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 24,閉じられた部屋


 ――花は好きか。

 ただ、彼の胸の中で泣いただけ。それだけだった。
 彼の胸に飛び込んだとき、流されそうになる自分を自覚していたが、ディートハルトは壊れ物を扱うように彼女の髪を撫で、涙が乾き、泣き疲れて眠るまで胸を貸してくれた。
 その一夜を境に、距離が縮まったとは思わない。
 相変わらず、ディートハルトはフィオレンティーナに夜の相手を求めてくることはなかった。ただ、前と同じように髪を撫で、眠るときは両腕に彼女を抱く。
 何も変わらない日々が続く。
 彼女の世界は閉じ込められていて、ジュリアがせめてもの慰めにと、部屋に飾った花を眺める以外に、過ごす術はない。
 雪に長く閉ざされるシュヴァーン王国で、毎日花が欠かされることなく活けられるのは、温室があるのだろう。そこで育てられているらしい花は、南国のものか。(ちょう)が群がったように幾つもの花房を連ねた(らん)が鉢から溢れるように、存在を主張していた。
 それを眺めていたフィオレンティーナの背中に、
「――花は好きか」
 突然、声を掛けられてびくりと震えてしまう。
 肩越しに振り返れば、政務から帰ってきたディートハルトが上着を脱ぐところだった。上着を椅子の背に放り投げ、乱れた漆黒の髪に指を通す。持ち上げた腕に合わせて動く白い影。清潔な白のシャツの内にある(たくま)しい胸に縋って泣いたことを不意に思い出して、フィオレンティーナは目を逸らした。
「……嫌いではありません」
 答えながら、フィオレンティーナはユリウスの元へ向かう際には、必ず花を持参していたことを思い返していた。
 外に出ることが叶わない彼に、せめて季節の香りをと、子供ながらに考えてのことだった。
 カナーリオ帝国は比較的温暖で季節の変化も緩やかであったから、年中豊潤な実りがあり、色とりどりの花が咲き乱れていた。
 両手一杯に花を抱えてユリウスの元へ向かえば、彼は眩しげに目を細めて、彼女を迎え入れてくれた。
 抱きしめられた温もりが唐突に蘇る。それがユリウスの熱なのか、ディートハルトの熱なのか、わからなくてフィオレンティーナは困惑した。
「――他に好きなものは?」
 俯いた彼女の視界に、ディートハルトの靴が見えた。
 顔を上げると、彼は片手を腰に当て、こちらを見下ろしていた。
 蒼い瞳は……前ほどに冷たくはないと感じる。
「えっ?」
「――他に好きなものは?」
 戸惑うフィオレンティーナに、ディートハルトが繰り返す。
 その質問が何を意味するのか、彼女としてはわからずに困惑し、言葉を詰まらせる。
 どんな言葉を返せばいいのか、わからないのだ。反感を買って良いものかどうか。迷ってしまう自分がいた。
 なかなか答えない彼女に()れたように、ディートハルトは舌打ちする。
 子供染みた仕種を垣間見ると、ディートハルトとユリウスがまったくの別人だと実感する。
 そこでホッとすると同時に、何を安心するのかと、フィオレンティーナは自分に問う。
 別人であること、見分けがつくことで、ユリウスへの想いを再確認している自分を彼女は無視できなかった。
「何か好きなものはないのか? 欲しいものは?」
「……欲しいもの?」
「退屈だろう?」
 ディートハルトが頬を傾けて問いかけてくるそれに、フィオレンティーナは笑いそうになった。
 自分をこの(おり)に閉じ込めている本人が口にすべきセリフではないだろう、と。
 それにこちらの機嫌を窺うような言動がディートハルトらしくない。
 しかし、こみ上げてきた笑いは、嘲笑とは言い難かった。ゆるく綻びかけた唇をきつく結んで、彼女は再び目を逸らした。
 今一瞬、心を許してしまった自分を、ディートハルトに気づかれるのが嫌だった。
 顔を背けたフィオレンティーナの顎を、武骨な指が掴む。強引に視線を戻されて、蒼い瞳が彼女を睨む。
 柔らかくなったような気がしていたが、時折、支配権を主張するような手に出る。やはりそんなとき、彼は子供なのだと思わされた。
「人が答えを訊いているのに、無視するな」
「無視したわけではありません……ただ」
 気持ちを見透かされたくなかったから、目を逸らしたのだとは言えるはずがなく、言いよどむ彼女に、ディートハルトは首を傾げた。秀麗な額で、漆黒の髪がさらりと揺れる。
「ただ?」
 明確な答えを求める瞳に、彼女は口から出まかせを吐いた。
「欲しいものがあり過ぎて、答えに迷っただけです」
「何が欲しい? 宝石か?」
「――そんなもの……」
 要らない。
 欲しいものがあるとするなら、ユリウスを、父を、兄を、あの穏やかだった日々を返して、と。
 叫んだところで、叶うはずがない。
 死も、自由も。
 ディートハルトは決して自分に与えてくれはしないだろう。
 ジュリアの存在がある限り、フィオレンティーナとしても簡単に死ぬことなどできないのだが。
 心のどこかで、ユリウスの元へ逝くことを願っている自分も否定できない。
 このまま諾々と日々を過ごしていると、ディートハルトの存在にユリウスの影が塗り潰されてしまいそうな予感があった。
 それでは何のために、自分は生きようと誓ったのか。
 目的を見失わせる生に、彼女は死を求める。
「ドレスは?」
「あなたに見せるために着るのですか?」
 目の前の男を喜ばせるなど、言語道断だと唇が皮肉に歪む。
 現在、フィオレンティーナが身に付けている服はカナーリオから運ばれてきたものだ。ディートハルトのカナーリオ帝国侵攻が始まった二年前の型であるから、流行遅れであるだろうことは推測がつく。鮮やかだった色も()せはじめている。
 現在、どのような型が流行っているのか知らないが、着飾ることにフィオレンティーナの心は動かない。
 むしろ、自分が敗戦国の人間である証として、ぼろを纏いたいくらいだ。
 ユリウスのために、宮廷の女官たちと声を弾ませながらドレス選びをしていた日は、もう(かえ)れない遠い日の思い出だ。胸の奥が熱く焦がれ、苦しくなるだけだった。
「お前が望めば、舞踏会を開いても良い」
 ディートハルトにとってはかなりの譲歩だろう。それに目を見張り、やがて彼女は重々しく首を横に振った。
 シュヴァーン王国の者たちが自分を見る侮蔑(ぶべつ)の視線を思い出せば、この閉じられた部屋が何よりも安息できる場所のように思えてきた。
「……いいえ。私を誰の目にも晒さないで……」
 聞こえてくる悪意に耳を塞ぐことが出来ないのなら、侮蔑の眼差しからは逃れたい。
 それでも時折、投げつられる冷酷な視線を思い出し、奥歯を噛み鳴らして震えるフィオレンティーナをディートハルトの腕が抱く。
「――お前は俺の正妃だ」
 だから、何も恐れるな、と囁かれた言葉と肩に触れた手のひらの温度に、フィオレンティーナは涙を流し、首を振って抗った。
 そうしなければ、その言葉に逃げ込んでしまう自分の弱さを、彼女は知っていたから。


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