分以外、何も持たない人形だった僕を君が愛してくれて、僕は初めて人になれた。
 君の笑顔を見ていると、幸せな気持ちに満たされて、僕は生きていると実感できた。
 君に愛されて、君を愛して、僕は人として救われました。
 ティナに出会えたこと、これは僕の最大の幸運だったと確信するよ。
 ティナ、僕を愛してくれてありがとう。
 君の笑顔が大好きだった。君の笑顔に僕がどれだけ救われたか、この少ない文面で君はわかってくれるでしょうか。もし、不安だったら僕と過ごした時を思い出してください。
 君と過ごしていたときの僕は王子としてではなく、一人の男でした。
 国のことなど忘れて、君の元へ鳥のように飛んで行けたらと、子供みたいなことを思っていました。君に逢える日が待ち遠しく、逢えない時間は君の手紙を何度も繰り返し読んでいました。
 君は僕のことを大人と見ていたから、こんな子供っぽい僕を知れば呆れるでしょうか。
 でも君のことだから、優しく微笑んでくれることでしょう。君の笑顔を想像すれば、僕は僕を待ち受ける未来がどんなものであっても、今も笑って言葉を綴るのです。
 だから、ティナ。君の笑顔がいつまでも続くことを願っています。
 この先に、何が待っているのか、わからない。
 けれど、ティナ。笑顔だけは失くさないで欲しい。
 君の笑顔に救われる人たちはきっと多いだろう。
 僕が君に救われたように、君の笑顔で誰かを幸せにしてあげて欲しい。そして、君もまた幸せであることを。
 愛しい、ティナへ。
 遠く離れても、僕はいつでも君の幸せを願っています。

                       君を愛するユリウスより――』


「……レナ」
 ディートハルトの声に、フィオレンティーナは顔を上げた。
 身体の内側にこれほどの水分があるのかと思うほど、涙があふれる。金の睫毛に弾かれ、こぼれた彼女の涙をディートハルトの武骨な指先がそっと拭う。
「泣くな……大事な手紙が濡れるぞ」
 ディートハルトのらしくない言葉に、フィオレンティーナは目を見張った。
 ユリウスに嫉妬するかと思ったけれど、彼の中でユリウスに対する意識が変化しているようだ。
 くすりと笑って、フィオレンティーナは彼の胸に額を押し付けた。二本の腕が壊れものを扱うように、優しく彼女を包み込む。
 守るような抱擁(ほうよう)に身を任せ、フィオレンティーナは静かに涙を流した。
 ――ユリウス様、今のこの人ならお許しくださいますよね?
 手紙の文面からすれば、ユリウスはディートハルトを次代の王の器として認めていたのだろう。そして、この手紙を書いているときのユリウスは婚約と同時に、フィオレンティーナの婚約に荒んでしまったディートハルトを知らなかった。
 だから、憎悪に染まったディートハルトと対峙したとき、ユリウスは驚愕(きょうがく)したに違いない。
「譲れない」と言ってディートハルトと争ったのは、国の王子としてではなく、フィオレンティーナを守ろうとして、戦ってくれたのではないだろうか。
 ならば、今のディートハルトを前にしたら、ユリウスはきっと剣を収めただろう。フィオレンティーナには確信できる気がした。
 互いに尊重し合うことを教えて貰えていたら、ディートハルトとユリウスは、他の誰よりも互いのことを理解できていたに違いない。
 それが最悪の形で再会してしまった二人が悲しい。
 過去はどう足掻いたところで、取り戻せないのなら、託された想いを未来へと繋げたい。
「……私、愛されていたの。愛されていたわ」
「ああ」
「幸せだったの。ユリウス様に愛されて、幸せだった。ユリウス様だけではないわ、お兄様やジュリア、ルキノ……アルベルトやフェリクス、そして、あなた。沢山の人が私の幸せを望んでくれた」
「……ああ」
「私、これからも幸せでいたい。ユリウス様が望まれたように、お兄様が望まれたように。でもね、一人では笑えないの」
「……レナ」
「一緒に笑ってくれる人がいて、私は初めて笑えるのよ。ねぇ、ディートハルト。私には守りたい沢山の人たちがいるの。だけど、私一人では守り切れない。私が言いたいこと、わかる?」
 今、フィオレンティーナの手のなかには新たな国がある。ディートハルトと末長く守っていこうと誓った国だ。
 大切な人たちが息づくこの国を、私は彼と共に守り生きていく。
 フィオレンティーナがディートハルトに微笑みかければ、彼は笑顔を返してくれた。
「わかる。誓う。お前の笑顔がいつまでも続くよう、俺がレナの守りたいものを守る」
 ディートハルトの誓いの言葉に頷いて、フィオレンティーナも心で誓った。

 ――ユリウス様。フィオレンティーナは、私を守ってくれる大切な人たちと一緒に幸せになります。


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